第2期授産計画も画餅に帰しました。
開拓使がどう考えようとも、樺太アイヌ対雁移民の生活手段の中心は漁業です。
それは、彼らにとっては、文字どおりの生きる業でした。
民族の業であり、開拓使の目論見がどうあろうとも、自然、生活の根拠は対雁を離れ石狩へ、厚田へ、と移っていきました。
多くの働き盛りの男と女は、2月の声を聞くと厚田の鰊場へと稼ぎに出かけました。
次いで、5月から2ヶ月ほどは来札(石狩)などで鰊漁、9月に入ると雪のちらつく季節まで石狩川沿岸の漁場で鮭漁に汗を流しました。つまり、対雁に戻るのは、正月前後のわずかな期間です。
中には、石狩、厚田の漁場の仮小屋で年を越す者も現れ、しかも年々増えていきました。
鮭漁場は、石狩沿岸に3箇所、すなわち、①知狩、②来札、③シビシウス、それに対雁が加わりました。
それに対雁には、「俗称男場所、女場所との2箇所」(『樺太アイヌ叢書』)がありました。
いわゆる前浜と上向です。
鰊漁場は、厚田の①別刈番屋、②中番屋、③崎番屋の3箇所でした。
強屈な青壮年のなかには、豊漁を求め、利尻、礼文など樺太近海の島へ出稼ぎに行くものもいました。
これら6つの漁場は、開拓使が用意し、また各漁場に漁具、船、庫などを備えつけました。
開拓使は、これら経費の一切を移民の漁業収益金で回収しようと目論見ました。
(中略)
第2期を含めた授産計画の達成は、移民自身のためにも、開拓使にとっても重要な課題となりました。
開拓使も一方の当事者です。
結果は、己自身に降りかかります。だから、各漁場に雇員(和人漁夫)を貼り付け、指導と監督に力を入れました。
つまりは、事実上の官営事業と変わりありません。
金を出し、そして口も出しました。
結局は、多義にわたった開拓使の施策も、大局、効果的なものにはなりません。
授産計画に即していえば、第2期は米塩支給廃止や水害などの影響、それに旧漁法から脱し得なかった漁業経営は、年々赤字(明治13年だけ黒字)を重ねていきました。
完済計画は、机上の空論となりました。
註 :江別市総務部「新江別市史」135ー137頁.
写真:対雁製網所 新築開業式(明治13年)
同上書136頁掲載写真3-8を複写し、江別創造舎ブログおよび江別創造舎facebook掲載いたしております。