このたび、江別カルタ⑰ 「れ」の句をご紹介いたします!
煉化もち
明治の姿
今もなお
煉化もちは、明治34年(1901年)、久保兵太郎が発案し、佐野利吉によって製品化された江別の銘菓です。
久保兵太郎は、北海道炭鉱鉄道会社の煉瓦工場の経営者でした。
煉化もちが、煉瓦の瓦を使用せず煉化の化としたのは、食べ物に瓦は相応しくないということから、化という文字が使用されました。
野幌駅の駅売りでも評判をとり、大正期に出された百番付で、幕内に位置していました。
また、石川啄木の日記や久保栄ののぼり窯にもその名が登場します。
昭和60年(1985年)、製造元が廃業し、一時途絶えましたが、
平成5年(1993年)、山サ煉化餅本舗に寄り煉化もちとして再生しました。
(参考)
当ブログ2008年 7月21日(月) 「江別村商家」
*江別カルタメール問合せ先:江別創造舎事務所<北翔大学田口研究室>
E-mail taguchi@hokusho-u.ac.jp
註 :江別カルタ<江別創造舎制作>「れ」の句解説書引用
写真:江別カルタ「れ」の句詠み札と取り札
このたび、江別カルタ⑯ 「た」の句をご紹介いたします!
タント節
一世風靡の
はやり唄
今井篁山(明治35年<1902年>-昭和58年<1983年>)は、岩手県水沢市生まれの民謡家です。
大正14年(1925年)に江別に居を移し、折から始まったラジオ電波に乗せて、新しい北海民謡の創出と普及で、一世を風靡しました。
昭和28年(1953年)、江別大火に被災し札幌に移転、その後も北海道生まれの民謡を中心に、普及と後継者の育成に尽力しました。
*江別カルタメール問合せ先:江別創造舎事務所<北翔大学田口研究室>
E-mail taguchi@hokusho-u.ac.jp
註 :江別カルタ<江別創造舎制作>「た」の句解説書引用
写真:江別カルタ「た」の句詠み札と取り札
このたび、江別カルタ⑮ 「よ」の句をご紹介いたします!
洋風の
モダン建築
石田邸
旧石田邸は、昭和20(1945)年頃、北海道煉瓦に勤めていた石田惣喜知が会社のハネ品を使って建てた住宅です。
この旧石田邸は、3階建で、延107坪(約353平方メートル)、正面玄関の右側が半円状に張り出す特異な形状をしています。
平成6(1994)年4月、グリーンモール内にガラス工芸館として再生されました。
旧石田邸の外観はそのままに、内部をガラス工房とし、平成16(2004)年3月まで米原眞司がその後、柿崎均が常駐し、創作活動を続けています。
*江別カルタメール問合せ先:江別創造舎事務所<北翔大学田口研究室>
E-mail taguchi@hokusho-u.ac.jp
註 :江別カルタ<江別創造舎制作>「よ」の句解説書引用
写真:江別カルタ「よ」の句詠み札と取り札
本日から2日間センター試験!受験の皆様、頑張ったください
このたび、江別カルタ⑭ 「か」の句をご紹介いたします!
学業の
神様祀る
天満宮
錦山神社は、明治19年(1886年)、現在の天徳寺付近に伊勢大神宮遥拝所として小祠が設立され、これが創始となりました。
25年に野幌兵村練兵場(現野幌公民館付近)に移転、伊勢大神宮より御分霊を拝載しました。
35年2月、北海道庁長官当て神社名「江別神社」で神社創立願を提出しました。
しかし、この願いは叶いませんでした。
政府には一村一社の方針があり、野幌にはすでに殖民社の神社が公許を得ていたからです。
結局実現したのは、昭和17(1942)年7月、当初から呼び慣らされていた錦山神社(無格社)の社号公称だけでした。
主神=天照大神、左座=豊受大神、右座=加藤清正であり、昭和2(1927)年1月は、現在地に移転しました。
昭和48(1973 )年、太宰府天満宮から菅原道眞公の御分霊を奉載し、錦山天満宮と改名し、今日に至っています。
*江別カルタメール問合せ先:江別創造舎事務所<北翔大学田口研究室>
E-mail taguchi@hokusho-u.ac.jp
註 :江別カルタ<江別創造舎制作>「か」の句解説書引用
写真:江別カルタ「か」の詠み札と取り札
このたび、江別カルタ⑬ 「わ」の句をご紹介いたします!
わいわいと
二年詣りの
賑やかさ
初詣は、北海道神宮はもとより、近隣近在の神社まで出かける年中行事として、日本人の生活に定着しています。
年の初めに神社に詣で、家族の健康や無事を祈ったり、事業の成功や志望校への合格を祈願します。
この初詣、江戸時代まではごく一部の人が行う厳かなものでした。
交通機関の発達によって遠方の神社仏閣に参詣できるようになり、急速に今日の姿に近づきました。
二年詣りとは、大晦日に午後11時を過ぎる頃家から出て、零時を回る頃参詣が叶う、このことを表したのが二年詣りと言われている所以を伝えられています。
*江別カルタメール問合せ先:江別創造舎事務所<北翔大学田口研究室>
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註 :江別カルタ<江別創造舎制作>「わ」の句解説書より一部引用
写真:江別カルタ「わ」の詠み負だと取り札
江別カルタの詠み札と取り札の裏側には、江別市総務部承諾を得て江別市章が配されています。
このたび、江別カルタ⑫ 「を」の句をご紹介いたします!
大麻<おおあさ>に
駅舎ができて
半世紀
昭和39年(1964年)12月、道営大麻<おおあさ>団地への入居が始まりました。
将来人口2万人を見込む同団地にとって、通勤通学や買い物などのため、交通手段の確保が急務でした。
バスと鉄道のふたとおりが検討されました。
①団地が国鉄線に隣接、②通勤通学人口が8千人と大量、③所要時間が短い、といったことから国鉄大麻<おおあさ>駅の新設が急がれることとなりました。
道や市の積極的な誘致運動の結果、いくつかの条件づきながら、昭和41年(1966年)4月、設置に向けた動きが具体化しました。
7月には工事が始まり、12月15日開業の日を迎えました。
開業の運行状況は、上り7本、下り8本でした。定期券は、1ヶ月通勤で1,290円、通学が610円でした。
団地誕生から10年後の昭和49年(1974年)、人口は全市の4分の1強でしたが、大麻<おおあさ>駅の乗降客は、江別・野幌・大麻<おおあさ>3駅の半数近くを占め、47%に達していました。
(参考)
当ブログ2009年 7月29日(水)「大麻<おおあさ>駅開設
当ブログ2009年 1月31日(土)「宅地開発一大麻<おおあさ>団地の起工
当ブログ2008年 10月28日(火)「野幌駅の開業」
当ブログ2008年 7月 2日(火) 「札幌ー対雁ー江別ー岩見沢道路開通」
当ブログ2008年 6月22日(月)「国内3番目に開通した幌内鉄道ー江別駅の誕生」江別カルタ<江別文化・歴史を題材とした江別カルタ!
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*江別カルタメール問合せ先:江別創造舎事務所<北翔大学田口研究室>
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註:江別カルタ<江別創造舎制作>「を」の句解説書より一部引用
写真:江別カルタ「を」の詠み札と取り札
詠み札と取り札の裏面には、江別市総務部の承諾を得て江別市章が配されています。
このたび、江別カルタ⑪ 「る」の句をご紹介いたします!
類のない
この土地だけの
古墳群
昭和6年(1931年)、後藤寿一によって江別古墳群が発見され、その一部が発掘調査されました。
道路工事に伴う調査などにより、12基の存在が確認されています。
また、現在では、18基が旧豊平川を眼下に見下ろす丘陵上に残されています。
古墳には、蕨手刀、毛抜形刀、耳環や勾玉など本州からもたらされたものが副葬品としてあります。
江別古墳群は、群集墳の最も北に位置し、北海道に現存する唯一の古墳群として、当時の北海道と律令支配が及んだ地域との交流を考えるうえで重要な遺跡とされています。
平成10年(1998年)9月、国の史跡に指定されました。江別カルタ<江別文化・歴史を題材とした江別カルタ!
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*江別カルタメール問合せ先:江別創造舎事務所<北翔大学田口研究室>
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註:江別カルタ<江別創造舎制作>「る」の句解説書より一部引用
写真:江別カルタ「る」の詠み札と取り札
詠み札と取り札の裏面には、江別市総務部の承諾を得て江別市章が配されています。
このたび、江別かるた⑩ 「ぬ」の句をご紹介いたします!
ぬかるみを
刈り分け道が
国道に
札幌・江別間の道路は、明治5(1872)年、早くも対雁街道が開通しました。
札幌から白石村を経て、江別に達する道路が開通するのは、明治22(1889)年です。
市内の道筋は、大麻(おおあさ)高校付近(大曲)から四番通りに入り、八丁目通りを南下し、一番通りを左折(北海道銀行野幌支店)し、江別駅前へ抜けました。
大正9(1920)年施工の道路法(旧)によって、札幌〜江別〜岩見沢〜旭川が国道に認定され、27号となりました。江別カルタ<江別文化・歴史を題材とした江別カルタ!
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註 :江別カルタ<江別創造舎制作>解説書一部抜粋
写真:江別カルタ「ぬ」の句詠み札と取り札
このたび、江別カルタ⑨ 「り」の句をご紹介いたします!
陸橋を
渡る石炭
比羅夫号
明治13(1880)年、北海道開拓使は、幌内鉄道の建設に着手しました。
当時の基幹エネルギー・良質の石炭を幌内炭鉱で採掘し、手宮港から積み出す手段でした。
鉄路が野幌の原始林を直線的に横断したため、途中深い峡谷にかかっている木橋を渡ることになりました。
これが、野幌の陸橋で、現在の大麻<おおあさ>西公園付近に当たります。
この時、機関車や客車は、米国から完成品やキットの形で輸入しましたが、やがて手宮工場で生産を行うようになりました。
広いカウキャッチャー(排障器)と煙突の形に特徴のある機関車は、「義経」・「弁慶」・「光圀」・「比羅夫」・「信広」・「静」と名付けられました。
江別カルタ<江別文化・歴史を題材とした江別カルタ!
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註 :江別カルタ解説書「り」の句より引用
写真:江別カルタ「り」の句詠み札と取り札
このたび、江別カルタ⑧ 「ち」の句をご紹介いたします!
千歳川
右岸遺跡で
鮭捕獲
昭和53(1978年)、北海道縦貫自動車道千歳川大橋の橋脚を建設中に、遺跡が偶然発見されました。
低湿地のため、多くの木製の遺跡がそのまま発見されました。
また、川の蛇行による湾曲部からは、ヤマブドウやヤナギの小枝を絡めた遺構が発見されました。
その内、木製のヤスリやモリ先などの漁具が出土しました。
これらは、縄文前期(約2,000年から700年前)の漁労の様子を理解するうえで貴重な資料となりました。
出土した中の59点は、平成5年(1993年)6月、国の重要文化財に指定されました。
*以上、江別カルタ<江別創造舎制作>解説書一部抜粋して掲載いたしております。
写真:江別カルタ 「ち」の句詠み札と取り札