Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

「一千人の交響曲」をめぐって

2016年09月10日 | 音楽
 マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」のパーヴォ・ヤルヴィ/N響の見事な演奏を聴いて、あれこれ考えたので、以下、とりとめもなく。

 この作品の第2部はゲーテの「ファウスト」の終幕の場をテクストにしているが、ゲーテの「ファウスト」に心酔していたマーラーが、それを音楽化しようと思ったとき、終幕の場をテクストに選んだことは、考えてみれば、一つの決断だったと思う。

 終幕の場はたしかに「ファウスト」の最終結論かもしれないが、「ファウスト」の中では、ファウストもメフィストフェレスも登場しない特異な場でもある。ファウストの死後、ファウストの魂が天上に昇っていく場。難解だといわれているが、その哲学的・宗教的な解釈はともかく、芝居として考えると(戯曲としてでもよいが)、取ってつけたような感じもする。

 それをテクストに使うということは、当然ながら(演奏者も聴衆も)「ファウスト」の物語が頭に入っていることを前提としているが、それでもやはり、結論部分だけを取り出すことには、創作上のリスクがあったのではないだろうか。

 マーラーがあえてそれやったからには、それなりの勝算があったはずだ。それは女声の表現力にたいする信頼だったのではないかと感じた。聖母マリアとグレートヒェン、その前に登場するマグダラのマリア、サマリアの女とエジプトのマリア、これらの女性キャラクターを女声で歌うことによって、「永遠に女性的なるもの」が表現できると‥。

 芝居でも(女優が演じるので)表現できるとは思うが、「ファウスト」第2部では終幕の場はあまりにも短いし、そもそも(第1部とちがって)第2部は上演可能な戯曲なのかどうか疑問だ(第2部が上演される機会は稀だろう)。

 マーラーは作曲に当たり、第1部のテクストに賛歌「来たれ、創造主である聖霊よ」を使い、それに応えるものとして、第2部のテクストにゲーテの「ファウスト」の終幕の場を使ったと説明される。それは事実だろうが、わたしの想像では、マーラーの心の中にはいつも「ファウスト」があり、「来たれ、創造主である聖霊よ」を作曲したことにより、ついに「ファウスト」に付曲する契機をつかんだのではないかと思う。

 ワーグナーも「ファウスト」に基づく交響曲を書こうとしたが、完成しなかった。でも、「ファウスト」(とくに第2部)からの影響は「ニーベルンクの指輪」の台本の細部に痕跡をとどめていると思う。
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