Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

夢の痂(かさぶた)

2010年06月04日 | 演劇
 新国立劇場による井上ひさしの東京裁判三部作の再演シリーズも、あっという間に第3作の「夢の痂(かさぶた)」まで来てしまった。第1作の「夢の裂け目」が初日を開けたその翌日に作者が亡くなるという劇的なスタートを切ったが、その後の月日の速いこと‥。

 昨日はその初日だった。第2作の「夢の泪(なみだ)」のときは、はからずも追悼公演となってしまった初日の舞台は、役者さんの心情がほとばしり出て、前のめりの感もあったが、昨日はそういうことはなく、しっとりとしたアンサンブルが達成されていた。

 この第3作は先行する2作品とはだいぶちがう。先行作品は、東京裁判(第1作)あるいは戦後社会(第2作)の意味を問う、いわば認識の芝居であったが、これはなにかが起きる芝居だ。起きることは驚くべき事態で、それによって人々が浄化される――もってまわった言い方になって申し訳ないが、これからご覧になるかたも多いので、あえて具体的な内容は控えさせていただくことにする。ともかく私は、その場面にいたって、熱いものがこみ上げてくるのを抑えられなかった。

 どうやら歴史とは、起きたことと起きなかったこととの、ダイナミズムからできているらしい。それをコントロールしようとするのが政治だ。ひどいときには、謀略によってでも、あることが起きたことにし、あるいは実際に起きたことなのに、起きなかったことにしたりする。
 戦後政治もそうだった。もっともそれがすべてまちがっていたともいえない。現にこうして経済的に発展し、社会システムも整い、私たちがその恩恵を受けているのは否めない。けれどもそこには封印されたことも多いのだ。

 この芝居で起きることは、実際には封印され、起きなかったことだ。それが起きなかったことにより、いつまでもわだかまりをもち続けている人々を、この芝居は解放する。私は作者の優しさに触れる思いがした。

 先行2作品と同じように、これも音楽劇だが、音楽の使い方は控えめになっている。先行作品では認識が主題であったので、それを心情に転換する装置として音楽が必要になったが、この芝居は認識をこえたものになっているので、音楽の必要性は弱まっている。もはや三部作としてのアイデンティティを保つ意味が残っているにすぎない。

 井上さんの創作行為は、膨大な資料にあたり、苦しみぬいて言葉を刻むことだったようだ。やっとその苦しみが終わった。今は安らかに眠っておられることを。
(2010.6.3.新国立劇場小劇場)
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