このたび、江別カルタ⑦ 「と」の句のご紹介をいたします!
土器文化
古代が息吹く
遺跡群
野幌丘陵は、石狩川、千歳川(江別川)、豊平川の三つの川に囲まれた地域であり、石狩平野に半島状に突出した丘陵地帯を形成しています。
この一帯は、先史時代の遺跡が密集している地域であり、続縄文時代から擦文時代初頭にかけての遺跡が集まっています。
江別市内には、およそ140か所の遺跡の存在が知られています。
*以上江別カルタ解説書より抜粋
写真;江別カルタ「と」の詠み札と取り札
*江別カルタは、江別の文化・歴史を題材としたいろはカルタで、江別創造舎が制作<2013年9月に初版を発行>いたしました。
江別カルタ外箱と解説書には、江別産小麦ハルユタカ原料加工紙を使用しています。
現在、第2版<初版解説書一部文字校正済>販売中です。
このたび、江別カルタ⑥ 「へ」の句をご紹介いたします!
別天地
涼風そよぐ
千古園
千古園は、野幌地域の開拓を北越殖民社のもと、民間開拓団として稀に見る成功裡に導いた関矢孫左衛門(1844-1917)が居を構えたところです。
関矢孫左衛門は、晩年、耕された山野を一望に「道菴」と称する庵を結び詩作にふけっていました。
同所に、髪、爪の他、印、茶器等日常愛用の品を埋め、その上に碑が建てられ、自ら留魂と墨しました。
そして、この碑を中心に庭園を築いて、千古園と称したのです。
昭和30年代になって、江別市が購入し、都市公園として整備されました。
昭和46年(1971年)8月12日には、江別市の指定文化財になりました。
註:江別カルタ<江別創造舎制作>解説書一部抜粋
写真:江別カルタ「へ」の句 詠み札と取り札
このたび、江別カルタ⑤ 「ほ」の句をご紹介いたします!
坊主山
望むその地に
発電所
古砂丘は、かつて野幌丘陵の北端、旧豊平川南岸沿いに東から坊主山、飛烏山、神社山と半円状に連なっていました。
これは、今から約3万年前噴出した支笏火山の火山灰が二次堆積したものです。
坊主山は、昭和初期から、河野広道、名取武光、後藤寿一らによって度々調査され、後期江別文化を代表する遺跡として知らています。
昭和35年(1960年)、この地に北海道電力の火力発電所が建設されることになり、河野広道(当時、北海道学芸大学教授)らによって5回にわたって発掘調査され、その後の火力発電所建設によって山はその姿を消しました。
しかし、今は、その火力発電所もなくなり、跡地には、ほくでん総合研究所が建っています。
註:江別カルタ<江別創造舎制作>解説書一部抜粋
写真:江別カルタ「ほ」の句詠み札と取り札
このたび、江別カルタ「に」の句をご紹介いたします!
二十人
一級町村
議員の誕生
昭和18年(1943年)まで、北海道の町村には、1級と2級の区別がありました。
1級と2級の違いについて、最も異なっていた点は、首長が北海道庁から派遣されるか、議会が選べるか、ということでした。
江別は、明治39年(1906年)4月2級町村制を施行、江別・篠津・対雁の3村を合併した江別村が成立しました。
その後、富士製紙の工場進出などで人口が増加し、3年後の明治42年(1909年)4月には1級町村へ移行しました。
明治42年6月、1級町村としての初めての議員選挙が実施されました。
その際選出された20名の議員には、関矢孫左衛門、岩田外喜男がいました。
また、初議会村長選挙では、篠津出身の名越源五郎が当選しました。
(参考)
当ブログ2016年 4月 9日 「江別カルタ③ <は>の句!」
当ブログ2016年 4月 6日 「江別カルタ② <ろ>」
当ブログ2016年 4月 4日 「江別カルタ① <い>
当ブログ2016年 3月29日 「江別第三小学校3月閉校~江別カルタが語る円形校舎~」
当ブログ2016年 3月25日 「本日!江別市産業遺産の再生~EBRI誕生!」
当ブログ2009年 1月 4日 「江別神社郷社昇格」
当ブログ2009年 1月 3日 「集落生成過程に重要な寺院創始」
当ブログ2008年12月21日 「飛烏山神社から江別神社に改称」
註:江別カルタ解説書より引用
写真:江別カルタ<江別創造舎制作>「に」の句
このたび、江別カルタ 「は」の句をご紹介いたします!
萩ヶ岡
江別神社は
古砂丘に
萩ヶ岡は、天然の萩に覆われた小高い山でした。
それは、約3万年前にできた古砂丘の名残をとどめており、平地に囲まれたこの地で頭一つ抜け出す目だった存在でもありました。
それゆえ、屯田兵の配置と共に中隊本部が置かれ、明治20年(1887年)には第三大隊本部が置かれました。
明治26年(1893年)には、江別神社が創建されました。
江別神社は屯田兵大隊本部の命を受け、明治23年(1890年)4月25日、飛烏山に創建されたのです。
その後、明治26年8月8日、江別駅前の萩ヶ岡に移転し、江別神社と改称しました。
祭神は、天照大神、大国主命、加藤清正です。
大正6年(1917年)には、村社、大正15年(1926年)には郷社となっています。
毎月9月9日に例祭が執り行われています。
(参考)
当ブログ2016年 4月 6日 「江別カルタ② <ろ>」
当ブログ2016年 4月 4日 「江別カルタ① <い>
当ブログ2016年 3月29日 「江別第三小学校3月閉校~江別カルタが語る円形校舎~」
当ブログ2016年 3月25日 「本日!江別市産業遺産の再生~EBRI誕生!」
当ブログ2009年 1月 4日 「江別神社郷社昇格」
当ブログ2009年 1月 3日 「集落生成過程に重要な寺院創始」
当ブログ2008年12月21日 「飛烏山神社から江別神社に改称」
註:江別カルタ解説書より引用
写真:江別カルタ<江別創造舎制作>「は」の句
江別カルタ「ろ」の句をご紹介いたします!
炉を染めて
歴史をつなぐ
赤レンガ
江別駅の南側を東に歩き、
東光橋を渡って右折すると、覚良寺(かくりょうじ)という寺院に行き当たります。
この地は、明治23年(1890年)、江別で初めて煉瓦が焼かれた場所としても知られています。
「江別太煉瓦石工場製」とくぎ書きの銘がある煉瓦を同寺の中野覚良氏が伝えていました。
明治30年代になって、北海道炭鉱鉄道株式会社の野幌工場(明治31年4月)、濱端陶器製造所(明治32年4月)、舘脇煉瓦工場(明治33年5月)と工場設置が相次ぎました。
特に、北炭と舘脇は向かい合って建ち、野幌の2大工場として長く競争関係にありました。
(参考)
当ブログ2015年 1月 5日(月)「れんが百年」
註:江別カルタ解説書<江別創造舎制作江別カルタより>
写真:江別カルタ「ろ」の句
江別カルタ 「い」の句ご紹介!
生き生きと
学ぶ喜び
文京台
昭和39年(1964年)4月、江別市は理想的な市街地を形成するため、都市計画法に基づく用途地域の指定を受け、住宅は住宅地域に、商店は商業地域に、工業は工場地域にと、それぞれの指定のtいい気に棲み分けすることにより、快適な生活空間を確保することをねらいとして実施しました。
40年代に入ると、この年の指定用途地域には文教地区指定はありませんでしたが、宅地化への傾斜と共に、一方においては道都札幌に隣接し、後背地に野幌森林公園があるという条件は、文教地区としても注目されていました。
こうした矢先、昭和40年(1965年)、北海道立図書館、北海道女子短期大学(現北翔大学・短期大学部)が札幌から移転することとなり、建設が始まりました。
S42年当時の北海道女子短期大学
S42年4月新築移転した道立図書館
既設の酪農学園のキャンパスと共に文教都市構想の気運を一気に高めていきました。
その後、昭和42年(1967年)開学した札幌商科大学(現札幌学院大学)の他、北海道立教育研究所、北海道埋蔵文化財センターなどの研究機関、北海道農業共同組合学校などの専門学校の集積が進み、一大文教ゾーンへと変貌を遂げました。
昭和43年5月、西野幌地区が用途地域の追加指定を受け、現在の文京台地区一帯が新たに住居地域と住居専用地域に指定され、風俗営業関係などの建築が制限されることになりました。
また、同じく5月には、野幌原始林が北海道100年記念事業の一つとして道立自然公園に指定されました。そして、森林保全区域など整備されることが正式に決まりました。
(ご参考)
当ブログ2012年11月 26日(水)「学校教育の多様化2」
当ブログ2014年 9月 5日(金)「本日!北翔大学短期大学部創立記念日!」
当ブログ2014年 8月 14日(木)「法人創設75周年!北翔大学短期大学部開学50周年!」
当ブログ2014年 4月 10日(木)「民間のスポーツ施設」
当ブログ2013年 6月 21日(金)「江別・2世紀への決意」
当ブログ2012年11月 7日(水)「学生と下宿」
当ブログ2012年11月 4日(日)「文教地区建築条例」
当ブログ2012年11月 3日(土)「用途地域の指定」
註:江別カルタ解説書<江別創造舎制作江別カルタより>
江別市総務部「えべつ昭和史」311-312頁一部引用
写真:江別カルタ「い」の句