明治15年(1882年)2月、政府は、10年計画終了とともに開拓使を廃止しました。
この間、開拓使の性格等につき、さまざまな論議がなされましたが、大筋は開拓中の臨時的、特殊的な官制で、やがて内地同様の府県を置く方向にありました。
開拓使の廃止とともに、北海道は3県(札幌、函館、根室)に分けられ、各県はもっぱら地方行政を行うことになりました。
開拓使時代の官営事業や開拓事業は、中央各省の所轄となりました。
しかし、翌16年、これら官営事業を統括するため、農商務省内に、北海道事業管理局が設けられました。
ここに、いわゆる3県1局体制がひかれ、北海道庁が置かれる19年1月まで約4年間続きました。
3県への移行は、開拓使時代の保護策の打ち切りを意味しました。
対雁の移民業務は札幌県に引き継がれました。
その残務整理と今後の活計(案)を検討したのは、県属となった上野正です。
彼はまず、次のとおり借金の後始末の処分案を上申し、これが認められました。
一、漁業資金の借入11万4千839円62銭4厘中、償還済分は8万1千126円2銭7厘
二、上の全額3万3千713円59銭4厘のうち、2万777円52銭は政府において補填
三、政府補填後の残額1万2千926円7銭7厘は移民の共有積立金より支払いました。
また、鮭漁場、鰊漁場、共有地などとともに、物件が共救組合に無償で譲り渡されました。
註 :江別市総務部「新江別市史」137頁.
写真:写真:「北海道の歴史」116掲載図を複写・掲載しています。