Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ゴドーを待ちながら

2011年04月16日 | 演劇
 サミュエル・ベケットの演劇「ゴドーを待ちながら」。不条理演劇の代名詞のような作品だが、今回はニュアンスがちがった。3.11の大震災があったから。なにもない舞台は、津波で破壊された被災地のようだ。ヴラジミールとエストラゴンは被災者。一瞬にしてすべてが失われる事態が現実となった。不条理は、観念ではなく、現実となった。

 今回の公演は妙に重いものになった。わたしたち観客は、なにもない舞台に、瓦礫のやまを見てしまう。日々テレビで見ている映像が、そこに重なる。それは俳優たちも、演出その他のスタッフも、同じだろう。プログラムに掲載された座談会によると、3.11の当日は稽古をしていたそうだ。稽古は中断。三々五々帰宅したが、大混乱の都内では、まともに帰れた人はいない。この経験は舞台に刻印されているはずだ。

 今回の公演は、半世紀にわたる上演史のなかでも、特異な位置を占めるにちがいない。何年もたって振りかえったとき、3.11の非常時でなければ見えないものが、見えた公演だった、という具合に記憶されるだろう。

 重い感じがしたのには、もう一つの要因がある。それは、少年役を除いて、俳優たちの年齢が高かったことだ。演出の森新太郎さんは、その意図についてこう言っている。

 「それと今回のキャスティングは、少年以外は70代にさしかかろうという年齢の方たちに限らせていただいた。それはこの芝居の底には時間との闘いというものがあって、歳を重ねるということは時間と闘ってきたことでもあり、そういう肉体をもった人間が、どういう闘いぶりを見せるのか、そこにこだわろうと思ったからです。」

 なるほど、と思う。だが、反面、この作品の明るい空気感が、(語弊があったら申し訳ないが)淀みがちだったのも事実だ。

 ゴドーが来ないことは、だれもが知っている。だが、年齢によって、その感じ方はちがうだろう。若ければ、来るかもしれないと期待をもつこともできる。でも、年をとれば、信じることはできない。あれこれの暇つぶしにも熱中できない。そのことが舞台から感じられてしまった。

 これは付随的なことだが、特殊な客席形状も、重い感じがした一因だ。小劇場の中央にステージを設け、それをはさんで観客が向き合う。わたしの目の前には、ステージの向こう側の観客がいる。まるで鏡に写ったわたし自身のようだ。自らの姿を意識するのは、どんな場合でも気が重い。
(2011.4.15.新国立劇場小劇場)
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