戦後の学校施設整備の変遷は、30年代半ば頃までを第1期としました。
すなわち、6・3制の実施による中学校の建設、あるいは戦前、戦中と放置されていた老朽校舎の改築、増築に息急き切って走り回った時代です。
第2期は、30年代後半から約20年間、人口の急増に伴う新設校ラッシュと、冒頭にみた農村の過疎化に伴う閉校を含めた配置再編の時代でした。
39年1月、東野幌小学校が開校しました。
これは、38年春、東野幌地区に完成した炭坑離職者団地(520戸)の学齢児対策として、従来の第二小学校分教場を新築し、あらためて独立校としたものでした。
当面、入居が本格化するまでの暫定措置として、3学級(定員75人)編成の複式授業が行われました。
これは、団地開発が引き金となった新設校の誕生でしたが、39年からの大麻(おおあさ)団地の開発は、この比ではありませんでした。文字通り、校舎の増築と新設校の建設に追われることになりました。
開発当時、大麻(おおあさ)団地の既設校は、大麻(おおあさ)小学校(明治34年開校)だけでした。
しかも、39年まで一部複式授業が行われていた、小さな学校でした。
団地の入居開始とともに、増築に次ぐ増築に追われました。
『昭和39年住宅団地の造成が始まる。ブルドーザーやダンプのいききする音、杭打ちする音が飛び交い、どんどん住宅が増え続けました。
鉄筋コンクリート校舎、体育館、低学年校舎と、継ぎ足していきました。
目まぐるしい変化、迷路のような今と同じ、大麻(おおあさ)小の形が出来上がっていきました。5年後の昭和44年、31学級、児童数1,345人。石狩管内で一番のマンモス校になった。』(開校90周年記念式典「児童喜びの言葉」)。
かくて、大麻(おおあさ)小学校はまたたくうちに超大規模校となり、学校機能のうえからも、団地内の小学校新設が急がれたのでした。
註:江別市総務部「えべつ昭和史」519-520頁.
写真:昭和41年3月新野幌小学校卒業式・廃校式
同上書519頁掲載写真を複写し、当ブログ掲載いたしております。