Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

幼な子イエスにそそぐ‥

2008年12月18日 | 音楽
 フランスのピアニスト、ロジェ・ムラロがメシアンの「幼な子イエスにそそぐ20の眼差し」を演奏した。同曲は去る10月に児玉桃もひいたが、残念ながらきけなかったので、期待して出かけた。

 第1曲の「父の眼差し」が始まると、低音の深々とした、柔らかい音響に驚いた。たとえて言うなら、濃い霧がゆっくりと地面の上をたゆたっているような趣だ。今まできいてきた父なる神の厳かな重さとは異なる空間が広がった。
 第3曲の「交わり」では、低音の力強い打鍵に圧倒された。神が人間の身体に入り込むときの暴力的な瞬間を垣間見るような思いがした、と言ったらよいだろうか。ムラロの腕が普通よりも長く見えた。
 以下、最後の第20曲にいたるまで、その演奏は幅広い多彩なタッチを交錯させながら、息つく暇もない目覚しい展開を見せた。誤解を恐れずに言えば、私はショパンの「24の前奏曲」をきいているような錯覚に陥った。

 21世紀に入った今、メシアンにかんする演奏の進化が始まっていると思う。メシアンは今後、さらに多様な演奏が出現し、普通のレパートリーになっていくのではないか。ちょうど20世紀後半にストラヴィンスキーやマーラーがたどった道のように。
 反面、私は反省もした。演奏の面白さに気をとられて、この曲のもつ宗教的な感情を受け止めることがおろそかになったのだ。途中で何度も自分を引き戻そうと思ったが、ついつい音色の変化に興味が向かった。

 全部で20曲からなるこの曲をきいて、私は奇妙なことに気がついた。動的な曲と静的な曲が、ある一定の法則にもとづいて出てくるのではないかと。
 第1部の第1曲から第10曲までの配列は、動的な曲を◇、静的な曲を○で表示すると、○‐○‐◇‐○‐○‐◇‐○‐(○)‐○‐◇となる。第8曲を(○)で示したのは、この曲が鳥たちの世界をえがいて音の動きは細かいのだが、精神的な性格は静的だと思うからだ。
 第2部の第11曲から第20曲までの配列は、○‐◇‐◇‐◇‐○‐◇‐◇‐◇‐○‐◇となる。
 これで見るように、第1部は、静的な曲が基調になって、動的な曲が一定の周期で出現するが、第2部は逆になっている。このことによって、一夜のコンサートが後半にかけて盛り上がる。また全体では静的な曲も動的な曲も10曲ずつで、バランスがとれている。以上のような構成により、この曲を通したリズムが生まれるのだ。

 従来、この曲がいつ作曲されたかは、必ずしも特定されていなかったが、当日のプログラムに載った藤田茂氏の解説によると、1943年末にフランス国営ラジオ放送から依頼され、翌年3月頃に作曲していったものだという。
 そうだとすると、当時のパリはまだドイツの占領下にあったわけだが(パリの解放はその年の8月だ)、この曲には戦争の影がまるでない。イエスの生誕をえがいているのだから当たり前と言えばそれまでだが、私はこの曲の音楽の陰に、当時メシアンの生徒だったイヴォンヌ・ロリオの存在を感じる。彼女は、ピアノの技術の卓越性ということ以上に、ミューズ(詩神)だったのだ。名曲の誕生に当たって、ミューズの存在はときどきある。
(2008.12.16.トッパンホール)
コメント
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