Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

吉田秀和さんの音楽展望

2009年03月27日 | 音楽
 3月26日の朝日新聞の朝刊に吉田秀和さんの「音楽展望」がのっていた。今回はシェークスピアの喜劇について。最近の吉田さんの文章と同様、今回も、透明で、夢のように優しく、読むものを幸せな気分にしてくれる文章だ。

 話の展開は、いつものとおり、自由な曲線を描いていく。まず、シェークスピアでは「夏の夜の夢」や「じゃじゃ馬ならし」などの喜劇が好きなことを述べ、かつてみた外来公演の「夏の夜の夢」の舞台を思い返し、喜劇における歌の重要性に話がおよび、「お気に召すまま」に登場する歌が例示され、その歌につけたコルンゴルトの音楽にふれ、さらにシューベルトの歌曲「シルヴィアに寄せて」にいたる。
 そして最後の段落はこうなる。
 「こういうシェークスピアの喜劇の数々――心から笑え、楽しめ、優しい気持ちになって家に帰れる芝居。それをまた見たいな。」
 私は、これを読んだとき、思わず微笑んでしまった。これは、もう、批評なんてものではなく、好きなものと戯れる文章だ。こういう文章を書くところまで吉田さんは来たのだと思うと、なんだか、感慨ひとしおだった。

 吉田さんの文章は、今、何ものにもとらわれない自由な境地になっている。これは、おそらく、古今東西、唯一とはいわないまでも、きわめて稀なことだ。こういう文章を同時代に生きるものとして読むことのできる私たちは、なんと幸せなことだろう。

 私は、昨秋、鎌倉文学館でひらかれた吉田秀和展でみた、ピアニストの故フリードリッヒ・グルダの奥様から吉田さんにあてた手紙(2000年3月)を思い出した。その手紙は、吉田さんがグルダの訃報に接して書いた文章にたいする謝意をあらわしたもので、夫のことをこれほど理解してくれた文章はないという趣旨だったと記憶する。私はそこに大人同士の繊細な交流の美しさを感じた。

 今、思い起こしてみると、あの手紙は吉田さんの文章の本質を言い当てていたように思う。吉田さんの羽毛のような神経が、対象の襞の奥深くまでふれて、優しく包んでいく文章といったらよいか。
 そのような文章の一つとして、私が今もなお大切に保存している文章がある。2008年3月の「音楽展望」にのった中原中也の思い出を語る文章だ。それは吉田さんが生涯にわたって書いてきた中也の思い出の美しいピリオドだと思う。

 吉田さんの今の文章を音楽にたとえたら、何になるだろうと考えていたら、モーツァルトのピアノ協奏曲第27番が浮かんできた。明るく、澄み切って、自らを解き放った音楽、常人にはおよびもつかない境地の音楽、そういう音楽こそ共振する。
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