明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



イラストレーターの内澤旬子さんがブログで、現代養豚と豚を知るため、自ら豚を飼い、その豚を食べるまでを体験しようという、身体を張った試みをしている。殺してさばくところまで自身でやるのかとドキドキしたが、それはさすがに業者に依頼するようである。いよいよ食べるところまでこぎつけ、参加者を募集している。主催者が女性ということもあるが、参加者は多くを女性が占めるに違いない。  「犬食べたら美味しかった。昔飼ってたけど」といっていたのは知人の女性だったが、この類の台詞は男性から聞くことは少ない。私の友人は、小学生の頃飼っていたドジョウが食卓に上って以来、昭和30年代生まれの東京人のくせにドジョウが食べられない。別の友人に、熱帯魚を飼っている私が飼育をすすめると、彼は小学生の頃飼っていた金魚に死なれて以来、飼うのは嫌だという。初心者向け『金魚の飼い方』に、金魚に名前を付けるのはやめましょう。と書いてあったというと、はたして彼は名前を付けていたというので大笑いしたが、数年前、彼は船舶免許を取り、釣りのために中古の船を買い、その船に付けたのは、件の金魚の名前であった。どんだけなんだよ、という話であるが、そんなナイーブなところが彼の良いところではある。 男子高校を卒業し、入った工芸の専門学校で入学早々、親睦を深めるためと称した合宿があった。キャンプファイヤーを囲んで、飲酒の果てに皆で外で寝てしまったが、夜中に薄っすらと目が覚めると、先輩の女性が数人、焚き火を囲んで話しているのが聞こえてきた。それは何科の誰君は筋張ってて硬そうだとか、誰は煮込んだほうがと、男子生徒の調理法と味について話し合っているのであった。再び薄れゆく意識の中で、大変な学校に入ってしまった、と思ったものである。いまでこそこの“議題”が女性間で論議されることが珍しくないことを知っているが、思えば女性の“カワイー”が“オイシソー”に聞こえるようになってしまったのは、あの一件以来のことであろう。  私は食べ物に愛称は付けないほうが食べやすいと思う。

過去の雑記
HOME

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )


離島  


知人が日本最○端の島にいると聞いて、そこでは私が陶芸家を目指していた二十歳の頃の友人が、御主人と焼き物を作っているはず、とメールをしたら、さすがに狭い島のことで、もうすでに何度も会っているという。東京に生まれてわざわざ島に移住している人だし、と思ったらメールのアドレスを持っているというので、さっそくメールをしたらすぐに返事が着た。 何十年も会っていない彼女に、風呂場でジーパン穿いたままオシッコしてみたいけど、なかなかできない、といっていたのを覚えているといったら、そういう下らないことを覚えていてはいけない、と叱られてしまったが、読書家の彼女とは、実のある話を沢山したはずなのに、覚えているのは、そんなどうでもいいことばかりである。私の場合、それは誰に、何に対してもそうであって、そんな記憶が、人物を作るにあたっての私の造形に、重要な特徴を与えているはず?である。  離島に住むにも、なかなかシビアな問題があるようだが、いまさら東京には住めないという。私も地方に生まれたら、絶対東京には出てこないであろう性質なのでよく解る。しかし、4キロ四方誰も住まない廃村などに住んだこともあるが、ただノンビリとしてしまって、だんだん何かを作ろうという気が失せていった。作るということは、必ずしも素晴らしいことではなく、ただ塵芥の類を増やすだけになりかねないわけだが、私の特徴を生かそうと思うと、何かを作るべきだと思っていた。なにより好きなことをしていると、努力の必用がない、もしくは努力の自覚をしないで済む、というのが何よりである。  東京に住むといってもスタイルは様々で、私の出不精も極まってきた感がある。離島の定期便船ではないが、深川から月に数度しか外に出ない。通う店は決まっているし、もっぱら近所の中年から老年の連中とばかり飲んでいる。展覧会など気持ちはあるが足が向かない。今からこんなことではいけないと思うのだが、自分のなかにどんな物が在り、それをいかに形にするかしか興味がなくなってしまった。NYに行った時、中国人街やイタリヤ人街、そのほんのせまい区域から一歩も出ないで死んでいく人がいると聞いて、バカじゃないかと思った私がこの有様である。こんな住まい方ができるのも、また東京なのであろう。 そういえば昔、彼女を含む陶芸家の卵等と、山に遊びに行ったことがある。視界が開けた場所でのんびり景色を眺めたが、たいして標高が高いわけでもないのに、地平線が地球の丸みを示して湾曲しているので、「地球って案外ちいせえなァ」といったら、皆は私と逆なことを考えている場面だったらしく、「ここで何でそんなこというの」と彼女に叱られたのであった。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


アダージョ10月号の特集場所がようやく決まる。今回は私が過去に制作した人物の中から、特集人物にちなんだ人物を共演させようかと考えている。主役の人物に特集される場所、それを画面の中に入れなければならないが、プラスもう一人となると、ただでさえもっと々と過剰気味な私は、文字をを入れるスペースを確保するのを忘れ気味なので、気をつけなければならない。共演が可能かどうかは、撮影場所を決めていないのでなんともいえないが、せめて『巨人の星』の明子姉ちゃんのように、物陰にこっそり、などできないだろうかと思っている。 決めてもいないのに書いてしまうのは、アダージョが配布される前日、雑記の中から、制作に言及している部分を抜書きして制作ノートのようなページを作るが、あの時こう考えていたのに、あそこで気が変ったとか、私自身知るのが面白いからなので、無責任な話だが、あくまで雑記ということで。
森鴎外の脚気論争だが、聞くところによると、慈恵医大と東大は、そのことで未だにいがみ合いを続けているらしい。慈恵医大ーイギリス医学ー海軍VS東大ードイツ医学ー陸軍。なんともはや。開いた口が塞がらない。

過去の雑記
HOME


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




文豪というと、まずイメージするのは鴎外、漱石あたりであろう。文といっても豪なわけで、痩せ型の、例えば泉鏡花などは、あまり浮かんでこない。 加えて鴎外は軍人であった。軍医のトップ、中将相当の陸軍軍医総監である。そこで最初に浮かんだ背景は、小石川植物園内に本郷より移築されている、鴎外も学んだ医学校であった。そこに軍医総監姿の鴎外と考えたわけだが、使用がNGとなり、根津神社に変更した。軍医総監の礼服姿である必用は無くなったわけだが、文豪を文豪として描くのも能がない。残された写真は偉いし文豪だしで、モノクロならともかく、明治時代のカラフルな礼服を着せたら面白い結果になりはしないかと考えた。だがしかし結果はご覧のとおり、結局偉い人になってしまってメデタシメデタシというわけである。 小島政二郎の『古武士の面影』によると、昔は検印も印税もなく、一度出版されるとそれで終わりであり、著作権は出版社のものと思われていたらしい。再販になろうが何刷になろうが儲けはすべて出版社だったという。随分乱暴な話だが、田山花袋などは雑誌で発表したものを別の社から出そうとしたら、著作権侵害で訴えられたそうである。それはおかしいと、印税と検印を初めて採用させたのは鴎外であり、印税が入るたびに鴎外の恩を思うべきで、我々は鴎外に足向けできない、と正宗白鳥がいっている。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




フランス版『陰獣』が本日より単館レイトショーだそうである、随分前に入手した日本語台本を読む限り、あまり面白そうにない。主演の女性も外国人好みという感じである。単館のレイトショーでも、これで劇場公開作と謳えるわけである。観ていないのでなんともいえないが、東洋的エロティック作品として、あちらではウケるのかもしれない。 私が中学生時代にファンであったカトリーヌ・ドヌーヴの『昼顔』という作品は、3本立て150円で観たが、ドヌーヴ演じる貞淑な妻が、夫に隠れて昼の間売春婦になるという話であった。客の中に東洋人の男がいて、小箱を取り出し、中をドヌーブに覗かせ、謎のオリエンタル・スマイルを浮かべて二人部屋に消えていくというシーンがあった。後に『エマニュエル夫人』でいわれたように、東洋人の猿に我がドヌーヴが、と差別的な嫉妬心を煽る場面かもしれない。もっとも中学生の私にしても、東洋人の猿とは思わないものの、あんな爺が、と似たような感情にとらわれたものである。友人の間では、あの箱の中には何が入っていたのか、という話になったが、見ただけで意味ありげに笑うのだから、ビジュアル的に怪しいもの。つまり大人の玩具的な物だろう、という意見にまとまった。しかし一人、ヘンな虫じゃないかという奴がいた。他の連中はどうして?という顔をしていたが、私には“蟲”と聞こえ、何故だか彼にはレベルの違いを感じたのであった。背景には、彼の兄さん姉さんのいかがわしい噂を耳にしていたので、余計に想像してしまったのであろう。彼には敬意を表して私の蔵書の中から谷崎潤一郎やヘンリー・ミラーの文庫本など貸したが、彼は絵が多い本が好みのようで、レベルには合わなかったらしい。 現在のように情報が潤沢に得られないと、13歳でもヘンリー・ミラーを読むはめになるわけだが、そういえば当時ホー・チミンが女中に産ませたという娘の自伝『私はホー・チミンの娘』というのを読んだのを思い出した。副題が確か“私が何故売春婦になったか”で、白人の牧師に犯されたり、とんでもない話であったが、検索してみると、やはり私が13歳の時の話であった。東洋なエロというよりダメだろ私、という話であった。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




神奈川近代文学館より『大乱歩展』図録のデザインが届く。表紙がポスターと同じ作品で、裏表紙が『D坂の三人書房』ということで、自分で並べたことはなかったが、こうしてみると青と赤のコントラストを含め、なかなか良いコンビネーションにみえる。 三人書房は乱歩のスケッチを基に制作したが、二階では乱歩が探偵小説の将来について夢想しながらゴロゴロし、一階ではすでに女が殺されており、先ほどから無人の店内では万引きされ放題であり、初登場の明智小五郎が向かいの白梅軒から、眺めたであろう三人書房である。殺人事件が実際に乱歩が三人書房を経営していた時期に起こったとして、明智が団子坂方向から、実際は団子坂上の白梅軒に歩いてきたとすれば、森鴎外邸の前を通ってきたに違いない。表紙の大乱歩に比べ、最後の線香花火を眺めるようにシミジミとしており、裏表紙には相応しいように見える。
ここ数日は夜から夜中にかけて女子バレーボールから世界陸上と、飲みながら眺めるには最高の日々を過ごしている。特に世界陸上は、600キロ歩かされている男のおかげで、司会者がテンションを抑え気味なのがありがたい。歩いている最中も録画はしているだろうが、今のところ物まねされるほどの名言は発していないように見える。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




それにしてもウサイン・ボルトの9秒58というのはどうしたことか。外も明るくなり、観たら寝ようと思っていたのに改めて祝杯ということになってしまったではないか。私が小学生の時、メキシコ・オリンピック幅跳び、ボブ・ビーモンの世界記録55センチ更新以来の異常な記録という気がする。可哀相なのはタイソン・ゲイである。9秒71で負けるなんて。呆れかえって大宮デン助みたいな顔になっていた。 ボルトはこの期に及んで、ゴール前で、まだキョロキョロしていたが、とにかく懸命に走って、周りがどうだったかは、走り終わってから知ればいいではないかと思うのだが。あのレベルになると、ライバルの状況を目で見ることで、身体が反応してより加速するのだ、などということがあるのだろうか。  いつだったかNHKで、一流ランナーの、スタートの反応時間がいかに速いか、という番組をやっていた。おそらく某大学から持ち込まれた計測機器を前に、ロケットスタートのベン・ジョンソンの凄さを示すはずの、半ズボンのトレパン姿のアナウンサーが、ジョンソンの記録を上回ってしまった。機械の調子が悪いようで、というアナウンサーに、「そういうことはありません」。どうみても文科系の、このアナウンサーの顔を観るたび、思い出して未だに可笑しい。 やはりスタートが有名だった西ドイツのアルミン・ハリーの記録、10秒0が破られるまで8年かかったはずで、68年の全米陸上でハインズほか3人の黒人選手が9秒9を出したニュースは良く覚えている。いつか記録更新がぴたりと止まる時が来るのだろうが。それはいったい、いつなのだろう。とにかく9秒58は桁が違っている。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


午後、同じマンションのYさんと、富岡八幡宮の『泉谷しげる奉納ライブ』に出かける。最初からテンションが高く、40分ほどのステージだったが、忌野清志郎の『雨上がりの夜空に』など聴けた。出掛けに来ると電話をもらったFさんは、おそらく間に合わないだろうと携帯で知らせようと思ったら電池切れ。遠くから来て可哀相に、と思っていたら早々に着いて、すぐ側で聴いていたらしい。 古石場文化センターに寄り、職員のNさんが、わざわざ持って来てくれたという、アダージョ10月号用に作る人物の資料を借りる。写真資料がありそうでなく、書籍、雑誌に小さく載っているようなものでも、集めるしかない。“この人物だけは作りたくなかった”  K本は当然休みだが、Yさんが「Mちゃん(女将さん)退屈してんだから」というのでお邪魔して一杯だけいただく。終戦後、女将さんが小学生で広島から木場にやってきた頃の話など聞いていると、電灯も点いていない店内に外から差し込む炎天の光は、ほとんど昭和の光であり、アスファルトの反射とは思えず。 帰宅後電話してみるとFさんまだ木場にいるというので喫茶店で会い、久しぶりに近況など語り合う。20代半ばから女性の友人だが、どうしてもお互いの親の話しになるのは仕方がない。 帰るといつの間にか世界陸上が始まっていたので、早々に飲み始める。世間も休んでいると思うと、妙な時間に飲む罪悪感もなくすがすがしい。夜は『硫黄島からの手紙』を観る。中に在米日系人臭い兵隊も混じっていたが、クリント・イーストウッドは俳優としても大好きだし、監督としてもたいしたものである。以前にも書いたが、唯一『バード』における、チャーリー・パーカーの、悪魔と取引した類の彼の天才が描けていなかったのだけが不満なくらいである。 アメリカ兵に日本人捕虜を殺させて妙なバランスを取ったりしていた。子供の頃から御馴染みの、バロン西を惜しむアメリカ側の投降の呼びかけに応じずに死んでいったという美談はなし。事実ではなかったのであろうか。あとは再び世界陸上。“あの男”のおかげで、おそらく今回司会者は、テンションが押さえ気味になると踏んでいる。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


朝起きると山城新伍が亡くなった、とB級映画好きからメールが着ていた。体調が悪いとは訊いていたが。 山城新伍といえば、なんといっても白馬童子である。夢中になって見ていた覚えがある。鉄砲の弾を刀で受けていた。またがる白馬は流れ星。しかしなんとなく大川橋蔵だと思い込んでいて、高校生の時、銀座並木座で『仁義なき戦い』を見ていたとき、隣の友人に「こいつ白馬童子だぜ」といわれて軽いショック。 当時『快傑鷹の羽』という、後の仮面の忍者赤影の元祖みたいな仮面のヒーローもいたが、正義の味方といって、白馬童子の白装束ほど判りやすいヒーローはいないだろう。白馬童子以外では東映のお馬鹿映画の脇役として印象が残る。  ギタリストのレス・ポールも94で亡くなったそうである。ついこの間、未だ現役でライブに出演している映像をネットで観たばかりなのだが。ギターの開発者としてこれからも名前は残るだろう。久しぶりに多重録音を駆使したアナログ盤を引っ張り出して聴いてみた。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




猛暑の中図書館を2ヶ所廻り、シャワーを浴びて一休みしていると、側に立てかけてある70年代グレコ製ストラトキャスター(エレキギター)が、なんだか野暮ったく見えてきた。もともとこれは、手元にハウンドドッグ・テイラーが使用していた60年代製カワイのギターと同じピックアップが3個あったので、適当なストラトに着けて見たいと、ヤフーで落札した物である。ストラトは初めて手にしたが、プラスティックのピックガード、それ自体が鳴ってるような気がして、どうも気に入らない。カワイのピックアップはアルミのガードに着いていたし、ついでにアルミに代えてみたい。そう思うと、ボディの色も替えたくなってきた。その為には、もともとの塗装を剥す必要がある。思い立ったら吉日とばかりに、ギターを分解し、スクレイパーで塗装をガシガシと剥す。こういった破壊行為?は猛暑時が絶好である。ただ私が気をつけなければならないのは、ギターを分解し、色々構想を練っているうち気分が収まり、放ったらかしにして、今まで何台駄目にしてきたことか、ということである。ギターに限って私の根気は、何故か続かないように昔から出来ている。厳密にいえば他にもあるが、わざわざ雑記で白状するようなことでもない。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


連鎖  


実家から帰ると、知人から雑記のシンクロニシティとはなんだとのメールが数通。 それでは差し障りのないところをかいつまんで。先日の話に戻る。  かつて澁澤龍彦責任編集の『血と薔薇』という雑誌があった。三島が聖セバスチャンを演じ、篠山紀信撮影の『聖セバスチャンの殉教』と海辺で横たわるカットの『男の死』と題された作品が掲載されていた。それを担当された編集者の方と、明日お会いすることになり、そのことを知人に話すと、知人は昔、横尾忠則がリサ・ライオンとのコラボや、その『聖セバスチャンの殉教』を見ながら三島を描いているとき、スタッフとして横で見ていた。しかも今日、十年以上ぶりに連絡したところだという。 偶然というのは重なるもので、その晩インターネットで三島の書簡がアメリカで発見され、そのなかに未発表の『聖セバスチャンの殉教』の別カットがあり、一ヶ月前、東京で競売になったことを知る。口からは血が滴り、下半身を覆う白布がない。40年ぶりの新発見ということになる。 朝になり、結局編集者の方の都合がつかず、後日ということになった。 食事でもしようと出がけにポストを見ると、世田谷文学館より『堀内誠一展』のお知らせ。堀内誠一とはまさに『血と薔薇』のアートディレクターで、海辺の撮影の時、下半身を隠す三島に、全裸になるのを要求した人物である。なんとも不思議な一日であった。  知人は横尾忠則に近々会うというので、拙著『乱歩 夜の夢こそまこと』を渡して欲しいと頼んだ。大人向け乱歩を始めて読んだのは講談社の全集で、その挿絵は、未だに竹中英太郎作品とならぶ傑作だと考えている。サイトを見たら、今、近代文学者のシリーズを描いているというので、だったら『ObjectGlass12』もと、先ほど知人に託したところである。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


味覚  


昨日小岩でコクトー研究家のFさんに会い、ついでに実家に帰った。今日、久しぶりに小、中の先輩でもある陶芸家のSさんの家に寄り、溜まった世間話をする。ご夫婦で読書好きなので、アダージョの特集人物についての話など。Sさんからメールで聞いていたが、最近自作のスピーカーに凝っているというので聴かせてもらう。小さなスピーカー一つで低音が出る構造で、サイズアップした2作目ともなると、たいした臨場感に重低音。自作でこんな音がでるなら、買うのが馬鹿々しくなるだろう。 
明日は母の80歳の誕生日なので、食事に出かける。母はなんでも食べるので、どうせならとタイ料理屋へいく。タイ人のコックはあちらのホテルで働いていたそうだが、日本語が話せず、その分奥さんが片言ながら良く喋る。タイスキやら何とかカレーなど食べていると地震。タイ人の奥さんは怖くて頭が痛くなったという。随分揺れるといいながらメニューから目を離さない母。帰りにソイソースと書かれた瓶を一本買う。崎陽軒のシュウマイの、瓢ちゃんの中の醤油は今はただの醤油だが、昔は違っていた。いつかアジア食材の店で買った醤油がまさにその味で、しばらくシュウマイを買って楽しんだものである。誰にいっても判ってもらえなかったが。なぎら健壱が懐かしがりながら忘れたという、ウェーブラーメンの味も、私ははっきり覚えている。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


ここ数日、ユングいうところのシンクロニシティともいうべきものに驚かされている。こいうことが続いたり、動植物の擬態を見るにつけ、客観的存在を感じないでもないが、まあそんなこともあるさ、ということにしておく。雑記のネタ?としては非常に面白いのだが、書いていて長くなり、始めた当初に比べ、最近、無駄に長く、これも老化の兆候かと反省していたので止めておいた。

過去の雑記
HOME

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




カール・ストラスが1916年、ディアギレフに捨てられた後の、そろそろ奇行が目立ち始めたアメリカ公演中のニジンスキーを撮影したであろうレンズを入手後、(もちろん同型のという意味だが)レンズ収集熱がすっかり収まり、以来、現行のズームレンズを1本買ったきりである。しかし35ミリカメラ用にソフトなレンズが欲しくなり、Belticaという、一見戦前製にみえる東ドイツ製のカメラからはずしたマイヤー製トリオプラン50ミリf2、9を、M42マウントに改造したレンズをオークションで落札した。 ライツ社が、まだカメラを作っていない頃のズマールを入手以来、手元にあるのは、ほとんどガウス型のレンズばかりで、トリプレット型は、そもそも名前を聞くだけでダサくて判る、などといいながら敬遠していたのだが、クセのあるソフトな描写は、飛び道具としては面白い。  昔、法事で親戚が集まった時、数年前に亡くなった伯母を、100年以上前のレンズを金鋸で鏡胴に切れ込みを入れ、絞りを全開にさせたレンズで撮ったことがある。ソフトな描写でシワなど何処かへ消えてしまって喜ばれ、伯母は自分の葬式の時にはこれを使うといって、大事にプリントをしまっていたが、しばらくして、後ろにボンヤリ写っているのが、白布に包まれた他所の骨壷だということが発覚し、がっかりさせてしまった。もちろん遺影には採用されずに終った。 年寄りの女性は、とにかくシワさえなくなれば喜んでいるのだから、80になる母をこれで撮ってやろうと思うのである。 そういえば、古いカメラに懲りだしたころ、ソホフレックスという、イギリス製大型木製一眼レフで母を撮ったことがある。それにはかつての名レンズと謳われたレンズが着いていたが、出来上がった写真は陰鬱で、シワの彫りをさらに深くしたような写りで、とても母に見せられる物ではなかった。大英帝国のゴシック調の城や、苦みばしった男性を、威厳を強調して撮るならいざしらず。 レンズというものは、製造国の空気を反映するものなのか、以来、イギリス製レンズは一切手にしていない。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


一日  


午前中、同じマンションのYさんから電話、今、町会の神輿をK本の女将さんと見てるというので行ってみると、フジクラ電線の庭に神輿が休憩していた。ガードレールに寄りかかり、しばらく世間話をしながら3人で眺めるが、今日はもう目の前を通らないというので、Yさんと引き上げることに。そこに通りの向うから声をかけてきたのは自転車に荷物を積んだ77歳のSさん。「おーい来週は行くぞぉ」と笑っていた。  毎年この時期にはアメリカから妹が、2人の息子を、夏休みの間連れて帰ってきて、こちらの学校へ通わせるのだが、今年もアメリカに帰る寸前になってやっと顔を合わせることになった。母からは、「伯父ちゃんいつ来るの」といってると電話をもらっていたが、なんのことはない。目的は小遣いである。そんなチャッカリしたところは母親似である。今月80歳になる母の祝いをかねて、実家近くの店にいく。そういえば去年もここだった。 私が中学生の頃、修学旅行で日光など行くと、英語の先生が、あきらかに外国人旅行者を避けているのを見て可笑しかったが、学校ではどうかと聞くと、先生にも二通りいて、甥っ子に教科書読ませて、みんなに聞かせてあげて、という先生と、無視を決め込む先生がいるそうである。なるほど。 連中の、馬のような食いっぷりに唖然としながら、反対に私は、油っぽい物や味の濃い物など、あきらかに去年よりウンザリしているのを感じたのであった。

過去の雑記
HOME

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ