先週の日曜日(4月17日)に千葉県の浦安市に行ってきました。東日本大震災で液状化が起きた場所です。JR京葉線を降りて外に出ると、無惨に浮き上がったエレベータが目に入りました。あれは浮き上がったのではなく、地盤が沈下したからです。報道写真で見てはいましたが、実物はものすごい迫力でした。
駅前にはスーパーがありました。開店前で何人もの人が並んでいました。みなさん、水を求めているのでした。水道は復旧したと報道されていましたが(下水道はまだ)、実情はちがうのでしょう。
どこといってあてもなく、歩き始めました。歩道の敷石がひび割れていたり、植え込みが崩れていたりします。なぜか砂が溜まっています。歩道だけではなく、植え込みにも、いや、気がつくと、街のあちこちに溜まっています。白くてきれいな砂です。手で触ってみると、サラサラしてきめの細かい砂でした。砂は液状化のためでした。地面から水が噴き出し、水が引いた後、砂が残ったのです。
浦安市の約4分の3は埋め立て地です。1960年代から始まった埋め立て事業によって造成された土地です。街の下にはこのような砂があったのでしょう。わたしもショックでしたが、住んでいるかたもショックだったでしょう。
とくに目的があったわけではありませんが、今川地区のほうに行ってみました。道が崩れたり、波打ったりしていて、被害の大きさがわかります。電信柱が傾き、民家に倒れかかる寸前のものもあります。傾いてしまった家もあります。洗濯物が干してあったので、まだ住んでいるのでしょう。ほかに行き場がなければ、しかたがありません。これからこの家をどう直せばよいのかと、ひとごとながら、頭を抱えてしまいました。
今川地区から高洲地区に足を向けてみました。小さな公園がありました。漁業記念公園という公園です。入り口に3枚の大きなパネルが立っていました。埋め立ての前の、貝や海苔や魚をとっていた漁村のころの浦安です。1960年代になって、埋め立て事業の波が押し寄せました。漁師たちは、説得されて、泣く泣く漁業権を売ったそうです。その無念さを語り継ぐための公園でした。
東京の喧騒からはなれて、細々と漁業で暮らしていた浦安。高度成長の波にのって、埋め立て事業で一気に拡大した浦安。近年は、潮の香り漂うおしゃれな街に変貌した浦安。そのどれもが浦安だとしたら、今の、液状化でガタガタになった浦安は、どういう意味をもつのかと、なんだかそんなことを考えていました。
駅前にはスーパーがありました。開店前で何人もの人が並んでいました。みなさん、水を求めているのでした。水道は復旧したと報道されていましたが(下水道はまだ)、実情はちがうのでしょう。
どこといってあてもなく、歩き始めました。歩道の敷石がひび割れていたり、植え込みが崩れていたりします。なぜか砂が溜まっています。歩道だけではなく、植え込みにも、いや、気がつくと、街のあちこちに溜まっています。白くてきれいな砂です。手で触ってみると、サラサラしてきめの細かい砂でした。砂は液状化のためでした。地面から水が噴き出し、水が引いた後、砂が残ったのです。
浦安市の約4分の3は埋め立て地です。1960年代から始まった埋め立て事業によって造成された土地です。街の下にはこのような砂があったのでしょう。わたしもショックでしたが、住んでいるかたもショックだったでしょう。
とくに目的があったわけではありませんが、今川地区のほうに行ってみました。道が崩れたり、波打ったりしていて、被害の大きさがわかります。電信柱が傾き、民家に倒れかかる寸前のものもあります。傾いてしまった家もあります。洗濯物が干してあったので、まだ住んでいるのでしょう。ほかに行き場がなければ、しかたがありません。これからこの家をどう直せばよいのかと、ひとごとながら、頭を抱えてしまいました。
今川地区から高洲地区に足を向けてみました。小さな公園がありました。漁業記念公園という公園です。入り口に3枚の大きなパネルが立っていました。埋め立ての前の、貝や海苔や魚をとっていた漁村のころの浦安です。1960年代になって、埋め立て事業の波が押し寄せました。漁師たちは、説得されて、泣く泣く漁業権を売ったそうです。その無念さを語り継ぐための公園でした。
東京の喧騒からはなれて、細々と漁業で暮らしていた浦安。高度成長の波にのって、埋め立て事業で一気に拡大した浦安。近年は、潮の香り漂うおしゃれな街に変貌した浦安。そのどれもが浦安だとしたら、今の、液状化でガタガタになった浦安は、どういう意味をもつのかと、なんだかそんなことを考えていました。