椿峰のまち

所沢・椿峰ニュータウンでのまちから見えてくるものをお伝えするブログです。

読書から つづき

2020-11-30 20:47:26 | 課題解決に

森鴎外「カズイスチカ」は こちら

森鴎外の子どもや孫たちは、その多くが何らかの文章を残していて、一族の暮らしをのぞき見をしているような気分になったりします。

とくに感じるのは、うらやましいような父子関係ではないでしょうか。

ヒトは誰かを手本にして真似ることがよくあって、母子関係よりは父子関係のほうが真似ることが多いのでは?などと思ったりしました。

森於菟については こちら  

森鴎外の先妻のただひとりの子どもとして育ち、もしかしたら森鴎外の作品の中には、於菟に語りかけたものがあるのかもしれません。

森於菟は多くのエッセイを残していますが、父親を越える名文家との評価もあるようです。

たとえば、森於菟「放心教授」は こちら

 

森於菟は、若い頃には短気な面があったという父鴎外よりも、祖父静男に似ているのかもしれません。

森静男が幕末から明治維新を乗り切ったのは、先見性があったのではないでしょうか。

森於菟が鴎外の大量の遺稿を守ることができたのは先見性を持っていたこと

温厚な性格で台北帝国大学医学部の教え子たちを差別なく育成したこと

(本文から)優秀な人材が続々と生まれ、戦後の台湾医学会の成し遂げた世界的業績の随一は、マラリアの消滅であろう。

また戦時中は、軍医森鴎外の名声により、台北帝国大学医学部を日本軍の横暴から守ることができたともいえるのだとか。

 

森於菟は、幼くして母親と離され、厳しい幼年時代を送ったようですが、5人の息子に恵まれ

その末の息子である森常治が以下のように書いています。

父於菟は他界してから、すでに四十三年になる。おそらくあの世ではまこと安らかに眠っていることだろう。

自分と同じ期間、米軍の爆撃被害を恐れて支林の熱帯医学研究所のトンネルのなかで過ごすことで、きわめて残酷な戦争を乗り越えることができた父鴎外の遺品や原稿も、大過なく自分とともに帰還させることができたのだから。さらには文京区の依頼で試みられた森鴎外記念図書館の立ち上げにも見事成功を収めえたのだから。

他方、台北帝大、そして台湾大学の立ち上げ、引継ぎ事業に参加した台湾側の関係者、医学者、教授たちが彼岸への境に到達するとき、眠りから身をおこし、相手の両手をしっかりと握り締め、相手の耳元で呟くことだろう。

「ありがとう。ほんとうにありがとう。あのときはご一緒にほんとうに頑張りましたね」と。

いまから振り返って思うとき、台湾における於菟の研究・教育生活は、次々と医師・研究者として育っていく若者たちを目の当たりにする歓びに満たされると同時に、それらの若者のけっして少なくない部分が、戦争に徴用され、しかも生還しえなかったという、今日なら想像もできない悲劇、そのショックと悲しみに襲われ続けていた、ということだろう。

「ああ、なんということだ!」と悲痛の叫びをあげる以外になにをすればよかったのだろう。

 

戦争を止めることができるのは最新兵器などではなく、過去の嘆きのような気がするのですが・・・・・

国を越えても分かり合えることがあるのに、憎しみを煽られ、武器を与えられて、戦争へと向かう

それはもう繰り返すべきではないと思います。

森鴎外が軍人となったのは・・・・子や孫も動員して平和とは何かを表現することであったように思われてきました。