忠正は天を仰いだ。
確かに今の翔矢では樋野の長は務まらない。
邦正の言い草じゃないが期待できるのはこどもを作らせることだけだ。
もし翔矢がまともな育ち方をしていたら、おそらくは優れた長になったことだろうに…邦正め愚かなまねをしおって…。
今更ながらに邦正の馬鹿さ加減に腹が立つ。
「翔矢を返して頂けますね? 」
修は再び最長老に答えを迫った。
慌てた長老衆はその場での即答を避け、しばしご猶予を…と揃って奥の間へ下がって行った。
紫峰家の介入という樋野家始まって以来の危機に長老衆も困惑している様子だ。
しばらくは戻って来ないだろう。
待たされている間に長夫人の指示で客人には朝餉が饗された。
夫人の心尽くしを皆は有り難く頂いたが、修だけはお茶以外の物には手をつけなかった。
「修…食べないの? 御腹空いてないの? 」
翔矢は不思議そうに訊いた。
「気にしないで…翔矢。 時々食べられなくなる体質なんだ…。 」
そうなんだ…と翔矢は納得したが、雅人と透が不安そうに修の方を見た。
修が食事を取らないのは発作を起こしているのでなければ潔斎だ。
つまり…長老衆の回答によってはひと暴れするつもりでいるということ…。
「翔矢…いま修って呼んだね。 修母さん…はやめたのか? 」
久遠が可笑しそうに笑いながら訊いた。翔矢はチラッと修に眼を向けてから少しだけ悲しげな顔をして久遠に言った。
「久遠…僕…いつもこどもってわけじゃないんだ。
札びら切って敏を動かしたり、きみに酷い想いをさせたり、瀾の母親を殺そうと企んだり…そんな悪さを考えている時には少しおとな…みたいな気がする…。」
そう言いながら翔矢はしょげてしまった。
修母さんにお尻を叩かれるような悪いことをいっぱいしてしまったんだと改めて気付いたのだ。
「僕…お巡りさんのところへ行かなきゃね…。 また…ひとりぼっちだね…。
今度は本物の檻の中…。 」
翔矢の頬を涙がつうっと伝った。再び…翔矢の中のこどもが目を覚ました。
「ごめんね…父さん…。 ごめんね…瀾…。 」
翔矢は直接、瀾の母親を殺したわけではない。敏に久遠を追い出したのは瀾の母親だと吹き込んだだけだ。
それでも自分がそう言わなければ3人組は瀾の母親を襲わなかったかもしれない。
昭二の時もそうだ。昭二が敏を裏切って瀾殺しを止めようとしていると話した。
敏は逆上しやすい男なのに…強力な暗示を掛けてしまった。
「ごめんね…久遠…。 」
城崎は邦正を呪った。
ことの善悪すら瞬時に判断できないような育て方をした憎むべき男を…。
翔矢は感情が高ぶると後先考えないで行動してしまう。
気持ちが落ち着いてきて、それがいけないことだと分かった時にはもう遅い。
「翔矢…おまえがお巡りさんのところへ行っても追い返されるだけだよ。
暗示の能力なんて誰も信じないからね。
おまえはこれからできる限りの努力をして亡くなった方々に心から償いなさい。」
城崎に優しい言葉を掛けられて翔矢は無言で頷いた。
瀾は溜息をついた。何でこんな悲しいことになったんだろう。
血を分けた兄貴のひとりが母と僕を殺そうと考えるなんて…。
それもこれもきっかけは僕がマスコミにこの能力を誇示したりしたからなんだ。
翔矢兄は…多分…久遠兄が僕を思い出してしまうのではないかと不安になったんだろうな…。
「翔矢…おまえにはまだ悪いことをしたんだという意識がある。
普通に育っていても世の中にはそれすら分からない者も居るんだ。
おまえはよくひとりでそのことを学んだね…。 」
修は翔矢に微笑みかけた。
少しはにかんだように翔矢はみんなの顔をチラチラッと見回した。
「僕にだって少しは周りを知る手段はあったんだよ…。
インターネットで周りの人の考えを知ったり…チャットとかで会話もした…。
でも…みんな本当のことかどうか分からないから…すごく不安だった。
伯母さまが時々パソコンの本をくれて…伯父さまはパソコンに弱いから…内緒で外の世界を見て勉強しなさいって…。 」
城崎は義姉に感謝した。翔矢が完全に幼児化してしまわなかったのは義姉が陰で支えていてくれたお蔭だったのだ…。
久遠の時にも自分が悪者にされながら秘かに護っていてくれた。
どれほど感謝してもし足りない。城崎は心で手を合わせた。
半時ほども待たされたろうか…樋野の長老衆が緊張した面持ちで戻ってきた。
忠正は膳を下げた家人から紫峰宗主が朝餉に手をつけなかったと聞いて、これは相当に腹を立てているのだと勝手に解釈した。
古書や言い伝えの忠告はともかくも、修のあの信じ難い力を目の前にしては何とか穏便にことを運ぶしかないと考えていた。
「お待たせいたしました。 」
最長老は修の前に手をついた。
修も居住まいを正した。
「翔矢は樋野にとって大切な後継者…このことに変わりはありません。
ただ…今すぐに翔矢を後継に立てることは樋野家にとって得策ではなく、翔矢自身のためにもならぬと判断いたしました。
そこで宗主に折り入ってお願いしたきことがございます。 」
来たな…と修は思った。
「聞けば城崎の末の息子が馬鹿げた騒動を起こした際に、紫峰家がその恩情を以って厳しい修練を課し鍛え直したとか…。
紫峰家にとっては甚だご迷惑とは存ずるが…翔矢を再教育しては頂けないものかと…そう考える次第です。 」
忠正は平伏した。
とんでもない狸だが…この男こそは長に相応しい…と修は感じた。
樋野の体面を考えればそう簡単に翔矢を城崎に返すわけにはいかない。
邦正のしたことは翔矢の将来を考えれば謝って済むような問題ではないからだ。
翔矢は樋野の長の後継者…としておくことで翔矢の樋野での地位と財産を保証したことになる。
その上で再教育と称して中立である紫峰に預ければ城崎も文句は言わない。
結果はどうなろうと手は尽くしましたよということで城崎に戻す…但し…翔矢の身分は変わらないから上手くすれば翔矢のこどもが樋野の後を取ってくれるかもしれない…。
できれば…樋野から嫁を送って…と最長老は目論んでいた。
何…翔矢がだめなら久遠のこどもでも構わんし…取り敢えずは親戚付き合いを続けていく方が樋野にとっては利がある…。
紫峰を怒らせずに済むしな…。
平伏した狸親爺の胸の内が修には手に取るように分かった。
「翔矢の再教育を引き受けることは紫峰としては迷惑とは思わん…。
しかし…ご期待に副えるかどうかは…保証の限りではない。
忠正さん…もし…翔矢が独り立ちを果たしたら…あなた…どうなさいます?
ただの後継ではなく実際に長としての翔矢の存在をお認めになりますか?
他の長老衆は如何に…? 」
修が鋭い眼差しで長老衆を見回した。
その視線を受けるたびに長老衆を怖気震わせるような寒さが襲った。
「宗主…それは無理でしょう…。
口惜しいことだが…何とか生活できるくらいになれば良しとせねばなりません…。
もう少し早く…できれば10代のうちに再教育がなされておれば…。 」
城崎が心から悔しそうに言った。翔矢が情けなさそうな顔をして俯いた。
「城崎さん…翔矢の前で言うことではありませんよ。
さあ…長老方…お答え頂きましょうか?
そこまで翔矢に拘っているのだから…まさか邪魔にはしますまいね…?
長となれば…あなた方の上に立つことになる…それでもかまわぬ…翔矢に従うと…? 」
長老衆は返答に詰まった。
そこまでの決心ができているとは言えなかった。
また…そこまでの答えを要求されるとも思っていなかった。
忠正の眼に映る若く穏やかなはずの紫峰宗主の顔が時とともに老獪な化け物のように感じられるようになってきた。
古い言い伝えの正しさを忠正は今…身をもって味わっていた。
次回へ
確かに今の翔矢では樋野の長は務まらない。
邦正の言い草じゃないが期待できるのはこどもを作らせることだけだ。
もし翔矢がまともな育ち方をしていたら、おそらくは優れた長になったことだろうに…邦正め愚かなまねをしおって…。
今更ながらに邦正の馬鹿さ加減に腹が立つ。
「翔矢を返して頂けますね? 」
修は再び最長老に答えを迫った。
慌てた長老衆はその場での即答を避け、しばしご猶予を…と揃って奥の間へ下がって行った。
紫峰家の介入という樋野家始まって以来の危機に長老衆も困惑している様子だ。
しばらくは戻って来ないだろう。
待たされている間に長夫人の指示で客人には朝餉が饗された。
夫人の心尽くしを皆は有り難く頂いたが、修だけはお茶以外の物には手をつけなかった。
「修…食べないの? 御腹空いてないの? 」
翔矢は不思議そうに訊いた。
「気にしないで…翔矢。 時々食べられなくなる体質なんだ…。 」
そうなんだ…と翔矢は納得したが、雅人と透が不安そうに修の方を見た。
修が食事を取らないのは発作を起こしているのでなければ潔斎だ。
つまり…長老衆の回答によってはひと暴れするつもりでいるということ…。
「翔矢…いま修って呼んだね。 修母さん…はやめたのか? 」
久遠が可笑しそうに笑いながら訊いた。翔矢はチラッと修に眼を向けてから少しだけ悲しげな顔をして久遠に言った。
「久遠…僕…いつもこどもってわけじゃないんだ。
札びら切って敏を動かしたり、きみに酷い想いをさせたり、瀾の母親を殺そうと企んだり…そんな悪さを考えている時には少しおとな…みたいな気がする…。」
そう言いながら翔矢はしょげてしまった。
修母さんにお尻を叩かれるような悪いことをいっぱいしてしまったんだと改めて気付いたのだ。
「僕…お巡りさんのところへ行かなきゃね…。 また…ひとりぼっちだね…。
今度は本物の檻の中…。 」
翔矢の頬を涙がつうっと伝った。再び…翔矢の中のこどもが目を覚ました。
「ごめんね…父さん…。 ごめんね…瀾…。 」
翔矢は直接、瀾の母親を殺したわけではない。敏に久遠を追い出したのは瀾の母親だと吹き込んだだけだ。
それでも自分がそう言わなければ3人組は瀾の母親を襲わなかったかもしれない。
昭二の時もそうだ。昭二が敏を裏切って瀾殺しを止めようとしていると話した。
敏は逆上しやすい男なのに…強力な暗示を掛けてしまった。
「ごめんね…久遠…。 」
城崎は邦正を呪った。
ことの善悪すら瞬時に判断できないような育て方をした憎むべき男を…。
翔矢は感情が高ぶると後先考えないで行動してしまう。
気持ちが落ち着いてきて、それがいけないことだと分かった時にはもう遅い。
「翔矢…おまえがお巡りさんのところへ行っても追い返されるだけだよ。
暗示の能力なんて誰も信じないからね。
おまえはこれからできる限りの努力をして亡くなった方々に心から償いなさい。」
城崎に優しい言葉を掛けられて翔矢は無言で頷いた。
瀾は溜息をついた。何でこんな悲しいことになったんだろう。
血を分けた兄貴のひとりが母と僕を殺そうと考えるなんて…。
それもこれもきっかけは僕がマスコミにこの能力を誇示したりしたからなんだ。
翔矢兄は…多分…久遠兄が僕を思い出してしまうのではないかと不安になったんだろうな…。
「翔矢…おまえにはまだ悪いことをしたんだという意識がある。
普通に育っていても世の中にはそれすら分からない者も居るんだ。
おまえはよくひとりでそのことを学んだね…。 」
修は翔矢に微笑みかけた。
少しはにかんだように翔矢はみんなの顔をチラチラッと見回した。
「僕にだって少しは周りを知る手段はあったんだよ…。
インターネットで周りの人の考えを知ったり…チャットとかで会話もした…。
でも…みんな本当のことかどうか分からないから…すごく不安だった。
伯母さまが時々パソコンの本をくれて…伯父さまはパソコンに弱いから…内緒で外の世界を見て勉強しなさいって…。 」
城崎は義姉に感謝した。翔矢が完全に幼児化してしまわなかったのは義姉が陰で支えていてくれたお蔭だったのだ…。
久遠の時にも自分が悪者にされながら秘かに護っていてくれた。
どれほど感謝してもし足りない。城崎は心で手を合わせた。
半時ほども待たされたろうか…樋野の長老衆が緊張した面持ちで戻ってきた。
忠正は膳を下げた家人から紫峰宗主が朝餉に手をつけなかったと聞いて、これは相当に腹を立てているのだと勝手に解釈した。
古書や言い伝えの忠告はともかくも、修のあの信じ難い力を目の前にしては何とか穏便にことを運ぶしかないと考えていた。
「お待たせいたしました。 」
最長老は修の前に手をついた。
修も居住まいを正した。
「翔矢は樋野にとって大切な後継者…このことに変わりはありません。
ただ…今すぐに翔矢を後継に立てることは樋野家にとって得策ではなく、翔矢自身のためにもならぬと判断いたしました。
そこで宗主に折り入ってお願いしたきことがございます。 」
来たな…と修は思った。
「聞けば城崎の末の息子が馬鹿げた騒動を起こした際に、紫峰家がその恩情を以って厳しい修練を課し鍛え直したとか…。
紫峰家にとっては甚だご迷惑とは存ずるが…翔矢を再教育しては頂けないものかと…そう考える次第です。 」
忠正は平伏した。
とんでもない狸だが…この男こそは長に相応しい…と修は感じた。
樋野の体面を考えればそう簡単に翔矢を城崎に返すわけにはいかない。
邦正のしたことは翔矢の将来を考えれば謝って済むような問題ではないからだ。
翔矢は樋野の長の後継者…としておくことで翔矢の樋野での地位と財産を保証したことになる。
その上で再教育と称して中立である紫峰に預ければ城崎も文句は言わない。
結果はどうなろうと手は尽くしましたよということで城崎に戻す…但し…翔矢の身分は変わらないから上手くすれば翔矢のこどもが樋野の後を取ってくれるかもしれない…。
できれば…樋野から嫁を送って…と最長老は目論んでいた。
何…翔矢がだめなら久遠のこどもでも構わんし…取り敢えずは親戚付き合いを続けていく方が樋野にとっては利がある…。
紫峰を怒らせずに済むしな…。
平伏した狸親爺の胸の内が修には手に取るように分かった。
「翔矢の再教育を引き受けることは紫峰としては迷惑とは思わん…。
しかし…ご期待に副えるかどうかは…保証の限りではない。
忠正さん…もし…翔矢が独り立ちを果たしたら…あなた…どうなさいます?
ただの後継ではなく実際に長としての翔矢の存在をお認めになりますか?
他の長老衆は如何に…? 」
修が鋭い眼差しで長老衆を見回した。
その視線を受けるたびに長老衆を怖気震わせるような寒さが襲った。
「宗主…それは無理でしょう…。
口惜しいことだが…何とか生活できるくらいになれば良しとせねばなりません…。
もう少し早く…できれば10代のうちに再教育がなされておれば…。 」
城崎が心から悔しそうに言った。翔矢が情けなさそうな顔をして俯いた。
「城崎さん…翔矢の前で言うことではありませんよ。
さあ…長老方…お答え頂きましょうか?
そこまで翔矢に拘っているのだから…まさか邪魔にはしますまいね…?
長となれば…あなた方の上に立つことになる…それでもかまわぬ…翔矢に従うと…? 」
長老衆は返答に詰まった。
そこまでの決心ができているとは言えなかった。
また…そこまでの答えを要求されるとも思っていなかった。
忠正の眼に映る若く穏やかなはずの紫峰宗主の顔が時とともに老獪な化け物のように感じられるようになってきた。
古い言い伝えの正しさを忠正は今…身をもって味わっていた。
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