隆平にはしばらく事態が飲み込めなかった。
『奥儀伝授』と言われても実際には何も教わってないわけだし、何の修練もしていない。修の意図が読み取れずにいた。
紫峰家で暮らすようになってから、透や雅人に相伝の話は聞いていたから、ふたりが奥儀を伝授される前には何らかの修練を積んだということも知っていた。
紫峰では次期宗主と後見のみに奥儀が伝授されるので、その点からいっても、隆平には伝授される理由が無いのだ。
うっかりそんなことを考えてぼけっととしているうちに、隆平の倍くらいはあるだろうと思われる化け物が上から覆いかぶさってきた。
「しまった! 」
隆平は潰されるのを防ぐため、反射的に化け物に向かって手を出した。
薄い朱の焔が隆平の両腕を覆い、それは化け物めがけて放出された。
見る間に化け物の身体が焔に巻かれ、のたうちまわる姿が目の前にあった。
あっという間に化け物は燃え尽きてしまった。
隆平は自分の手と化け物の燃えた跡を交互に見た。
『今の…何?』怒りの焔ともまた違う、色のわりには冷たい感触の焔だった。
隆平は修の方を見た。修はただ静かに微笑んでいるだけだったが、透や雅人が呆気に取られているのが分かった。
孝太は驚きながらも、先ほどの修の行動はこれだったのかと納得した。
強くなっていく隆平を見るのは嬉しくもあり、寂しくもあった。
後ろを見ると、こんな状態でも祭祀は続けられ、彰久も史朗も決して振り向くことはしなかった。
孝太の祖母が旅立った時と同じような空間がその場にできつつあった。
何事も無ければ魂たちは間もなく旅立つことになるだろう。
末松の身体が怒りに震えだした。修が余りに若くのんびりと構えているので、紫峰の宗主だと知っても、その力を完全に見下していたが、本当は油断できない相手だと気付いた時にはすでに遅く、その外見に騙された自分を腹立たしく思った。
『おのれ紫峰の若造が…要らぬ手助けをしおって!』
そこいら中に散らばっていた化け物が集まってきた。
次々と合体を繰り返し何体かの強大な化け物を作り出した。
末松はそれを彰久たちめがけて突撃させた。
透も雅人も急ぎ境界ぎりぎりまで出て来て化け物を彰久たちから引き離そうとした。
しかし、これらの化け物はもとが人間であるだけに人為的に作り出した魔物より知恵が働くので簡単にはこちらへ向き直ってはくれない。
ここまで大きくなると比較的衝撃の穏やかな『消』を使っても、その反動が彰久と史郎にまで波及する恐れが出てくる。
透や雅人にはまだ修ほどの力はなく、反動無く静かに消滅させることができない。
「どうする? 透。 隆平は『滅』を使ったぜ。 」
雅人は透に声をかけた。
「あれは…『熛(ひょう)』…じゃないかなあ。 よく判んないけど…。 」
透はそう答えた。
自信があったわけではないが、修が初心者である隆平に修自身が最も使いたくない『滅』を使わせるとは思えなかった。
それに透も一度しか見たことはないが焔の色から考えると透の知っている『滅』とは違うような気がする。
けれども、修は時々とんでもないことをするから絶対に『滅』じゃないとは言えないのだ。
例えば化け物の足の裏くすぐったら笑うかどうかなどというようなことを突然思いついたら、化け物ひっくり返して本当にくすぐりかねない人だ。
「少し難しいけど僕等も『熛』を使ってみない? 」
透はそう提案した。どの道このままじゃ化け物を止められない。
「よっしゃ! 」
雅人は威勢よく答えた。
ふたりが気を高めると両手に朱の焔が立ち上った。その手を化け物に向けると焔は化け物に乗り移った。
そこまでは良かった。
朱の炎に身を包まれた化け物は猛り狂い暴れまわり祭主めがけて突進したのだ。
修が咄嗟の判断で塵にしてしまわなければ、彰久も史朗も仲良く吹っ飛んでいたところだった。
「やっべぇ! 違ったみたい。」
透が頭を掻いた。
呆れたように二人を見ながら修は首を横に振った。
「減点! 『熄(そく)』だ。 」
『熄』とは消えていく火で滅びを表す。『熛』は飛び火。どちらも紫峰奥儀のひとつだが相伝奥儀とは異なって、相伝を終えた者が『滅』を完全なものとするために修練する。
隆平がこの業を使ったということはすでに相伝を終えたということにも繋がる。
後で長老衆と揉めなきゃいいけど…と透は思った。
修に力をもらったおかげで隆平はずっと楽に戦えるようになった。
近付く化け物を簡単に焼き払うことができた。
ただ、境界の向こうでも透や雅人が同じ業を使い始めたが、ふたりが修練して得た力を楽に手に入れてしまったという後ろめたさが隆平には重かった。
操っている化け物が次々と焼き消されていくのを末松は苦々しい思いで見ていたが、もっと忌々しいのは化け物退治を子供らに任せて、目の前で平然と祭祀を見学しているその男の存在だった。
孝太と隆平…紫峰の血を引くふたりを利用して鬼面川を乗っ取るつもりでいるのではないか?
彰久や史郎だって分かったもんじゃない。
後継にはならぬなどと巧いことを言って、本当は裏で紫峰と手を組んでいるのに違いない。
騙されてたまるか…。
わしの手に入らぬような鬼面川は存在すべきではないのだ…。
化け物がすっかり片付いてしまうと、境界の向こう側は別世界になっていた。
彰久たちの呼び招いた天空の闇と光の世界が広がって、さまよえる魂たちは姿無き御大親の導きに従って次々旅立っていった。
修は結構この瞬間が好きだった。鬼面川の『救』によって、魂が安らぎを得る瞬間の穏やかでありながら崇高この上ない雰囲気が…。
将平の祭祀は相変わらず素晴らしい…。
何と輝きに溢れていることか…。
精神的な快感とも言うべきその心地よい安らぎの中に身を委ね、修は千年ぶりに満たされた気分を味わっていた。
修の背後から今や怒りと憎しみのために自らを鬼と化した末松が忍び寄ってきた。
「邪魔をするな…老翁。 僕は今、極上の快感を味わっている最中だ…。 」
修は振り返りもせずに言った。
末松は牛のように巨大化し、黒々と不気味な闇を纏っていた。
修をめがけ剣のように鋭い爪を振りかざした。
「老翁…今一度おのれを振り返ってみよ。
そのおぞましき姿…それがお前の望みであったのか…? 」
一瞬、末松がたじろいだ。
「やかましい! すべてはわしを認めなかった奴等のせいだ!
誰よりも優れたこのわしを蔑ろにした奴等の…! そしておまえの! 」
振り下ろした腕は跳ね返され末松は仰け反った。
「僕…? 僕は何もしていない。 ただ傍観していただけだ。
簡単なテレパシーさえ人任せで…。 」
修は微笑みながら笙子を見た。笙子が微笑み返した。
「嘘をつけ! 隆平に何やら小細工をして鬼面川の祭祀に干渉したではないか!
この目でしかと見たぞ。」
修はやれやれというように肩をすくめた。
「祭祀に触れた覚えはない。 祭祀を妨害するものを制するのは立会いとして当然ではないか? そのためにご助力申し上げたまでのこと。 」
修の言動はいちいち末松の癇に障った。
世間知らずの若造めが…目にものを見せてくれる。
末松が怒りに身を震わせると、地響きとともに祭主の体も揺らいだ。
彰久も史朗も辛うじて堪え事無きを得た。
今もし中断となれば、せっかく旅立とうとしている魂のいくつかは置き去りにされてしまう。その中には久松の魂もいるのだ。
「爺さま。 もうやめてくれ。 情けねぇわ。 」
孝太が境界を出て鬼と化している末松を止めに来ようとした。
「境界を出るな! 戻れ! 」
修が激しく孝太を叱咤した。
その勢いに押されて孝太は止まった。
「お前の役目は祭主を護ることだ! 忘れるな!」
そう言ったのはいつもの穏やかな修ではなかった。
「お前の気が済めばあの兄の魂は救われずともよいのか…?
お前の犯した罪までを自ら背負って旅立とうとしている兄を…。
その潔い心をおまえはまた踏みにじろうと言うのか…? 」
ぞっとするような冷たい表情を浮かべ修は末松を見た。
冷気とも思える寒々とした空気が辺りに充満し始めた。
隆平が思わずごくりとつばを飲んだ。
成り行きを見守っていた透と雅人が言葉を失った。
それが何の前触れか二人はよく知っている。
孝太はあの時の…本家で再会した時の修を思い出した。
「一度だけは見逃してやろう。」
修はそう言ったのだ。
あれは久松への言葉だと思っていたが…。
修の身体のあちらこちらから青白い焔が少しずつ立ち上り始めた。
次回へ
『奥儀伝授』と言われても実際には何も教わってないわけだし、何の修練もしていない。修の意図が読み取れずにいた。
紫峰家で暮らすようになってから、透や雅人に相伝の話は聞いていたから、ふたりが奥儀を伝授される前には何らかの修練を積んだということも知っていた。
紫峰では次期宗主と後見のみに奥儀が伝授されるので、その点からいっても、隆平には伝授される理由が無いのだ。
うっかりそんなことを考えてぼけっととしているうちに、隆平の倍くらいはあるだろうと思われる化け物が上から覆いかぶさってきた。
「しまった! 」
隆平は潰されるのを防ぐため、反射的に化け物に向かって手を出した。
薄い朱の焔が隆平の両腕を覆い、それは化け物めがけて放出された。
見る間に化け物の身体が焔に巻かれ、のたうちまわる姿が目の前にあった。
あっという間に化け物は燃え尽きてしまった。
隆平は自分の手と化け物の燃えた跡を交互に見た。
『今の…何?』怒りの焔ともまた違う、色のわりには冷たい感触の焔だった。
隆平は修の方を見た。修はただ静かに微笑んでいるだけだったが、透や雅人が呆気に取られているのが分かった。
孝太は驚きながらも、先ほどの修の行動はこれだったのかと納得した。
強くなっていく隆平を見るのは嬉しくもあり、寂しくもあった。
後ろを見ると、こんな状態でも祭祀は続けられ、彰久も史朗も決して振り向くことはしなかった。
孝太の祖母が旅立った時と同じような空間がその場にできつつあった。
何事も無ければ魂たちは間もなく旅立つことになるだろう。
末松の身体が怒りに震えだした。修が余りに若くのんびりと構えているので、紫峰の宗主だと知っても、その力を完全に見下していたが、本当は油断できない相手だと気付いた時にはすでに遅く、その外見に騙された自分を腹立たしく思った。
『おのれ紫峰の若造が…要らぬ手助けをしおって!』
そこいら中に散らばっていた化け物が集まってきた。
次々と合体を繰り返し何体かの強大な化け物を作り出した。
末松はそれを彰久たちめがけて突撃させた。
透も雅人も急ぎ境界ぎりぎりまで出て来て化け物を彰久たちから引き離そうとした。
しかし、これらの化け物はもとが人間であるだけに人為的に作り出した魔物より知恵が働くので簡単にはこちらへ向き直ってはくれない。
ここまで大きくなると比較的衝撃の穏やかな『消』を使っても、その反動が彰久と史郎にまで波及する恐れが出てくる。
透や雅人にはまだ修ほどの力はなく、反動無く静かに消滅させることができない。
「どうする? 透。 隆平は『滅』を使ったぜ。 」
雅人は透に声をかけた。
「あれは…『熛(ひょう)』…じゃないかなあ。 よく判んないけど…。 」
透はそう答えた。
自信があったわけではないが、修が初心者である隆平に修自身が最も使いたくない『滅』を使わせるとは思えなかった。
それに透も一度しか見たことはないが焔の色から考えると透の知っている『滅』とは違うような気がする。
けれども、修は時々とんでもないことをするから絶対に『滅』じゃないとは言えないのだ。
例えば化け物の足の裏くすぐったら笑うかどうかなどというようなことを突然思いついたら、化け物ひっくり返して本当にくすぐりかねない人だ。
「少し難しいけど僕等も『熛』を使ってみない? 」
透はそう提案した。どの道このままじゃ化け物を止められない。
「よっしゃ! 」
雅人は威勢よく答えた。
ふたりが気を高めると両手に朱の焔が立ち上った。その手を化け物に向けると焔は化け物に乗り移った。
そこまでは良かった。
朱の炎に身を包まれた化け物は猛り狂い暴れまわり祭主めがけて突進したのだ。
修が咄嗟の判断で塵にしてしまわなければ、彰久も史朗も仲良く吹っ飛んでいたところだった。
「やっべぇ! 違ったみたい。」
透が頭を掻いた。
呆れたように二人を見ながら修は首を横に振った。
「減点! 『熄(そく)』だ。 」
『熄』とは消えていく火で滅びを表す。『熛』は飛び火。どちらも紫峰奥儀のひとつだが相伝奥儀とは異なって、相伝を終えた者が『滅』を完全なものとするために修練する。
隆平がこの業を使ったということはすでに相伝を終えたということにも繋がる。
後で長老衆と揉めなきゃいいけど…と透は思った。
修に力をもらったおかげで隆平はずっと楽に戦えるようになった。
近付く化け物を簡単に焼き払うことができた。
ただ、境界の向こうでも透や雅人が同じ業を使い始めたが、ふたりが修練して得た力を楽に手に入れてしまったという後ろめたさが隆平には重かった。
操っている化け物が次々と焼き消されていくのを末松は苦々しい思いで見ていたが、もっと忌々しいのは化け物退治を子供らに任せて、目の前で平然と祭祀を見学しているその男の存在だった。
孝太と隆平…紫峰の血を引くふたりを利用して鬼面川を乗っ取るつもりでいるのではないか?
彰久や史郎だって分かったもんじゃない。
後継にはならぬなどと巧いことを言って、本当は裏で紫峰と手を組んでいるのに違いない。
騙されてたまるか…。
わしの手に入らぬような鬼面川は存在すべきではないのだ…。
化け物がすっかり片付いてしまうと、境界の向こう側は別世界になっていた。
彰久たちの呼び招いた天空の闇と光の世界が広がって、さまよえる魂たちは姿無き御大親の導きに従って次々旅立っていった。
修は結構この瞬間が好きだった。鬼面川の『救』によって、魂が安らぎを得る瞬間の穏やかでありながら崇高この上ない雰囲気が…。
将平の祭祀は相変わらず素晴らしい…。
何と輝きに溢れていることか…。
精神的な快感とも言うべきその心地よい安らぎの中に身を委ね、修は千年ぶりに満たされた気分を味わっていた。
修の背後から今や怒りと憎しみのために自らを鬼と化した末松が忍び寄ってきた。
「邪魔をするな…老翁。 僕は今、極上の快感を味わっている最中だ…。 」
修は振り返りもせずに言った。
末松は牛のように巨大化し、黒々と不気味な闇を纏っていた。
修をめがけ剣のように鋭い爪を振りかざした。
「老翁…今一度おのれを振り返ってみよ。
そのおぞましき姿…それがお前の望みであったのか…? 」
一瞬、末松がたじろいだ。
「やかましい! すべてはわしを認めなかった奴等のせいだ!
誰よりも優れたこのわしを蔑ろにした奴等の…! そしておまえの! 」
振り下ろした腕は跳ね返され末松は仰け反った。
「僕…? 僕は何もしていない。 ただ傍観していただけだ。
簡単なテレパシーさえ人任せで…。 」
修は微笑みながら笙子を見た。笙子が微笑み返した。
「嘘をつけ! 隆平に何やら小細工をして鬼面川の祭祀に干渉したではないか!
この目でしかと見たぞ。」
修はやれやれというように肩をすくめた。
「祭祀に触れた覚えはない。 祭祀を妨害するものを制するのは立会いとして当然ではないか? そのためにご助力申し上げたまでのこと。 」
修の言動はいちいち末松の癇に障った。
世間知らずの若造めが…目にものを見せてくれる。
末松が怒りに身を震わせると、地響きとともに祭主の体も揺らいだ。
彰久も史朗も辛うじて堪え事無きを得た。
今もし中断となれば、せっかく旅立とうとしている魂のいくつかは置き去りにされてしまう。その中には久松の魂もいるのだ。
「爺さま。 もうやめてくれ。 情けねぇわ。 」
孝太が境界を出て鬼と化している末松を止めに来ようとした。
「境界を出るな! 戻れ! 」
修が激しく孝太を叱咤した。
その勢いに押されて孝太は止まった。
「お前の役目は祭主を護ることだ! 忘れるな!」
そう言ったのはいつもの穏やかな修ではなかった。
「お前の気が済めばあの兄の魂は救われずともよいのか…?
お前の犯した罪までを自ら背負って旅立とうとしている兄を…。
その潔い心をおまえはまた踏みにじろうと言うのか…? 」
ぞっとするような冷たい表情を浮かべ修は末松を見た。
冷気とも思える寒々とした空気が辺りに充満し始めた。
隆平が思わずごくりとつばを飲んだ。
成り行きを見守っていた透と雅人が言葉を失った。
それが何の前触れか二人はよく知っている。
孝太はあの時の…本家で再会した時の修を思い出した。
「一度だけは見逃してやろう。」
修はそう言ったのだ。
あれは久松への言葉だと思っていたが…。
修の身体のあちらこちらから青白い焔が少しずつ立ち上り始めた。
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