Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

コンヴィチュニーの「サロメ」

2011年02月23日 | 音楽
 ペーター・コンヴィチュニー演出の「サロメ」をみた。昨日始まったばかりなので、これからご覧になるかたも多いはずだ。具体的な描写はできるだけ避けて、とりあえずの感想を。

 最近はさすがにコンヴィチュニー演出も「既視感をおぼえる」といわれることがあるようになった。それはそのとおりかもしれない。今回もその例外ではない。たとえば幕切れの(客席の)演出。あっと驚く演出だが、以前の「魔弾の射手」(ハンブルク歌劇場)と同様の手法といってしまえばそれまでだ。

 だが、感想がそこにとどまってしまえば、コンヴィチュニーを経験したことにはならない。コンヴィチュニーがなにをしようとしたのか、あるいはなぜそうしたのかを考えるなら、やはり多くの収穫が得られるだろう。

 たとえば上述の(客席の)演出。手法は同じだが、意味合いが180度ちがう。「魔弾の射手」の場合は、危機に陥ったヒロイン、アガーテの救済者としての役割だった。言葉を変えるなら、ハラハラして見ているわたしたち観客の代弁者だった。けれども今回は、ある意味ではサロメを食い物にしている――というといいすぎだが、興味本位で見ている、あるいは恐いもの見たさで来ている――わたしたち自身の姿を突きつけるものだ。

 コンヴィチュニーの意図は、そういうゴミ溜めのなかにいるサロメを救い出そうとするものだった。

 歌手たちは、コンヴィチュニー演出に合わせようと、みな頑張っていた。なかでも、はまり役は、これはもう想像がつくが、ヘロデ役の高橋淳さんだ。冒頭、イエスの最後の晩餐を思わせる横長のテーブルに就いて、酒やセックスにふける他の人たちとは無関係に、ヘッドフォンの音楽に陶酔する姿など、笑ってしまった。
 一方、サロメ役の林正子さんは、体当たりの演技だったが、演技と歌の両方で硬さがあった。わたしたちを受け入れる余裕がもう少しあるとよかった。

 5人のユダヤ人ほか、脇を固める歌手たちにはムラがあった。こういう歌手たちの言葉がはっきり聴き取れ、アンサンブルとしてまとまってくると、全体はさらに向上する。

 指揮はエッセン歌劇場で実績をあげているシュテファン・ゾルテス、オーケストラは都響。最初はやや上滑りしている感じだったが、だんだんまとまってきて、音楽が深まっていった。昨日は初日。オーケストラはもっとよくなるだろう。
(2011.2.22.東京文化会館)
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