明治15(1882)年2月、北海道行政は、札幌・函館・根室の三県一局体制に分治されました。
開拓使は、十年計画が終了する明治15(1882)年1月廃止されました。そして、北海道行政は、札幌・函館・根室の三県一局体制に分治されたのです。
当時、参議伊藤博文の命を受けた太政官大書記金子堅太郎は、道内の実情をつぶさに視察し、帰郷後「北海道三県巡視復命署」を提出しました。
太政官は、明治14(1881)年12月28日の達において、
1.県地ノ区域ヲ画シ県庁ノ位置ヲ定ムル事
1.県庁ノ経費並み官民費ノ区分ヲ定ムル事
1.所属諸鉱山及ヒ鉄道処分之事
1.所属諸牧場其他開墾地等処分之事
1.所属船舶処分之事
1.所属諸器械所処分之事
1.屯田兵処分之事
1.学校処分之事
の八つの項目を挙げて、廃使後の具体的処置の調査を命じました。
開拓使は、向こう十カ年の目処として、諸般の事業を推進してきましたが、開拓の経綸がこれをもって成功したとも考えられず、開拓長黒田清隆としては、なお、数年の経営を欲していました。そこで、明治14(1881)年明治天皇の御巡幸を仰ぎ、現今の開拓の実状を奉上し還幸の後、廃止置県の宸断を仰ぐつもりでした。
ところが、これより先、開拓長官黒田清隆をはじめ高官らは、大阪の財閥である五代友厚らと気脈に通じ、関西貿易商会なるものを設立して、これに開拓使の施設経営にあたる官有物一切を、わずか30万円の価格をもって、無利子15年年賦をもって払下げるという事件がありました。この為、国内朝野の世論が沸騰し、激しい攻撃があり、特に政界における薩長の勢力を駆使しようとして、参議大隈重信をはじめとし福沢諭吉らの三田派、あるいは開拓使の通商権を握らんとする三菱会社一派などが入り交じり、新聞は勿論各所に演説会を開くなど大変な事態となってしまったのです。
そこで、政府もやむなく一旦与えた払下げを取り消すと共に、明治14(1881)年12月28日をもって、黒田長官を翌年明治15(1882)年1月より内閣顧問に任じ、参議農商務卿西郷従道が長官に兼任される旨の達示が発布されたのです。
また、同年、明治15(1882) 年2月6日をもって、下記のとおり北海道三県制の達示が発布されました。
「開拓使ヲ廃シテ函館・札幌・根室ノ三県ヲ置ク」
こうして、太政官布告八号をもって、開拓使を廃止し、函館・札幌・根室の三県を置くことになったのです。
三県の序列は、函館圏は三府五港の一つとして新潟県の次位に、札幌・根室の両県は、一般県として沖縄県の後に、それぞれ位置づけられることになりました。
註 :北海道江別市役所「江別市史」・北海道「新北海道史第一巻通説二」参照。
写真:江別創造舎制作「江別カルタ図案化ポスター」の北海道の図柄が3色に塗り分けられています。
これは、この北海道三県一局制を示しています。