陸軍造兵廠の鎮守 四本木稲荷

2015年06月15日 | 東京のお散歩
東京都北区滝野川を流れる石神井川の近くの住宅街に
深い緑に大切に護られた一角があります。

四本木(しほんぎ)稲荷神社とその杜です。

(四本木稲荷)

四本木稲荷は、明治以降この地にあった陸軍兵器廠の鎮守でした。
当時、この工場で火薬暴発事故などが多発した事があり
原因は元々この地にあった古墳を壊し工場にした為とされ、
その祟りをおさめるために王子稲荷の分社を陸軍用地内に遷座させ
新たに社殿などを造られたものとされています。

(王子稲荷)

当初鎮座していたのは、下十条の七軒町と呼ばれた地域で、この町の鎮守でした。
明治時代に陸軍用地(現在の十条駐屯地東側、北区中央図書館となりの稲荷公園)に遷座し
この地に4本の大木があった事から四本木稲荷大明神と名付けられました。
稲荷公園は、現在はいなりプレーパークと呼ばれ、子どもたちの遊び場になっています。

(北区中央図書館は元陸軍の建物)

昭和三十年代に自衛隊用地が縮小した際に宅地化や区の施設が出来て、
現在地である滝野川三丁目に遷座しました。
(現在地も、終戦まで陸軍用地内でした)

明治時代の当地では古くから「4本」を「しほん」と数えた事から
このお稲荷さんを「しほんぎ」と呼びますが、昭和末期に自称郷土史愛好家が、
根拠のない独自解釈で地誌に「よもとぎ」と書いた事から
区の公式でも「よもとぎ」となってしまい、取り返しのつかない状態になっています。

このお稲荷さんは現在、教派神道である神道大教の教場神社のひとつとなっています。

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根津の湧水

2015年06月14日 | 東京のお散歩
根津、と言っても谷根千の根津ではなく、東武鉄道創設者根津嘉一郎に由来する
都内の二つの谷頭に湧く湧水です。

ひとつは、南青山の根津嘉一郎が私邸であった根津美術館。



ここは江戸時代には河内国丹南藩主で江戸定府だった高木家の下屋敷跡になります。
根津嘉一郎が明治三十九年に取得し、敷地内の傾斜を利用して庭園を整備しました。



古川(渋谷川)の支流である笄川の谷頭に位置していて、
現在でも、この庭園の池と有栖川公園の池を水源として、
古川と合流する天現寺橋まで、暗渠となった笄川は流れています。

現在、この湧水のある根津邸は、根津美術館の庭園となっています。









もうひとつの根津の湧水は、東池袋にあります。
南池袋公園から豊島岡女子学園付近にかけての旧日出町(旭出町)は戦前、小高い丘で
この丘を根津嘉一郎が所有していたことから地元では根津山と呼んでいました。



この丘の北側に蟹ヶ窪というスリバチ状の谷頭があります。
明治天皇は、この地で野立(野点)をされています。



ここから湧いた水が水窪川となり、神田川へ注いでいます。
流路であった窪地、蟹ヶ窪は現在美久仁小路という飲屋街になっています。

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神谷堀公園

2015年06月13日 | 東京のお散歩
北区王子、地下鉄神谷町駅のほど近い場所に神谷堀公園はあります。

(神谷堀公園)

この公園の場所には、かつて甚兵衛堀という堀割があって
この付近が湿地だった大昔に、稲付川を灌漑用水として農地を開墾した際に
隅田川への排水を兼ねた水路の一部として掘られたものとされています。
この甚兵衛堀は、神谷堀とも呼ばれていました。

神谷の地名は、この辺りの隅田川河岸で蟹がよく獲れたことから
蟹庭(かにわ)と呼ばれていたのが転訛され神谷となったとされています。
明治大正の頃までは、神谷と書いて「かにわ(は)」と読ませていました。

(神谷陸橋。宮堀は、現在の環七の位置にあった農業用堀割)

本来の堀の名前である甚兵衛堀の甚兵衛は、この付近の新田開墾の
功労者の名前というのは想像に難くないでしょう。

近代に入ってからは、現在の王子五丁目団地と日本製紙北王子倉庫となっている
王子製紙十条工場(後の十条製紙工場)への水運のために拡幅開削され
隅田川を利用した舟運で、日本の産業近代化に貢献しました。

(日本製紙北王子倉庫。水運のみならず鉄道輸送も過去のものに)

この堀は昭和五十二年に埋め立てられて、その跡地の一部を公園としたもので、
今は水遊びのできる公園として親しまれています。
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堀切菖蒲園

2015年06月12日 | 東京のお散歩
堀切菖蒲園は、広重や豊国、春信といった巨匠たちの浮世絵にも登場する
江戸時代からの菖蒲の名所です。



この地には戦前まで吉野園、武蔵園、小高園、観花園といった菖蒲園があり
それらは全て宅地となってしまった中で、堀切園だけが東京都に買い取られ
現在は葛飾区立の公園として残っています。



起源は室町時代とも江戸時代とも言われ、いずれにしても観賞用に栽培した菖蒲園です。



菖蒲の花は今が見頃。
梅雨の晴れ間に是非、観花に行きたい庭園です。
また、京成堀切菖蒲園駅から菖蒲園までは、西井堀という水路の暗渠を進むと
紫陽花がとても綺麗に咲き並んでいます。

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新江戸川公園

2015年06月11日 | 東京のお散歩
椿山荘、芭蕉庵や講談社の野間氏邸が並ぶ神田川の渓谷沿いに、
もうひとつ屋敷地だった場所があります。

現在は、文京区立新江戸川公園となっている、旧細川邸です。
江戸時代には幕臣の邸宅であった場所が、幕末に細川家下屋敷となり
明治以降は細川家本邸として使用されていました。
その庭園部分が公園となったのが、新江戸川公園です。

(新江戸川公園)

崖の上には、細川家所蔵品を保存する永青文庫があり
肥後細川家の栄華を今に伝えています。

(急峻な崖は、登るのも一苦労)
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キリマンジャロin東京

2015年06月10日 | 東京のお散歩
キリマンジャロ。
スワヒリ語でキリマが「山」、ンジャロがチャガ語で「白」を意味している成層火山です。
つまり、日本語でいうところの「白山」です。

日本における白山は、万治二(1659)年に、現時点で最後の噴火をした成層火山で
修験道のひとつである白山信仰の中心にもなっています。

江戸においても、古くから白山は信仰され、天暦年間(西暦950年前後)には、本郷元町に加賀一宮白山比咩神社から勧進を受けて
白山神社が創建されました。

(白山神社)

神田川開削にあたって巣鴨に遷座しますが、後にその場所に、
当時館林城主だった綱吉の屋敷「小石川御殿」(現小石川植物園)が建てられることになり
現在地へ再遷座しました。

(小石川植物園)

この縁もあって、将軍となった綱吉と、その生母である桂昌院から
崇敬と手厚い保護を受け、以降将軍家が代々信仰する権現社となりました。

(白山神社拝殿)

明治以降、この神社の周辺は「白山」という地名になり(当初の町名は白山前町)
現在も町名・駅名として神社共々白山の名が残されています。

(孫文にまつわる史跡もある)

以上、琥珀色のキリマンジャロを飲みながら、執筆。
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稲付川を歩く

2015年06月09日 | 東京のお散歩
北区上十条の姥ヶ橋交差点北側から、根村用水より接続された稲付川は始まります。

(姥ヶ橋から根村用水方面を望む)

姥ヶ橋は、根村用水から稲付川へ接続するこの地にあった橋で
昔、誤って幼子をこの川で溺死させてしまった乳母(姥)が、
この橋から身を投げたという伝説によって名付けられています。

(姥ヶ橋交差点)

また、この事を哀れんだ村人たちによって、供養のための延命地蔵(享保九年の銘)が
橋の右岸に建てられて今も遺されています。

(延命地蔵)

交差点南側では、それほど深くなかった流路跡の底部も
交差点北側では一気に深くなり、流路跡へ降りるには、階段を下りることになります。

(交差点北側の階段)

ここからは、灌漑用水ではなく自然の川なので、道は谷底を蛇行しつつ
荒川沖積低地への出口である、JR赤羽駅南側(埼京線と東北線分岐点付近)を目指します。

(所々で分岐があるのは、川沿いの道の跡だろうか)

短い距離ながら標高差もあるため、勾配を感じることができる暗渠路となっています。
狭い谷なので、左右から来る路地は、階段で接続します。

(階段の数から、谷の深さがわかる)

(路地は両側から階段で交差する)

また、暗渠に付き物のマンホールからは、勢いのある水流音と
おそらく水流から生じる風切り音が響いてきます。

(暗渠らしくマンホールが多い)

講談社創業者野間清治の別邸があった、現在の稲付公園の麓あたりから
法真寺門前あたりにかけて勾配は緩やかになります。

(野間坂下)

(庭の美しい法真寺)

JR埼京線(赤羽線)を潜ると、沖積低地となります。
ここから成立高校の脇を通り神谷町へ抜けます。
北本通りの東側で、初めて稲付川は開渠となりますが、
水があることは認められるものの、特に流れている様子はありません。

(稲付川終端部の開渠)

近くに下水神谷幹線のポンプ場もあることから、稲付川の暗渠を流れてきた水の殆どは
そちらのポンプ場から、みやぎ水再生センター経由で隅田川へ放流されているものと思われます。
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根村用水 その2 縁切榎から姥ヶ橋

2015年06月08日 | 東京のお散歩
根村用水は、なるべく緩やかな勾配を選びながら下り旧中山道にぶつかります。

(旧中山道との交差点)

旧中山道はこの辺り(縁切榎付近)から岩ノ坂という坂を登り、清水町へ至りますが
やや江戸寄りで交差する石神井川の板橋とは、それほどの標高差を感じません。

(縁切榎)

用水は板橋区公文書館の脇をながれ、地形に沿って蛇行しながら
帝京高校の北側に出ます。

(公文書館)

(暗渠に付き物の銭湯もあります)

(護岸の石積が流路跡を物語る)

(帝京高校脇)

流路の更に北側は稲荷台という小高い丘で、その丘の向こう側にあった
稲付川の自然谷頭へ接続するために、切り通しが掘られていました。
切り通しは、高度成長期に埋め立てられて、住宅街の道路となってしまっております。

(かつて切り通しだった流路は埋め立てられて、周囲の標高に合わせた道路となっている)

丘のサミットには軍用道路の跡である道があり、橋が遺されています。

(火薬運搬用軍用道路)

(橋の遺構)

この橋から姥ヶ橋交差点付近は、明らかな川の跡の様相ですが
逆に言えば、唯一通行できない区間でもあります。

(唯一通行できない区間)

姥ヶ橋交差点を過ぎれば、稲付川です。
つづきは稲付川の回で。
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根村用水 その1 日曜寺

2015年06月07日 | 東京のお散歩
石神井川中流、板橋区双葉町付近から稲付川に接続していた用水路が根村用水です。

(石神井川根村堰付近)

江戸時代に灌漑用水として開削された用水路です。
飲料水として開削された、玉川上水をはじめとした多くの上水路と同じく
比高の差の少ない始終点間を、うまく通して稲付川の谷頭まで結んでいます。
もちろん、現在では暗渠化されていて、ほぼ歩き通せるルートとなっています。

(明らかに暗渠の道)

石神井川本流自体の、流路の直線化によって、本来の分岐点は失われていますが
流路に沿って歩くと「あぁ、確かに用水路があったな」と思える遺構が
其処彼処に見え隠れしています。

(護岸の石垣が残る幼稚園)

途中、日曜寺という寺院があります。
この寺院は真言宗霊雲寺派の光明山愛染院という山号院号を持つ寺で
正徳年間(1710年代)に宥慶比丘が堂を結び、比丘に帰依した徳川(田安)宗武によって
伽藍が造営されました。
また宗武が三男の松平定信も篤信していたことから、定信の揮毫による扁額も寄進され
現在でも門に掲げられています。

(日曜寺の扁額)

門前には根村用水を渡る小さな橋の跡があり、流路を確定することができます。

(門前の橋の欄干と日曜寺)
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板橋宿観明寺

2015年06月06日 | 東京のお散歩
私事ですが、今日は亡き最愛の母の誕生日であり、一周忌法要の日でもあります。

母の墓は、母系先祖代々の菩提寺である、中山道板橋宿にある
如意山観明寺という古刹です。



現在の我が家の墓には、母方の祖父母と、祖母の一族の一部の人が眠っています。
もちろん母もそこにいますし、私も将来そこを終の住処にする事になります。
そのほかにも、境内には遠近取り混ぜて縁戚の墓が何柱か建っています。

そんな我が家の菩提寺、観明寺は歴應元(1338)年創建と伝えられ
延宝年間(1670年代)以前に中興開山とされています。

境内には、かつて板橋宿の北側にあった加賀前田家下屋敷内にあった稲荷社や
明治六年に板橋宿繁栄祈願のために勧進した成田山新勝寺の不動明王の分身が祀られています。





三門は前田家下屋敷の通用門だった赤門で、
その門前に寛文元(1661)年刻の庚申塔が建てられています。(都内最古)

(三門)

(庚申塔)

三門を入って右には、近年寄進された可愛らしいお地蔵さんたちが並んでいて
参拝客を優しい笑顔で見守っていただいています。

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志村三泉

2015年06月05日 | 東京のお散歩
板橋区の志村地区には、中山道沿い、もしくはその周辺に
三つの有名な湧水がありました。
志村三濫泉とも呼ばれた湧水は、「薬師の泉」「見次の泉」「出井の泉」の三泉です。

「薬師の泉」は志村坂上、住所でいうと小豆沢にあって、
かつて徳川吉宗が鷹狩の際に立ち寄った大善寺境内の湧水で
吉宗によって、本尊の薬師如来が清水薬師と名付けられました。

(薬師の泉)

寺は昭和初期に隣接する総泉寺に統合され、湧水の周囲は庭園となりましたが
戦後荒廃し、平成元年に板橋区が公園として整備公開したものです。

江戸時代には、中山道を行き交う人々の喉を潤した名水だった泉は
今でも地域住民の憩いの場となっています。

(薬師の泉庭園)


「見次の泉」は、見次公園として今でも湧水による池が親しまれていて
ボート遊びもできる公園となっています。
また北側の崖からも若干の湧水がありますが、以前崖上にある国内最大級の印刷会社が
有機溶剤であるトルエンの漏出事故を起こして
湧水からもトルエンが検出されるという忌まわしい事故もありました。

(見次公園の崖と噴水。湧水は池からのものが中心)

「出井の泉」は、現在の清水町や泉町の由来にもなっている泉で
前野町と志村の間に刻まれた谷には、かつて出井川という川が流れていました。

(出井の泉の谷頭)

現在の前野公園や見次公園といった谷頭からの、いくつもの湧水からの流れを集めて
新河岸川に注いでいましたが、出井の泉はその中でも最大の源流でもありました。

(出井の泉の井戸)

(出井の泉は紫陽花の名所)

宮本町(かつて清水町の一部)の清水稲荷は、この泉に由来しています。

(清水稲荷神社)
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東京タワーと芝公園

2015年06月04日 | 東京のお散歩
昭和三十三(1958)年に竣工した自立式電波塔、東京タワー。
放送電波送信所としての主役の座は、スカイツリーに譲ったものの
東京のシンボルとしては、今でも主役級の施設です。

(東京タワー)

元々は飯倉御厨と呼ばれる伊勢神宮荘園で、江戸時代に増上寺が移転してくると
その寺領となります。
芝公園内には古墳があることから、有史以前の古代から
この地は宗教的な場所であったようです。

(増上寺と東京タワー)

明治時代に、寺領の一部が芝公園として開園し、1号地から25号地に区画分けされました。
東京タワーは、その中の20号地に建てられました。

(港区立芝公園)

(赤羽橋からの東京タワー)

(都立芝公園からの東京タワー)

20号地は、紅葉山と呼ばれていた場所で、東京タワーは、その高台の上に建っています。
麓には「もみじ谷」と呼ばれ、「もみじの滝」という、人工水源による滝が落ちています。

(もみじの滝)

滝周辺をよく観察すると、今でも少ないながらも湧水があり
東京タワーの隠れた絶景にもなっています。

(もみじ谷の崖とタワー脚部)
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北の丸公園

2015年06月03日 | 東京のお散歩
江戸城、今の皇居の北側には、北の丸公園という環境省管理の公園があります。
室町時代には、関東守護神の築土(津久戸)神社社地で
田安台にあったことから「田安明神」とも呼ばれていました。

江戸時代初期には甲斐徳川家や駿河徳川家の屋敷となった後、火除け地となり
吉宗以降、御三卿である田安徳川家(西側)と清水徳川家(東側)の上屋敷となりました。
田安も清水も、屋敷地の地名に由来しています。

(春の田安門)

(清水門)

明治以降は近衛師団兵営地となりますが、戦後公園として整備されることとなり
昭和四十四(1969)年に、昭和天皇の御還暦記念に開園しました。

(北の丸公園の広場)

日本武道館は、開園に先立つ昭和三十九年に、
天皇皇后両陛下(昭和天皇、香淳皇后)をお迎えして、開館しました。

(日本武道館)

清水徳川家の屋敷地には現在、科学技術館や国立公文書館、国立近代美術館が、
田安徳川家の屋敷地には日本武道館や森林地、
国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)などがあり
森林地の奥には、都心にありながらヒカリゴケの自生地が存在しています。

(国立公文書館)

(工芸館)

(ヒカリゴケ自生地近くの渓流)

また、田安門両側に広がる濠、牛ヶ淵と千鳥ヶ淵は、桜の名所としても知られています。

(千鳥ヶ淵の桜)
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音無親水公園

2015年06月02日 | 東京のお散歩
東京都北区、王子駅や区役所のすぐそばに、渓流が人工復原されています。
音無親水公園と名付けられたこの公園は、石神井川の旧流路にあって
飛鳥山の下をトンネルで短絡する石神井川の導水路が作られたのち
かつてこの地にあった権現の滝などを模して親水公園となったものです。



江戸時代は、音無渓谷の最下流として料理屋なども並んだ
風光明媚な行楽地だったようです。



現在でも、桜の季節や夏には北区民のみならず、遠方から遊びに来る人も多いようです。


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清水谷公園

2015年06月01日 | 東京のお散歩
赤坂のホテルニューオータニの向かい、参議院議員宿舎の並びに
池と流れのある公園があります。



赤坂見附門の向正面、かつて赤プリこと赤坂プリンスホテルがあった辺りには
紀州徳川家の上屋敷があって、隣接する井伊家中屋敷(現在のニューオータニ)との間に
清水の湧く谷があったことから、この地が清水谷と呼ばれるようになりました。
藩邸跡地は維新後に、紀州徳川家の屋敷地付近は北白川宮邸となります。

明治十一(1878)年には紀尾井坂の変で、大久保利通がこの地で暗殺され
その現場となった当地に哀悼碑が建てられました。



東京市の都市公園となったのは、それから12年後の明治二十三年で
心字池などが整備されました。
平成十三(2001)年に、公園の一部がリニューアルされ、湧水の人工復元などが行われ
大久保利通哀悼碑を中心に、赤坂や永田町界隈の憩いの場となっています。
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