明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



万年助手として77歳まで東大に居座る。やりたいことしかやらない牧野富太郎だそうだが、早々に今回の朝ドラ観るのを止めた。朝っぱらからこんな男はまっぴらである。 小学校の図書室で始業のチャイムが鳴っても出て来ず騒ぎになったくらい、伝記、偉人伝の類に夢中になったのは、周りを見回したって普通の人間しか見かけないからであった。質問に答えてくれるような大人も皆無であった。あの当時の子供向け偉人伝は、多分に戦前の児童教育の臭いが残っており、随分騙された。 小四で図書室にはない大人向けの『一休禅師』をねだって買ってもらったが、おそらくどこかでトンチ小僧の一休さんは架空の話だと、聞き齧ったのではないか?その頃、大きな活字が嫌になっており、また子供向けの挿絵を、子供だと思って馬鹿にしてると思っていた。『一休禅師』に載っていた曽我蛇足の一休像を参考に本日も一休禅師を作っており、私も一度描いたイメージに関しては実に執念深い。



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村に飛来したガメラにびっくりする老人、左卜全にしか見えない一休禅師、ようやく雲水姿に、頭陀袋などの装備に。 陰影のない第一作は三遊亭圓朝だったが、当時、肌は重ね塗りをしていた。見た目にはその方が明らかにリアルに見えるが、陰影を出さずに撮影してみると汚れにしか見えず、慌ててその場でベタ塗りした。一休の雲水姿は汚らしくボロボロで良いのだが、そう考えると、陰影のない浮世絵、かつての日本画は、形状はともかく、着彩で汚し表現はあまり見かけない。 先日リアルなフィギュアの制作工程をYouTubeで見たが、被写体として考えた場合、リアルだ、ということ以上のことは伝わらない気がした。私の作品が質感など、言いたいこと以上のことは作らないのに、拡大するほどリアルに見えるのは理由がここにあるのかもしれない。ドラマの葛飾北斎の西洋画を見てのセリフ「見たまんま描いていやがる。」私はよほどこのセリフが気になっているようである。北斎は以後、見たまんま描こうと余計なことを始めてタイムアップとなった。と思う。



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連日アップされている横尾忠則さんの寒山拾得に関する言葉は、私にとって単なる美術家の自作に対するコメントではない。 小学校の図工の時間が大好きだったのに、写生となるとガッカリ。目の前の物を見ながら描いたってつまらない。遠足に行った後日、図工室で遠足を描くのが好きだった。人形を作るようになっても、人体など本当のことを、まるで穢れる、とばかりに、頑なに学ぼうとせず、自分の中に在る物だけで作り続けた。私には他人の作った石膏の塊を描くなんてつまらないことは出来ない。作家シリーズを始めるにあたり、唯一の懸念が、写真を参考にすることにより本当のことが身についてしまうことだった。 結局物心ついて以来、外側の現実でなく、自分の中に在る物だけに執着して来たことになる。外側にレンズを向ける、写生の最たる写真という、まことを写す、という用語を蛇蝎の如く嫌ったのは、結局私ががそういうタチなのだ、というしかない。 美術館にも行かなくなり随分経つ。最近は読書も資料以外読まない。遠足はもう充分ということなのだろう。後は好きに遠足の絵を描かせてくれ、と。そして至ったのが『寒山拾得』だった。横尾さんのインタビューを読みながらつくづくと。



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陰影を削除することにより、構図その他自由になった。しかし光と影の芸術といわれる写真から、質感描写を手放したことになる。しかしその質感も、私が粘土で作った物であり、私がそうする分にはどうということはない。横尾忠則さんが寒山拾得に関してインタビューで〝彼等を描くためには日本の古典絵画の手法を導入するしかない”といわれていた。 以前葛飾北斎のテレビドラマで、西洋画を見た北斎が「見たまんま描いていやがる。」ドラマ内のセリフではあったが、日本人の頭に在るイメージは、見たまんま描いていては描けない、ということだろうと思った。その北斎はそこから西洋絵画の手法を取り入れたが、時はすでに遅く、その件に関しては中途半端に終わった。あと十年あれば、と死んでいったが、目標を持つと、こういう死に方になりがちである。なので先の目標は立てないことに決めた。



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蘭渓道隆と無学祖元、椅子(何か名称がある)に座った木像や絵画を元に制作したが、制作中なのは坐禅姿である。何となく気になり検索すると、曹洞宗は袈裟を着けて坐禅するが、臨済宗は絡子いう物を着けるという。危なかった。どちらも細かいディテールは後回しにしていた。しかし油断は出来ない。700年前もそうだったのか? 臨済宗は壁を背に坐禅するが、曹洞宗は壁に向かう。禅宗の開祖の達磨大師は面壁九年のように壁に向かった。どうやら臨済宗は途中から壁を背にすることになったらしい。それを知って、制作中の坐禅中の無学祖元に剣を向ける蒙古兵は壁の中にめり込んでいることになってしまう、と思った。だがしかし陰影がなく、また無背景となれば、明らかなイメージ上の作品である。と気にしないことにした。考えてみると何が良いといって、陰影がない、即ちすべてイメージの範疇ということを最初から表明していることになる。そういえば、まことを写すという意味の写真という言葉を嫌っていた私は、ここ10年ほど心安らかである。



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やってみて判るということはある。竹竿にシャレコウベ掲げた一休和尚だが、一作目は、その持ち物とのコントラストが面白い、と正装にした。今制作しているのは雲水姿で、朱塗りの大太刀を持たせる。ただそれは撮影用で一休像展示の場合には、竹竿にシャレコウベにするつもりである。そちらの方が有名なエピソードでもあるし、インパクトもある。しかしどう考えても黄昏れた雲水姿にシャレコウベの方が似合う。逆に朱鞘の大太刀は、正装に朱色を使ったこともあり、こちらの方が似合う。シャレコウベと朱鞘の大太刀を入れ替えたくなった。 しかし今回の雲水姿には、横に乞食か、もしくは昼間から胸元露わなその筋の女を配し、一休自ら吐露するところの風流好色腸(はらわたの奥まで好色で詰まっている)ニュアンスをこの女の胸元で漂わせようと考えていた。しかし竹竿にシャレコウベは〝門松は冥土の旅の一里塚〜”である。正月に胸元露わはおかしい。いったい何をブツブツいっているのだ、という話であろう。私もそう思う。



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横尾忠則さんが寒山拾得に関心を持ったのは、三島由紀夫が文学に興味を持つなら森鴎外の「寒山拾得」を読むといい、と書いていたのが心の隅に引っかかっていたそうで、またご自身の今までの作品をぶち壊すことになるかも知れない。という覚悟だったそうである。 この熱量に、しばらく『寒山拾得』をモチーフには誰も手を出せないだろう。私にしても、昨年『Don’t Think, Feel!寒山拾得展』を開催していたから、再び制作にかかるけれど。 三島由紀夫没後50年の/2020年、ついに出版された三島が被写体の『男の死』だが、本来三島と横尾さんの二人の写真集として企画された。長らく出版されなかったが、石塚版〝男の死”はあくまで作り物だし、制作意図は違えど、先に発表しなければ滑稽なことになるだろう。階下に横尾さんと懇意の映画関係者がいて、孫娘が高校を卒業したら出る、と聞いて10年の間、気が気ではなかった。そして20年の『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』の会場で、5ヶ月後のニューヨークでの出版を知った。これは三島にウケることだけを考えていた私への、三島からの褒美だと思っている。



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私のような渡世の良い所は、やれることはやったのに、先に登頂された、とか、ホームラン一本多く撃たれた、とかない所である。まして自分と他人を比較するという発想がないので、良くその状況で笑っていられるな?といわれてしまうこともあるが。お目出度い奴といわれれば反論の余地はない。といっても負けるのが嫌で、親戚の小学生のオセロによる対戦を拒否したことはある。 私の目的が、名作を作ることでも芸術家になることでもなく、私の頭に浮かんだイメージを可視化して〝やっぱり在った”と確認することであることは何よりである。それは如何なる巨匠、芸術家であっても不可能で、私がやるしかない。 中学生の時、近所の同級生と、バンドを作ってビートルズなど弾いたりしていたが、ある日私は、オリジナル曲を作ることを主張した。「自分達で作った曲ならビートルズより上手いだろ!」(原語ママ)私のお目出度さは、今に始まったことではなさそうである。ただしその時は、我がバンドの演奏能力の進展をただ阻害しただけに終わった。



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私の大リーグボール3号である手法は、光と影の芸術たる写真から陰影を排除することにより、写真、西洋画になく、浮世絵やかつての日本画にあった自由を手に入れようという試みである。日本人が陰影を描かずに来た理由に関し、決定的な説をまだ聞いたことがない。他所と違って我が方には八百万の神がいて、便所にまでいるとなれば、陰影の現れようがないということにしておく。 立体を制作するというのは、陰影を作り出すことに他ならない。良かれと思って作った陰影を、自ら消す。その葛藤の上に成り立っている。撮影自体は構図も決まっているし、一応数カット撮って、あとは切り抜き配するだけである。つまりこの手法は、被写体の出来により成否が決まる、という、私の原点が人形制作であることを思い出させてもくれる。ここが上手く出来ている。しかしその挙句が、一カットのために数ヶ月かけて被写体を作ることに。だがしかし被写体制作者と撮影者が同一の二刀流である。被写体制作者が撮影者に「お前はパチパチで終わりではないか?」と揉めることはない。



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一日  


一休宗純は一作目同様、左手に長い物を持たせるし、今回は持たせる朱鞘の大太刀は撮影用で、一休像の展示には、竹竿にシャレコウベに変えるつもりで、そんな事情もあって、ポーズにも工夫がいる。そこで酒の入った瓢箪を持たせたい。左手の朱鞘の大太刀持った手に紐を絡めるように持たせようと考えていたが。先日、テレビ時代劇『紅孔雀』の八名信夫を思い出した。紐を手に絡め、瓢箪を肩に乗せてそれに首を向け、口を寄せて酒を飲むのがカッコが良かった。それを観ていた私は三、四歳だったけれど。八名信夫スタイルに決めた。 朱鞘の大刀を傍に座る一休の絵はいくつか残っているが、役立たずの象徴である竹光の大太刀は、佐々木小次郎の〝物干竿”こと『備前長船長光』どころの長さではなく二メートルはありそうである。そもそも竹光でなければ老人には持ち運びは困難だろう。



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早朝目が覚めたら懐かしのドラマ『おやじ太皷』(68〜9年)をやっていた。元祖ジャニーズのあおい輝彦が出ている。矢吹ジョーの吹き替えが印象に残るが『冬の旅』(70年)で錆び釘踏んで破傷風になり、痙攣しながら死んで行くのがやたら怖かった。というのも、丁度その頃、ボーイスカウトのキャンプで錆び釘を踏んだ。キャンプには、世話役の父兄が同行することがあったが、その中に大工がいて「俺たちはこうするんだ。」といって、私の傷口に蝋燭の蝋を垂らし、金槌でトントン叩いた。あんたのツラの皮みたいな足の裏と小学生の足の裏を一緒にするな、という話で案の定、帰宅後夜中に父に連れられ、救急病院へ、さらに痛い目にあった。陶芸家を目指していた頃、粘土屋の奥さんが破傷風で、あっという間に亡くなった時も、思い出したのは痙攣するあおい輝彦であった。両ドラマとも木下恵介だったから、やはりその筋に好かれたのかもしれない。ついでにタイトルをキャッチーにしてみた。



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創作することにより、私は何をしにこの世へ?について少しでも解明に向かうとしたら、そのこと以上に興味を持てる事物などあろうはずがない。ただでさえ、小学時代を通じ、興味があること以外は関心がない、と通知表に書かれ続けた私は、せめて関心があるフリぐらいせよ、という母の教え(直接そういわれた訳ではなく、その顔色から判断すると)により、様々なタックルをかわして来たが、この期に及んで、そんな演技プランはもう必要ない。そもそも寒山拾得を作ろうなんて人間が、そんなフリして生きているなんてことは、寒山拾得を百ニ点も描いた人物を見るまでもなく、おかしな話である。 一休和尚ば朱鞘の大太刀と酒の入った瓢箪を持たせることにした。子供の頃、テレビ時代劇で、八名信夫がいつも瓢箪ぶら下げて酒を飲んでる浪人みたいなのをやってたな、と検索したら『新諸国物語 紅孔雀』だった。



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フェイスブックから、一年前はどうしていた、何年前はどうしていたと知らせが来る。なので一年前に、こんな物を作っていた、というのは判っていたものの、ふげん社の作家活動40周年記念展『Don’t Think, Feel!寒山拾得』がどうしても昨年とは思えず。年齢からすると年月の経過が矢の如しのはずが、感覚からすると二年は経っている。なので一応確認してから昨年と書いた。 四十年ひたすら、より私に快楽をもたらすモチーフを、とそればかり考えて来た。そういう意味での究極は『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』であろう。創作の快楽だけを云々するならこれ以上の物はなかった。そのトークショーで次は何を?に、いずれはと考えていた寒山拾得と答えてしまった。そのふげん社が、拾得が普賢菩薩の化身であるところから名付けられたと知り、即決めた。 ところが寒山拾得以降は、何故寒山拾得なのか?など、今まで使ったことのない筋肉を使わざるを得ず、これが二年経ったくらいの時間を感じる原因だろう。しかしその分、物心ついた頃からすでに始まっていた等、色々合点が行くことが多い。 自分の成すことにより、私の場合は制作することにより、自分が何をしに、この世にやって来たのか?について解明されるとしたら何よりであろう。

 



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一休宗純制作開始。の前に。結局蒙古兵を、後は着彩を残すのみ、というところまで作ってしまう。当たり前の話だが、作ったことがないものは新鮮である。珍しい。しかも妙な物がウチにあるな、とつい手を伸ばして眺めてしまい、手を加えてしまう。蒙古兵などもう作ることがないだろう。 今回は実在した臨済禅の重要人物は、展示を前提として作っていたので、一カットのために大変な時間がかかった。昨年の寒山拾得展は、写る所だけ作ったが、でなければ2年間では出来なかった。どこかで、独学我流者の、苦肉の策だと思っていたが、以後、展示を考えない物は、写らない部分は、さらに冷徹に作らないことに決めた。でなければ私の最も恐れる、死の床で作り残しの後悔に、悶え苦しむことになるだろう。また、さらに危険な、前面だけ作った物に、後から背面を作る、ということを避けるため、未練がましくとっておかずにすぐに廃棄しよう。



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