Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

影のない女

2010年06月16日 | 音楽
 先日、何気なく新国立劇場の「影のない女」をめぐるブログを見ていたら、台本にたいする否定的なご意見がいくつかあった。私は重層的な構造をもつ見事な台本だと思っていたので――シュトラウスは例によって文句たらたらだったが――、これは意外だった。

 私は5月23日の公演をみて、その翌日に演出にたいする疑問を書いたが、台本にたいして疑問をもったことは一度もない。今回の演出は台本の重層性をとらえそこなった演出だというのが私の意見。音楽はみなさん異口同音に絶賛しておられるが、台本だってその深層に底光りするものをもっていると思う。

 凝りに凝った台本なので、一義的な読み方はかえって弊害がある。多様な解釈の可能性をいかにそのまま許容するかが、自らに課すべき課題だ。その点でドニ・クリエフの演出は、バラクの妻に焦点を合わせすぎ、すべての出来事はバラクの妻の見た幻影というところまで行ってしまったので、たとえば第1幕で乳母が魔法でバラクの妻に美しく着飾った姿をみせるとき、鏡のむこうに皇后がポーズをとっていたり、第2幕で怒りを爆発させたバラクをみて、妻が抱きついて性交をはじめたりするという、身も蓋もない演出になってしまった。

 この台本はモーツァルトの「魔笛」の精神をもって書かれたとは、よく言われるところだが、私には――これは独断と偏見かもしれないが――もう一つ隠された下敷きがあるように思われてならない。それはワーグナーの諸作品だ。皇帝を導く鷹の声はジークフリートの森の小鳥そっくりだし、夫婦の営みを讃える夜番の声はマイスタージンガーの夜警に似ている。妻を罰しようと怒り狂うバラクの手に空中から剣が現れるのはいかにもパルジファル的。もはや音楽を失って台詞でカイコバートに訴える皇后は、ヴォータンに訴えるブリュンヒルデの自己犠牲のようだ。

 この調子で同様のアナロジーをあげていくと、実はきりがないくらいある。これをシュトラウスの生涯の文脈のなかに置いてみると興味深い。シュトラウスは第1作「グントラム」や第2作「フォイアースノート」のときからワーグナーのパロディーと思われるオペラを作っていて、「ばらの騎士」も「マイスタージンガー」の男女を反転させたプロットであることはよく言及される。音楽的には圧倒的な力を認めながらも、その思想には承服しかねるというのがシュトラウスの本音ではなかったろうか。そこから生まれてくるパロディー精神が「影のない女」にも見え隠れしていると思われる。

 もっとも、「魔笛」やワーグナーも一面にすぎない。なにかで割り切ってしまうのではなく、見る角度によってまったくちがうものが見える構造をそのまま楽しむのが、このオペラの楽しみ方だ。
コメント
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