Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ジークフリート

2010年02月22日 | 音楽
 新国立劇場が昨年から続けているワーグナーの「ニーベルングの指輪」4部作の再演シリーズ。今回は「ジークフリート」で、これは2003年の初演だが、私はみていなかった。仕事がいちばん忙しいころだったので、余裕を失っていたのだと思う。今回、晴れてその舞台に接することができた。

 結論から言うと、この舞台は――少し大げさな言い方かもしれないが――世界の五指に入るものだと思った。少なくとも歌手と演出、その他舞台美術はそうだ。ジークフリート、ミーメ、さすらい人、アルベリヒを歌った4人の男声陣は最高レベルだし、演出のキース・ウォーナーを中心とした明るく楽しい舞台も比類がない。ここまで全体が高水準だと、オーケストラにはもう一段高い水準を求めたくなる。相対的な線の細さを感じたし、森のささやきの場面での細かなミスも気になった。

 評論的なことはともかくとして、私がこの舞台から得た収穫は2つ。ひとつはヴォータン(さすらい人)が備える威厳だ。ヴォータンはこの楽劇ではその名前を失って、さすらい人としてうろつきまわるだけだが、まだ威厳を失っていないばかりか、権力の維持に汲々としていた前2作よりも威厳を増したように感じられた。権力を失ってはじめて得られる威厳――そのドラマトゥルギーはさすがだ。音楽的には荘重なコラール風の音楽でこれを支えている。

 もうひとつはジークフリートとブリュンヒルデの愛の成就の意味。長い眠りから覚めたブリュンヒルデに、ジークフリートはその神性(=処女性)を捨てて、自分のものになるよう求める。長い問答の末にブリュンヒルデはこれに同意する。その経緯が私にはタンホイザーとエリーザベトの姿と重なって見えた。直前に「トリスタン」と「マイスタージンガー」を書き上げたワーグナーが、この場面で若いころの「タンホイザー」では未解決に終わった問題に決着をつけたのではないだろうか。

 あとは演出上の細かい点のメモ書きを。第3幕冒頭でヴォータンが地下に眠るエルダを訪ねるときの、エルダのいる場所。そこをどう描くかは演出によって異なるが、今回は乱雑に封鎖された映像フィルムの地下保管庫になっていた。これは「指輪」全体を<没落したヴォータンが過去の映像フィルムを無気力に見ている>というコンセプトで構成したキース・ウォーナーが、そのコンセプトを一貫させるためのもの。

 もうひとつは、ジークフリートとブリュンヒルデが愛を歌い上げるラストシーンで、照明に陰影をつけたこと。これは愛に酔いしれる絶唱とは裏腹に、その行き先には影がさしていることを暗示していた。
(2010.2.20.新国立劇場)
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