屯田兵の移住は、「厚キ保護」を受けたといはいえ一大決心でした。
祖先伝来の孜々営々(ししえいえい)として築き上げてきた人と土地の関係を断ち切り、未知の地にダイビングするぎりぎりの選択でした。
その移住までの道筋の大略は次のとおりです。
1.召募地域に公示し、希望者を募りました。
2.応募者の適否を決定し、
3.春に合格者に通知され、
4.当日集まった希望者を船で上陸地に運ぶ
5.上陸地で入地場所や家屋が決定され、
6.それに基づき隊が編成され、
7.集団で現地に入るました。
屯田兵移住者心得は、まるで幼児を諭すような文言が続きました。
出発前の心得では、家屋敷を売り払い、背水の陣をひくように求めました。
そして、荷物については1戸に付8個以内、総重量は72貫まで、などです。
乗船場及び乗船の心得では、船室は各県別に分かれ、病気になると医者に申し出る、子どもを甲板に出さない、などが記されていました。
次に、明治18(1885)年7月入地の野幌屯田の移住の道のりをみていきましょう。
石川、鳥取、佐賀、熊本、鹿児島の5県138戸が、佐渡丸にて小樽港に入ったのは、6月30日です。
小樽で一泊し、そこで兵屋の番号くじを引きました。
翌7月1日、幌内鉄道の運炭用無蓋貨車で手宮から江別駅(註野幌駅は未開設)に到着しました。
週番所(中隊本部)のある現江別小学校の近くに集合し、宣誓式に臨みました。続いて、幹部からこまごました事項の注意がなされました。
「式が終わると、新兵たちは、家族と一緒にまた長い不規則な列になって、一里もある野幌第四中隊の兵屋に向かって歩き出しました。
(中略)
物をさえぎる密林はいよいよ深くなっていきました。
その薄暗い道を通って、やがて新兵たちは、野幌兵村に到着しました。
(中略)
村道から見る兵屋は、幾抱えもある大木と熊笹の間からわずかに屋根の一部が見えるだけである」(『士族屯田兵』)。
註 :江別市総務部「新江別市史」145-146頁.
写真:北海道指定文化財 野幌屯田兵第二中隊本部
江別市野幌代々木町38