傍目から見れば、この末松の野望など虚しいの一言に過ぎない。
末松という男の年齢を考えれば、今更、鬼面川の実権を握ったところで残された時間がその先何年…。悪くすれば明日にでもお迎えが来る。
しかも、その実権を継がせるべき実の子はすでに災害で先立ってしまっている。
実の子でなくとも数増なり、孝太なりを本当に心から身内と思い、愛情から彼らに引き継がせようと考えているのなら話は別だが、そういうことでもないらしい。
ただただ、失った権利を取り戻したいがため、一族に真の実力を認めさせたいがため、末松はたとえ一瞬だけでも鬼面川の覇権を握らずにはおかれないのだ。
その一瞬のために、どれほど大勢の心を踏みにじり、何人もの身内を殺し、己の心を満足させようとしてきたか…。
久松の魂は今どんな思いで弟を見つめているのだろう。
自殺も復讐も久松が決めたこと…だがそれは末松に野望達成のための足がかりを与えることになってしまった。
供養されることもなく、ただ利用されて…。
御大親への報告を終えた後、彰久が大勢の魂を救済するべく、ひとりひとりの魂と問答を始めた。
今まで彰久の補助を務めていた史朗も緊急の場合と考えて、彰久の隣で同時に問答を始めている。
その様子を久松は静かに傍観していた。久松とすれば自分たちが集めてしまったさまよえる魂を一刻も早く安らげる所へ逝かせてやりたいのが本音だ。
彰久に『救』の力があるのであれば、もはや隆平が絶望という存在であろうがなかろうがどうでも良いこと。
久松は大きく溜息をついた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
そもそも鬼面川という家は村の人々の安全と幸福を祈るために存在したのではなかったのか?
普通の人間の手の及ばない領域で災いをなすものを退治したり、封じたり、そうやって人々を助けてきたのではなかったのか?
先代である長兄は長のあるべき姿を良く知っていて、権勢欲にとりつかれるようなことは無かった。
俺はそんな長兄に憧れ、万が一の時には長兄のような立派な長にならねばと思っていたのに…。
それがどうだ。『救』を行うべきこの俺が『救』に救われようとしている。
自ら異形の物と化したり、人の命を奪ったり、こんな情けないことで祖霊の手を煩わすとは…。
俺は生きるべきだったのか…?
生きて次兄を正すべきだったのか…?
俺が自殺さえしなければ、末松をこのような権勢欲の化け物にしてしまわなくてもすんだのか?
ああ…すべては遅きに失した。
『いいえ…遅くはありませんよ。 』
久松の意識の中に修の意識が入り込んだ。
『もうじき彰久があなたを呼ぶでしょう。
あなたはその思いの丈を遺された人々に…そして末松に伝えて逝きなさい。
それがあなたに課せられた使命でもある。
目的を果たせなかった末松は鬼面川を滅ぼすつもりでしょうから…。』
久松は末松を見た。祭祀の邪魔をすることも無くひとり静かに座っている。
何を思う末松よ…。
双子に生まれながら俺たちは心底分かり合えてはいなかったのだなあ…。
「面川久松の御霊よ。 我等はあなたの告白を御大親に奏上仕った。
あなたのしたことは決して許されることではないが、生ける物すべての親にてあらせられる御大親は人の過ちにも寛大な処置をなされよう。
御大親の慈悲に御すがり申せ…。 」
彰久の呼びかける声に久松は答えた。
「鬼面川の祭祀をも司る我が身にありながら、その責任を忘れ、死を選び、あまつさえ異形の者に身を落とし、人に仇なしたる罪は重く…もはや御大親の慈悲を以ってしても贖うことはかなわぬと存ずる。
ただ、ここにあるあまたの御霊は我が過ちにて集められし者達。
どうか御大親の御慈悲を以って寛大なる処置をお願い申し上げ奉る。 」
彰久は久松の話を聞きながら、口の中でなにやらぶつぶつと文言を唱えた。
「久松に申す。 あなたの置かれていた状況から判断して、あなたが過ちを犯したのはすべて末松の言によるものと思われるが、御大親の御前で申し開くことあらば述べてみよ。 」
彰久が御大親への弁解を促した。
久松は一呼吸置くと思いの丈を述べ始めた。
その声は社の中に居るすべての者に届いた。
「この期に及んで何を申し開きすることがあろうか。
何を申し上げても言い訳に過ぎぬものを…。
自殺、復讐、殺人に至るまですべて我が身の過ちにて、これは動かせぬ事実。
末松が俺に何を言ったとしても、最終的には俺自身が決めたこと。
たとえ末松に俺を利用して悪事をさせる意思があったとしても、口車に乗ってしまったのは俺の罪。
孝太…隆平…末松を恨むな。
動いたのはこの俺だ。 手を下したのはこの俺だ。 」
孝太も隆平も声のする方へ顔を向けた。
「聞くがいい…。 お前たちに確かな伝授もせぬままに鬼面川の伝授者は皆亡くなってしまった。
彰久や史郎のおかげでお前たちふたりは所作と文言だけは受け継いでくれたが…鬼面川にはもっと大事なものがあるのだ。
お前たちの四人の祖父である先代長は、力があってもその力を誇示しようとはせず、力のない者を見下すこともなかった。
鬼面川の本当の力は特殊な能力ではない。人を想い、人を支え、人に尽くす心。
それがあってこその祭祀。
いかに大きな能力が備わっていても心無き祭祀は本物ではない。
そんな伝授者からは人の心が離れていく。
もともとは村の縁の下の力持ち的な存在であったものを…何時の頃からかその立場を逸脱し、権勢を誇るようになってしまったが…先代は良くその立場をわきまえていた。
また、伝授者は何があっても責任を逃れようとしてはならぬ。
おのれが苦しいからといってすべてを捨てるようなまねをしてはならぬ。
ましてや他人に転嫁するなど以ての外だ。
そのような愚か者の成れの果てがこの俺だ。
生きて生きて生き抜いて戦うべきであったものを…。
お前たちが長になるかどうかは別として、鬼面川の伝授者としての心得を絶対に忘れてはならぬ。
必ずや次代に伝えよ。 」
久松はそう言って黙した。
孝太や隆平が思わず目礼したのを見て、晴れ晴れとした笑顔を浮かべて頷いた。
ふたりにはその姿は見えなかったけれども。
「潔し…。」
彰久は思わずそう呟いた。
この男が生きてここに存在しないことを残念に思った。
末松は久松の想いを何と聞いたのか。
表情ひとつ変えず、微動だにしなかった。
『救』で行われる問答を『諭』と鬼面川では呼ぶが、禅宗における禅問答とは意を異にする。
さまよえる魂の話を聞いてやることで、できるだけ心のこりをほぐして、苦しみや悲しみを軽減してやるのが目的の問答で、どちらかと言えば精神科医のような役目を伝授者が担う。
彰久と史郎はその場の魂たちとの問答を終え、『導』の文言と所作を始めた。
すべてのさまよえる魂を御大親の温かい懐へと導くための祭祀であるが、祭祀の間は他に気を向けることができない。
ただただ、御大親と魂の橋渡しのため一心不乱に所作と文言を続けなければならない。途中で途切れることは祭祀の失敗を意味する。
相手がさほど難しい霊でなければやり直せるが、酷い場合には伝授者が信用を失って殺されるようなこともないわけではない。命懸けの祭祀である。
『動く!』
修の脳裏に突然閃くものがあった。
電撃のようにピリピリと身体中の神経が刺激を受けているように感じた。
まるで合図のように。
次回へ
末松という男の年齢を考えれば、今更、鬼面川の実権を握ったところで残された時間がその先何年…。悪くすれば明日にでもお迎えが来る。
しかも、その実権を継がせるべき実の子はすでに災害で先立ってしまっている。
実の子でなくとも数増なり、孝太なりを本当に心から身内と思い、愛情から彼らに引き継がせようと考えているのなら話は別だが、そういうことでもないらしい。
ただただ、失った権利を取り戻したいがため、一族に真の実力を認めさせたいがため、末松はたとえ一瞬だけでも鬼面川の覇権を握らずにはおかれないのだ。
その一瞬のために、どれほど大勢の心を踏みにじり、何人もの身内を殺し、己の心を満足させようとしてきたか…。
久松の魂は今どんな思いで弟を見つめているのだろう。
自殺も復讐も久松が決めたこと…だがそれは末松に野望達成のための足がかりを与えることになってしまった。
供養されることもなく、ただ利用されて…。
御大親への報告を終えた後、彰久が大勢の魂を救済するべく、ひとりひとりの魂と問答を始めた。
今まで彰久の補助を務めていた史朗も緊急の場合と考えて、彰久の隣で同時に問答を始めている。
その様子を久松は静かに傍観していた。久松とすれば自分たちが集めてしまったさまよえる魂を一刻も早く安らげる所へ逝かせてやりたいのが本音だ。
彰久に『救』の力があるのであれば、もはや隆平が絶望という存在であろうがなかろうがどうでも良いこと。
久松は大きく溜息をついた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
そもそも鬼面川という家は村の人々の安全と幸福を祈るために存在したのではなかったのか?
普通の人間の手の及ばない領域で災いをなすものを退治したり、封じたり、そうやって人々を助けてきたのではなかったのか?
先代である長兄は長のあるべき姿を良く知っていて、権勢欲にとりつかれるようなことは無かった。
俺はそんな長兄に憧れ、万が一の時には長兄のような立派な長にならねばと思っていたのに…。
それがどうだ。『救』を行うべきこの俺が『救』に救われようとしている。
自ら異形の物と化したり、人の命を奪ったり、こんな情けないことで祖霊の手を煩わすとは…。
俺は生きるべきだったのか…?
生きて次兄を正すべきだったのか…?
俺が自殺さえしなければ、末松をこのような権勢欲の化け物にしてしまわなくてもすんだのか?
ああ…すべては遅きに失した。
『いいえ…遅くはありませんよ。 』
久松の意識の中に修の意識が入り込んだ。
『もうじき彰久があなたを呼ぶでしょう。
あなたはその思いの丈を遺された人々に…そして末松に伝えて逝きなさい。
それがあなたに課せられた使命でもある。
目的を果たせなかった末松は鬼面川を滅ぼすつもりでしょうから…。』
久松は末松を見た。祭祀の邪魔をすることも無くひとり静かに座っている。
何を思う末松よ…。
双子に生まれながら俺たちは心底分かり合えてはいなかったのだなあ…。
「面川久松の御霊よ。 我等はあなたの告白を御大親に奏上仕った。
あなたのしたことは決して許されることではないが、生ける物すべての親にてあらせられる御大親は人の過ちにも寛大な処置をなされよう。
御大親の慈悲に御すがり申せ…。 」
彰久の呼びかける声に久松は答えた。
「鬼面川の祭祀をも司る我が身にありながら、その責任を忘れ、死を選び、あまつさえ異形の者に身を落とし、人に仇なしたる罪は重く…もはや御大親の慈悲を以ってしても贖うことはかなわぬと存ずる。
ただ、ここにあるあまたの御霊は我が過ちにて集められし者達。
どうか御大親の御慈悲を以って寛大なる処置をお願い申し上げ奉る。 」
彰久は久松の話を聞きながら、口の中でなにやらぶつぶつと文言を唱えた。
「久松に申す。 あなたの置かれていた状況から判断して、あなたが過ちを犯したのはすべて末松の言によるものと思われるが、御大親の御前で申し開くことあらば述べてみよ。 」
彰久が御大親への弁解を促した。
久松は一呼吸置くと思いの丈を述べ始めた。
その声は社の中に居るすべての者に届いた。
「この期に及んで何を申し開きすることがあろうか。
何を申し上げても言い訳に過ぎぬものを…。
自殺、復讐、殺人に至るまですべて我が身の過ちにて、これは動かせぬ事実。
末松が俺に何を言ったとしても、最終的には俺自身が決めたこと。
たとえ末松に俺を利用して悪事をさせる意思があったとしても、口車に乗ってしまったのは俺の罪。
孝太…隆平…末松を恨むな。
動いたのはこの俺だ。 手を下したのはこの俺だ。 」
孝太も隆平も声のする方へ顔を向けた。
「聞くがいい…。 お前たちに確かな伝授もせぬままに鬼面川の伝授者は皆亡くなってしまった。
彰久や史郎のおかげでお前たちふたりは所作と文言だけは受け継いでくれたが…鬼面川にはもっと大事なものがあるのだ。
お前たちの四人の祖父である先代長は、力があってもその力を誇示しようとはせず、力のない者を見下すこともなかった。
鬼面川の本当の力は特殊な能力ではない。人を想い、人を支え、人に尽くす心。
それがあってこその祭祀。
いかに大きな能力が備わっていても心無き祭祀は本物ではない。
そんな伝授者からは人の心が離れていく。
もともとは村の縁の下の力持ち的な存在であったものを…何時の頃からかその立場を逸脱し、権勢を誇るようになってしまったが…先代は良くその立場をわきまえていた。
また、伝授者は何があっても責任を逃れようとしてはならぬ。
おのれが苦しいからといってすべてを捨てるようなまねをしてはならぬ。
ましてや他人に転嫁するなど以ての外だ。
そのような愚か者の成れの果てがこの俺だ。
生きて生きて生き抜いて戦うべきであったものを…。
お前たちが長になるかどうかは別として、鬼面川の伝授者としての心得を絶対に忘れてはならぬ。
必ずや次代に伝えよ。 」
久松はそう言って黙した。
孝太や隆平が思わず目礼したのを見て、晴れ晴れとした笑顔を浮かべて頷いた。
ふたりにはその姿は見えなかったけれども。
「潔し…。」
彰久は思わずそう呟いた。
この男が生きてここに存在しないことを残念に思った。
末松は久松の想いを何と聞いたのか。
表情ひとつ変えず、微動だにしなかった。
『救』で行われる問答を『諭』と鬼面川では呼ぶが、禅宗における禅問答とは意を異にする。
さまよえる魂の話を聞いてやることで、できるだけ心のこりをほぐして、苦しみや悲しみを軽減してやるのが目的の問答で、どちらかと言えば精神科医のような役目を伝授者が担う。
彰久と史郎はその場の魂たちとの問答を終え、『導』の文言と所作を始めた。
すべてのさまよえる魂を御大親の温かい懐へと導くための祭祀であるが、祭祀の間は他に気を向けることができない。
ただただ、御大親と魂の橋渡しのため一心不乱に所作と文言を続けなければならない。途中で途切れることは祭祀の失敗を意味する。
相手がさほど難しい霊でなければやり直せるが、酷い場合には伝授者が信用を失って殺されるようなこともないわけではない。命懸けの祭祀である。
『動く!』
修の脳裏に突然閃くものがあった。
電撃のようにピリピリと身体中の神経が刺激を受けているように感じた。
まるで合図のように。
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