goo blog サービス終了のお知らせ 

後期ゴシック彫刻・市民運動・演劇教育

小学校大学教師体験から演劇教育の実践と理論、憲法九条を活かす市民運動の現在、後期ゴシック彫刻の魅力について語る。

〔267〕【続】ドイツ語で、中世ドイツの彫刻家のネット捜索をしたら、想像を超えた発見がありました。

2020年05月10日 | 美術館・博物館鑑賞
  前回ブログに書いた方法でドイツ語でネット検索したら、中世ドイツ彫刻家についての様々な情報を目にすることができました。リーメンシュナイダーほどではありませんが、意外な人物がドイツでは著名なのだということなどが刻々わかってきて、私はひとり興奮状態でいました。
 日本語の翻訳が不十分ながらも結構参考になりそうだということで、自分なりの中世ドイツ彫刻作家列伝を作ることにしました。
 ところが残念なことに、バリアーがかかっているのか、画像入りは1頁しか印刷できないようになっていたのです。しょうがないので、文章だけをほぼすべてコピーして小冊子を作りました。さらに画像入りの1頁だけを集めて別の冊子を作ったのです。これでなんとか自分なりの中世ドイツ彫刻家資料ができあがりました。
  2種類の自作資料を眺めながら、ひとりで日本語訳に突っ込みを入れたりしながら楽しんで読んでいるのです。
 読み進めるうちにこれらの作家たちに関する動画はないのかが気になってきました。そこでいよいよ動画検索です。これがけっこう楽しくて、実に様々な発見があったのです。簡単に書いておきましょう。
 皆さんもトライしてみてはいかがでしょうか。ドイツ語表記を下掲しておきますのでコピーしてお使いください。

【中世ドイツ彫刻家ドイツ語での画像検索】

■ティルマン・リーメンシュナイダー Tilman Riemenschneider …ドイツ最大の彫刻家(と思います。)
*多数の動画あり。なんとベルリンにあるボーデ博物館館長のジュリアン・シャプュイさん登場です。現在閉館中で2週間前に収録したようです。18分間、聖ゲオルクの前で話しています。数年前に日本にやってきた作品ですね。もちろん話すのはドイツ語ですけどね。シャプュイさんは福田緑が長らく親しくさせていただいている方で、緑の『新・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』(3巻目、丸善プラネット)の前書きを書いていただきました。さらにミヒェル・エーアハルト、ニコラウス・ゲルハールトについても語っていますよ。この動画で全部見ることができます。
●2020/04/16に公開 (画像のコメントより翻訳機で)
ボーデ美術館の館長であるジュリアン・シャプイが、ボーデ美術館のこの特別ツアーにご案内し、希望を広め、現在と現在の両方の保護を伝える画像をお届けします。 そして、このように困難な時期に役立つことができます。 その中には、当時センセーションを巻き起こした後期中世美術のいくつかの主要な作…
https://www.youtube.com/watch?v=mokJvdR6dFc
■ミヒェル・エーアハルト Michel Erhart…リーメンシュナイダーの師とも言われています。
*シャピュイさんの動画は「庇護マントの聖母子像」についてです。前掲『新・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』の表紙を飾っている作品です。

■ニコラウス・ゲルハールト・フォン・ライデン Niklaus Gerhaert von Leyden…リーメンシュナイダーはこちらでも修行したようです。オランダ人
*シャピュイさんの動画は「ダンゴルスハイマーの聖母子像」について語っています。これも『新・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』に収録されています。
*さらにさらに、フランクフルトのリービークハウスのステファン・ロラーさん(博士)解説の二つの動画〔リービークハウス監修のようです〕があがっています。ロラーさんにも緑は親しくさせてもらっています。前ブログで触れたゲルハールトの図録の責任編集者です。昨年サイン入りで直接手渡しで本をいただきました。
 動画の一つはネルトリンゲン聖堂の彫刻で、緑がこの秋出版予定、現在鋭意制作中の『完・祈りの彫刻 リーメンシュナイダーと同時代の作家たち』(4巻目)で力を入れて紹介しています。もう一つがリービークハウスとストラスブールの博物館の作品紹介です。このストラスブールの自刻像は4冊目の裏表紙の候補です。
https://www.youtube.com/watch?v=j7T0YMHqNpg

■ファイト・シュトース Viet Stoss…リーメンシュナイダーのライバルとも(緑の本、3,4巻に多数紹介)
*さすがにクラクフの大聖堂の多数動画がアップされています。ここにはもう一度行きたいと思っています。

■アダムクラフト Adam Kraft…キリストが十字架を背負った数々の像で有名(緑の本、3,4巻に多数紹介)
*2016年ベルリンでの研究会の様子(アメリカアカデミー、1時間13分)が紹介されていました。ニュルンベルク博物館(1:12)の動画もありました。ニュルンベルク博物館に多くの作品があり、そこで図録も出ています。

■ミヒャエル・パッハー Michael Pacher…チロル地方で活躍した絵と彫刻両刀遣いの作家(緑の本、3,4巻に多数紹介)
*アルテピナコテークの有名な絵やオーストリアのヴォルフガング教会などの動画があります。ヴォルフガング教会の祭壇は緑の3巻に収録されています。(教会提供写真)

■ハンス・ムルチャー Hans Multscher…初期の絵と彫刻両刀遣いの作家(緑の本、3,4巻に多数紹介)
*ウルム大聖堂の中に作品が登場してきます。逞しいキリスト像です。

■ハンス・バックオッフェン Hans Backoffen…野外の石の大きな作品が多いようです。
*3巻に登場しますが、映像はまだノータッチです。

■ハンス・ダウハー Hans Daucher…ミヒェル・エーアハルトの孫、アウクスブルクの聖アンナ教会のキリストを支える像が秀逸
*聖アンナ教会のかわいらしい数人の天使たちのごく短い紹介動画です。(緑の本、4巻に多数紹介)

■グレゴール・エーアハルト Gregor Erhart…ミヒェル・エーアハルトの子、ルーブル美術館のマグダラナマリアが有名
*動画はルーブル美術館のマクダラナマリアが多数ありました。(緑の本、4巻に紹介)

■ペーター・フィッシャー Peter Viscyer…金属彫刻家、ニュルンベルクのゼバールドゥス教会の墓碑が最高傑作(4巻掲載)
*なぜか動画は見つかりませんでした。
*ちなみに私のパソコンの現在の立ち上げ画面はアダム・クラフトが枝を折っている像でピーター・フィッシャー の作品です。2人はニュルンベルクの彫刻仲間だったようです。

■エラスムスグラッサー Erasmus Grasser…大胆な踊る人などユニークな作品が多い
*近年開催されたミュンヒェンのバイエルン博物館のグラッサー展の動画がありました。ここのマティアス・ベニガー博士が4巻の前書きを書いてくださるということで楽しみにしています。4巻表紙(素晴らしいですよ!)だけでなく数頁にわたって彼の写真を掲載予定でいます。

■ハンス・ラインヴェルガー Hans Leinberger…逞しい聖母子像や妖しい感じの聖母子像など個性派作家ナンバーワン(と思っています。)
*モースブルクのカストゥールス教会の動画がありました。ここの作品は3巻だけでなく4巻にも紹介する予定です。

 まだまだ作家は数えられるのですがこの程度にしておきます。そのうちにまた紹介したいと思います。

〔266〕ドイツ語で、中世ドイツの彫刻家のネット捜索をしたら、想像を超えた発見がありました。

2020年05月10日 | 美術館・博物館鑑賞
 皆さん、コロナ禍を避けるためにホームステイを余儀なくされていることでしょう。日々何をされているでしょうか。
私は普段できなかったことを時間をかけて取り組みました。まあ、暇つぶしといったところですが。
 まずはなんといってもアマゾンでの書籍販売です。あまりパソコンが得意でない私が、パートナーの協力を仰ぎ、なんとか1,2週間で軌道に乗せたというところです。やらなければならないことが結構ありましたが、少し前のブログに触れましたので、気になる方はそちらをご覧ください。

  さて、ここ1,2日で取り組んだのは、私や妻が今一番関心を寄せているドイツ中世の彫刻家達のことです。生まれた年代と場所、没年と場所、主な作品とその所在地などです。とりわけ作品の画像が見たいのです。
 ところで、これらの日本語の文献はほぼゼロに等しいので、自分でなんとか資料を探し出さなければなりません。ドイツで手に入れたドイツ語文献も限られていて、さあどうしたものかというところです。
 気になる作家達というのは十数人存在しています。中世の彫刻家についてドイツ語で書かれた本が1冊あり、それが作家列伝のバイブルとなっています。
 それとは別に私たちが最近ドイツで手に入れた作家ごとの本は次の通りです。近年出版されたどれも大部な本で信頼が置けるものです。

*ニコラウス・ゲルハールト・フォン・ライデン…フランクフルトのリービークハウス監修の図録
*エラスムス・グラッサー…ミュンヒェンのバイエルン国立博物館監修の図録
*ミヒャエル・パッハー…ベルリンのボーデ博物館で入手したもので個人で執筆している

  日本で情報を仕入れるとしたらもうネットしかありません。手軽にウィキペディアを辿るしかありません。
 ここで大事なことは日本語で検索するよりもドイツ語検索の方が遙かに詳しい情報が得られるということです。一つ例を挙げてみましょう。日本では一番有名なティルマン・リーメンシュナイダーについてそれぞれどう書いてあるか検索してみましょう。わずか数行だけです。

●ウィキペディア、日本語「ティルマン・リーメンシュナイダー」で検索

ティルマン・リーメンシュナイダー(Tilman Riemenschneider, 1460年頃 - 1531年)は、中世のドイツの彫刻家。

 テューリンゲン北部、ニーダーザクセン南東部との境目にあるハルツ山脈付近、現在のアイヒスフェルト郡(ドイツ語版、英語版)ハイルバート・ハイリゲンシュタット(ドイツ語版、英語版)に生まれ、後に家族とともに親戚がいる南方のヴュルツブルクに移住した。
 彫刻のマイスターとしてヴュルツブルクに工房をかまえ、祭壇や墓碑の彫刻を数多く手がける一方、1504年に市議会議員に選出されたのを皮切りに、1520年から1521年までに市長も務めた。 しかし、ドイツ農民戦争の際、元市長として戦争に加担したとして逮捕され、利き腕をへし折られて、再び彫刻家として活躍ができなくなったという。そのため、晩年は失意のうちに没した。
 ローテンブルクにある聖ヤコブ教会の聖血の祭壇
参考文献  植田重雄著『リーメンシュナイダーの世界』(恒文社)


 以上、これだけです。
 ところがドイツ語版では、膨大な記述があるのです。もちろん翻訳がおかしな箇所はいっぱいあるのですが、だいたいの記述内容は判読することができます。


●ウィキペディア、「Tilman Riemenschneider」で検索、ドイツ語を日本語に翻訳したものでそのごく一部

 ティルマンリーメンシュナイダー (1460年頃-1531年7月7日)は、 ドイツの 彫刻家であり、1483年からヴュルツブルクで活躍した木彫り師でした 。
 生まれ 1460年頃 ハイリゲンシュタットイムアイヒスフェルト 、 神聖ローマ帝国
 死亡しました 1531年7月7日 ヴュルツブルク 、 神聖ローマ帝国
国籍 ドイツ人
職業 彫刻家
アクティブな年 1473年頃から1527年まで

 ティルマンリーメンシュナイダーは1460年頃、現在のテューリンゲン州の ハイリゲンシュタットイムアイヒスフェルトで生まれました。 [2] : 2
 リーメンシュナイダーが約5歳のとき、彼の父親は暴力的な政治紛争、 Mainzer Stiftsfehde [ de ]に関与していたため、家族はハイリゲンシュタットとそのすべての所有物を残さなければなりませんでした。 彼らはオステローデに再定住しました 。そこで父は造幣局の主人となり(当時は良い地位になりました)、リーメンシュナイダーは幼少期を過ごしました。
 リーメンシュナイダーはおそらく1478/9で18歳のときに初めてヴュルツブルクに来ました。 [2] : 2彼の叔父はそこで司教の公証人および財務顧問を務めましたが、彼は長く滞在しませんでした。 1473年頃、リーメンシュナイダーは、おそらくシュヴァーベンやアッパーラインで、おそらくストラスブールやウルムで 、彫刻と木彫りの貿易を学びました。 当時、彫刻家のギルドの法令は、経験を積むために見習いが多くの異なるワークショップに行くことを要求しました。 彼の人生のこの時期についてはほとんど知られていませんが、おそらく銅版画が彼に例として役立ったマーティンショーガウアーの作品に触れた可能性があります。

  1483年、彼はヴュルツブルクに定住した。 [2] : 2 1483年12月7日、彼はセントルークの画家、彫刻家、ガラス工のギルドに画家の助手として加わりました。 1485年2月28日、彼は3人の息子を持つ金工の巨匠の未亡人、アンナシュミット(ウヘンホーファー生まれ)と結婚しました。 この結婚は彼に財産をもたらしただけでなく、それは彼が彼の見習いを終わらせて熟練した職人になることができることも意味しました。
 また、1485年にリーメンシュナイダーはヴュルツブルクの市民となり、職人としての地位を確立し、妻の家であるフランツィスカーナガッセにワークショップを開きました。 [2] : 2

 彼の最も初期の確認された作品は、 リンパーのプファルキルシュのエバハルトフォングルムバッハの墓石です。 これは彼が大規模な教会の委員会を取得する前に始めたタイプの仕事かもしれません。 彼はヴュルツブルクの町議会と近隣の町から多くの命令を受け始めました。 彼に起因する最も初期の大きな作品は、 ローテンブルクオプデアタウバーの 聖ヤコブ教会の フランツィスカ ルタルであり、教会のガイドブックに「約1490」と記載されていますが、その日付の他の作品と比較したスタイルはかなり原始的であり、 [3] 1490年、 ミュンナーシュタットの市議会は、 聖マリアマグダレナの祭壇に6人の天使のマリアマグダレーナの彫刻が含まれた教区教会の祭壇画を注文しました。 それは1492年に設立されました。1491年に、ヴュルツブルクの市議会は、 アダムとイブの 2つの等身大の石像を、評議会の教会の南ポータル、 マリエンカペレ (1493年に建立)に注文しました。 [2] : 2

  1494年、リーメンシュナイダーの最初の妻が亡くなり、3人の継母と1人の娘を残しました。 時代と地位に合わせて、1497年に再婚したアンナ・ラポルト。 [2] : 2彼女は彼に2人の娘と3人の息子を産みましたが、その全員が父親の芸術的才能を受け継いでいるようです。 1495年、彼は子供と一緒にマリア像(ヴュルツブルクの聖バーナード教会 )を作成しました。
 さらに注目を集めた作業は次のとおりです。1496年、リーメンシュナイダーはヴュルツブルク大聖堂で王子ビショップルドルフフォンシェレンベルクの墓を彫るよう命じられました。 1499年に納品されたのと同じ年、 バンベルク大聖堂に帝国の墓が注文されました(1513年に納品)。
  1500年までに、彼はアーティストとしての名声を高め、ヴュルツブルクの裕福な市民になりました。 彼は多くの家を所有しただけでなく、自分のブドウ畑を持つ地主でもありました。 彼の盛んなワークショップでは、40人もの見習いが木彫り、彫刻、絵画を行っていました。
  1504年11月、リーメンシュナイダーは、ヴュルツブルクの町のウンテラート (評議員)のメンバーになりました。この事務所は、1525年まで保持されていました。 [2] : 3この事務所は、社会的地位をもたらしただけでなく、多くの収益性の高い注文。
  1508年、リーメンシュナイダーはマルガレッタヴュルツバッハと結婚しました。 1509年から1522年まで、彼はOberratのメンバーを4回務めました。 彼は再び結婚し、1520年に、その名はマルガレーテだけが知られている女性でした。 1520/1年、リーメンシュナイダーはヴュルツブルクの市長でした(中世には、常にこの地位にある2人の人々が同時にいました)。 [2] :
 注文が大量にあったときに地方政治への関与が高まったことで、ワークショップのアウトプットの作成において彼の弟子たちがより重要な役割を果たしたことを意味しました。 美術史家は特定の人物を個々の労働者の作品として識別することができました。 [2] : 11?12

  ドイツ農民戦争の間 、リーメンシュナイダーは町評議会のメンバーの1人で、 ヴュルツブルクの王子司教 、 コンラートフォンテュンゲンの反乱する農民との戦いの命令に従わなかった。 [2] : 23 1525年6月4日、農民の軍はヴュルツブルク郊外のゲオルク軍、ヴァルトブルクツァイルのスチュワード、司教によって8,000人が殺害されました。 町が降伏した後、リーメンシュナイダーを含む町議会全体がマリエンベルク要塞に投獄され、拷問を受けた。 彼の芸術的キャリアを終えた拷問の間に彼の両手が壊れたという主張は、実際には根拠のない伝説であると今日考えられています。 [2] : 24それはおそらく彼の「再発見」の後の19世紀に始まったにすぎません。 [4] : 24残りの議会と共に、ティルマンは2か月後に解放され、財産のほとんどが失われました。 この後に彼が受け取ったと知られている唯一の命令は、1527年のキッツィンゲンのベネディクト会の尼僧院での作業でした。 [2] : 4,23 1531年7月7日にヴュルツブルクで亡くなるまで、彼は4人目の妻と引退した生活を送っていました。 彼の再婚した息子のヨルクは、彼の死後もワークショップを続けた。

 リーメンシュナイダーは地位を失ったため、すぐにアーティストとして忘れられました。 彼の墓石が1822年にヴュルツブルク大聖堂とノイミュンスターの間に発見されたときのみ、より多くの聴衆に認められたゴシック彫刻における彼の卓越した地位がありました。 アルブレヒトデューラーやファイトストスとは異なり、リーメンシュナイダーは死後初めて真の名声を得ました。

 

 このあと〔アート〕〔主な作品〕〔文学〕〔参照〕〔外部リンク〕と続くのです。その分量といったら半端ではありません。
大事なことを書き落としていました。画像のことです。画像までコピーするとかなりの手間がかかるので、今回はそこまでしていませんが、「リーメンシュナイダー」では2枚、「Tilman Riemenschneider」はそうとうの枚数が掲載されています。

  そこで、中世ドイツの彫刻家をドイツ語で検索してみることにしました。そしたら、結構おもしろいことがいろいろわかってきました。(つづく)