明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



6時富岡斎場。森下賢一さんの奥さんの御挨拶“好きなことをやり尽した人生”が沁みた。 久しぶりにお会いした旧知のSさんは、昔、森下さんのヨットのクルーをやっていた。雑誌でクルーを募集しており、Sさんが応募したのは19歳くらいだったという。森下さんも30代の頃であろう。面接ではザックリしたセーターを着ていたそうで「へミングウエイみたいな?」。しかしお洒落だったのはその時だけで、普段は長靴にリュックでまるで裸の大将のようだったそうで、想像したら可笑しかった。 散会後、私はとにかく礼服を脱がずにいられない。一度家に帰りT千穂に行くと斎場から直行した一団。拙著『貝の穴に河童の居る事』の出演者が3人もいる。ひとしきり飲んだ後、帰りにコンビ二で買い物して出ると、K2さんが待っている。そのままギターやドラムを置いている洲崎の店へ。K2さんにエレキギターを弾いているところを年賀状に使いたい、と携帯で恍惚状態を撮影させられる。恍惚ついでによろけて高価なギターを軒並み倒す。すでにコップも2回倒している。そうこうして4時過ぎ。ようやく店を出る。自転車を引くK2さん警官に呼び止められる。同じ車種を何回も買い換えているのは、壊して買い換えているのが奥さんにばれないためであろう。     

そういえば、本日お会いした木版画家でもあるSさんに昔、当時制作していたオイルプリントの、三色分解によるカラー化について相談したのを思い出した。絵画的な写真技法が華やかであった大正十五年当時の文献に“天然色オイル法も理論上出來る筈ですが日本でやつておられる人を聞かないことを考えると未だ々天然色寫眞の開拓すべき餘地があると思はれます。”と書かれていたのでムラッときて試みた習作である。ただ画が現れたに過ぎず、単に「嗚呼私だけ」という自己満足を味わったに留まったが、来年、天然色はともかく、オイルプリントの04年以来の再開を考えているところなのであった。

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エッセイストの森下賢一さんが26日午前2時55分に逝去された。 世界中の酒場に詳しい森下さんであったが、『居酒屋礼賛』の著書だけに庶民的な酒場がお好きで、K本ではいつもポツンとお一人で座っておられた。客越しに話されるような方ではなかったので、酒場における愉快な話は幸運にも、たまたま隣に座った時にしか伺えない。永井荷風がお好きで、私がK本で撮影した荷風作品が店内に飾ってあることから、最近出版された文庫本には私の名前を出していただいていた。 森下さんといえば酒にまつわる想い出しかないが、いつかいただいた中国の『文君酒』のことは、その臭いとともに忘れられない。今まで嗅いだ、あらゆる酒の中でもっとも臭く、そのガラス壜はどういうわけか栓を閉めようが常にじっとりしていて曰くいい難い香りを放ち続けた。雑記を読み返してみると、当時階下に住むYさんの分と二本いただいたがYさんには受け取りを拒否されている。日数がかかったとはいえ、あれを二本飲み干したとは自分ながら呆れる。 飲み会などあると、お持ちいただくのは珍しい酒ばかりであったが、そんな時でも座の中心になって話されるような方ではなく、世界の酒にまつわる珍奇な話は隣に座らないと伺えないのであった。 私が最後にお会いしたのは近所のビジネスホテルでのカラオケ大会であった。森下さんは『カスバの女』を唄われた。ジュリアン・デュヴィヴィエ監督、ジャン・ギャバン主演のフランス映画『望郷 』(1937)がイメージの元になっている曲だが、商社マンとして各国を渡り歩いた森下さんらしい選曲だな、と思ったのを覚えている。合掌。

作家・森下賢一酒場という非日常(上)(下)

http://www.yomiuri.co.jp/otona/people/sakaba/20120726-OYT8T00860.htm

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一日  


昨日の続きである。三島は何事もきっちりと予定通りにことを運ぶ。特に時間にはうるさい。それがあの時の演説は何故か予定より早く切り上げている。仮に三島は怒号渦巻く自衛隊員の中に、良く知る数人の、目を輝かせ三島を見上げる隊員を見つけていたとしたらどうであろうか。明らかに我々も三島先生に続こう、といっているのが表情で判る。そして動き出した。これはまずい。そんな連中が現れては、せっかくの怒号の集団と自分たちとのコントラストが破られ、絶望の名場面が台無しである。演説切り上げ急ごう。というのはどうであろうか。さすがに三島といえども死を前にして予定がくるった、というのはないだろう。出掛けに村田英雄に、紅白連続出場のお祝いの電話をかけているような人である。
いつもの美人ばかりのクリニックで、初めてのエコー検査を受ける。魚群探知機の原理だと思うが、腹部に妙な魚が映っては恥ずかしいので、なんとか始末してから出かけた。その後『劇場版SPEC~結~漸ノ篇』を観る。最後の完結篇だとばかり思っていたら、一歩手前のつなぎであった。ハードルやロングジャンプ選手の、踏み切り手前の歩数あわせのジタバタを見せられた感じであったが、かといってこれを観て最後を観ないわけにいかない。

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三島由紀夫の命日である。生誕だ没年だ、とほとんど興味がないが、この時の背景の撮影はあまりに有名な場面だけに、光の方向が違っていたりすると面白くない。25日にできるだけ近く、時刻もできるだけ近い時間に撮影している。 70年頃といえば、アジ演説は拡声器を使うものというイメージがあったが、子供心に拡声器なしでは聴こえないじゃないか、と思った。持ち込むのが無理だったのであろうか。それでも“肝腎”の日本刀『関の孫六』はどうどうと持ち込んでいる。 今思うと、聴こえようが聴こえまいが三島にはどうでも良かったのであろう。むしろ怒号にかき消されることを想定していたであろう。あの場面は必死の説得に応じない自衛隊。「もはやこれまで」。ときびすを返して長官室に戻り割腹。というシナリオだったはずで、仮にあそこで「三島先生私も」などという隊員が現れてしまったら、三島の想定したであろう名場面が台無しになってしまう。それは絶対に困る。あそこでは怒号を浴びせられなければいけなかったはずであり、空気を読めない隊員が現れなかったことは幸いであった。 あそこでそんな隊員が現れてしまったら、どうするつもりだったのか三島に訊いてみたい気がするが、当然、三島のことであるからそんな“万が一”にもそなえていたことは間違いない。

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風邪のせいで一週間ぶりに風呂に入る。実にしつこかった。一方80過ぎの母からは検査結果すべて良好とのメールがくる。最近は食が細くなり痩せたので多少心配していたのだが。風邪っぴきの息子に対して風邪で寝込むことのない母である。小さい頃枕を並べて寝込んだ記憶があると思ったら神経痛であった。 某銀行の会員向け雑誌用制作続けながら、合間には相変わらず下手の横好きのギターである。上達しない原因の一つにはちゃんとコピーをしないせいもある。と思ったら曲の音程を変えないでスピードだけ落とせるという機器があると知ってアマゾンにて注文する。便利になったものである。それならば、とコピーのターゲットになるCDもついでに注文。三日坊主の可能性が大いにあるので、ブルースの人とだけ書いておく。禁煙を一回で成功させた時も自分を信用できないので、書くのには慎重であった。 ここ数日、電話以外ではコンビ二の店員と言葉を交わしたくらいである。混んでいるとコーラスグループのように斜めに重なる可能性があるので遠慮していたK本に行くと、常連席に人がおらず、ほかは一杯である。こういう時、席が空いているのに断られる客がいると針のムシロであるが、そちらを見ないで知らん顔し、常連に救援要請のメール。

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アンプの設定により凶暴な爆音を奏でる1930年代製スチールギターだが、EやDのオープンチューニングによるブルースであれば多少音程がずれても気にならない。しかしせっかくスチールギターなら、とハワイアンで用いられるAm7というチューニングにしてみたら、まったく音程が定まらない。なにしろフレットは単に目安に過ぎない無段階の音程の楽器である。 そのせいであろう。ネットではハワイアンからカントリー、ブルースと名人上手の映像をいくらでも観られるが、ピアニストのように鍵盤を見ずに、そっぽを向いて演奏する人はいない。全員が手元を見てうつむきながら演奏している。 しかしそう思うと、同じフレットがない無段階の楽器に三味線があるが、弾いている棹の部分を見ながら弾く人はいない。そこでこんな素人の趣味如きに迷惑な話であるが、かつて私の作中に登場いただいた女流義太夫三味線の鶴澤寛也師匠に何かコツのような物があれば、とメールで質問してみた。寛也さんには『貝の穴に河童の居る事』でも笛吹きの女房役を一旦はお願いしたが、義太夫界の“クールビューティー”のイメージを損なってはならぬ、と断念した。 メールの返事はというと案の定、基本は耳であり、稽古で指がそこへ行くようにする。ということであった。もちろん私はそれ以外の、何か抜け道みたいな都合の良いものを期待していたわけだが、そんな物はなさそうである。千里の道も一歩から、ということであろう。 よく思うことであるが、学生のアルバイトは慣れた頃に夏休みは終わってしまう。私の場合、どうやら頭に浮かんだ物が形にできると自信を持ったのは、夏休みも終盤に差し掛かった最近の話である。しかたがない。一緒にスタジオに入る二人のトラックドライバーには、大家の義太夫を聴かされる長屋の店子となって、閉ざされた密室で我慢してもらおう。

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ここのところ、風邪が治りかけたと思うとぶり返すことを繰り返している。昼間は依頼仕事の制作を進めながら、スチールギターをかき鳴らしたりして。 そんな中、つらつら考えるに、手がけたい作家や小説はいくらでもあるものの、今やらずには居れない、という感じがない。こういった気楽な状態で手がけると、結果的に努力を要することになる。私のような怠け者は努力が苦手である。一方、やらずに居れないようなことは、なにしろやらずに居れないのだから、寝床に本を並べて寝心地悪くして睡眠時間を削って取り組んでいようが、努力している感覚は皆無で、脳内には快感物質が溢れ続ける。この物質の存在を幼い頃に知ってしまうと、中途半端なことをやっても物質が湧いてこず、結局努力という苦痛を伴うことが判っている。またそんな状態で制作した物を人様に披露するのは申し訳が立たない。 久しぶりのそんな薄ボンヤリとした状態には、何か理由があるのであろう。表層の脳の及ばない自分が何かをさせようとしているに違いなく、風邪引きの中、ずっと模索しており、どうもこれではないか、と思い当たることがあるのだが、まだ書ける状態ではない。風邪引きでヘンだし。 そういえば、40年ぶりに会った高校の同級生は、私がこんなことになっているのが意外だったようだが、考えてみると科目としての美術は一年の時にしかなかったし、美術部にも入っていなかった。幼い頃、どこかの王様に石の塔に幽閉され、算数や宿題なんかしないで良いからここで好きなことをやっておれ、という境遇を夢みていたような私が、あの男子校での三年間はじっと耐えており、努力するのはこれが最後だ、と決めていたのは誰も知らなかった訳である。

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昨日、美人ばかりのクリニックで検査結果を褒められている間に配達されたラップスチールギターであるが、本日ようやく受け取った。基本的に膝の上に置いて弾くギターである。さっそく真空管アンプにつなぐと1930年代製と思うとパワーがあるが、単なる板に弦という感じである。フレットはスチールの場合ただの目安なのでペイントでラインが引かれているだけであった。 そもそもはユーチューブを観たのがきっかけであったが、観ていると脇道に迷い込み、大抵の場合、気が付くと何でこんなものを観ているのだ、ということになる。 ギターの弾き方など世界中で教えてくれる。教則DVDをかってにアップしたようなのもあれば、教えるのが嬉しくてしょうがないような人もいて面白い。 せっかくのスチールギターということで、ハワイアンに使われるというC6なるチューニングを見よう見まねでやってみたが、常磐ハワイアンセンターの硫黄の匂いさえ漂ってこない。 それにしても目が離せなくなってしまうのは、主にアメリカ人の楽器を手作りするホームメイドの男たちである。背景の地下室や納屋の壁には様々な道具が並び、出てくるキャラクターがまた様々で、朴訥なご隠居風から、チェーンソーで何か妙な物を切り刻んで、足元のバケツに放りこんでいるのではないか的男など、観ているだけで愉快である。完成度はというとまた玉石混交という奴で、名人級もいれば、既製の部品を使わず、台所用品のような物にこだわっていたり。 私もそのうち材料の板を買って来てしまうかもしれない。 一緒にスタジオに入るトラック運転手のSに、私の所有する60年代製国産エレキを、ラワンって学校で本箱作った板でしょ?と日頃指さされているので、その場合は一つ奮発してホンジュラス・マホガニーあたりを使いたいところである。

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注文した1930年代製ラップスチールギターは、スライドバーやピックもすでに入手していたが、私が美人ばかりのクリニックで検査結果を褒められている間に届いてしまい、受け取るのは明日になってしまった。 ギターの原点のような物にディドリーボウというのがある。板っぺらや柱に二本の釘を打ち、間に針金を張って、弾きながら適当なビンなどをスライドさせてメロディを奏でる。昔のブルースミュージシャンが、子供の頃それが最初の楽器だった。というエピソードによく出てくる。これに弦を増やし、ピックアップ(マイク)を付ければスチールギターになる。つまり構造自体は簡単で、不器用な私にも作れそうだ、という不味いことに気がついてしまった。 中学高校時代、授業や試験勉強から逃避する手段を数々持っていた私であるが、プロレスの新技を考える、と並んで重要なアイテムの一つに、オリジナルギターを考える。というのがあった。ネック他、手に負えそうもない部分を流用するため、ギターを壊し計画倒れになることもあり、その熱は、凡そ試験期間の終了とともに冷める類のものであったから困ったものであった。 自分から見てカッコの良いギターならともかく、私が目指したのは、どこにもないようなユニークかつビザールなギターであったが、他人が作ったからこその違和感であり、自分が作るには目をつぶってアウトラインをひくぐらいでないと無理なことに気が付いたのは10年くらい前であろう。今は精神科の医師の高校時代の友人が、お前は昔から作る々といっているが、今度は俺も作るぞ、といって完成させたギターは、ボディにヒトガタが生贄のように封印され、ネックが二本のギターで、患者が作ったのか、という凄まじいばかりのユニークさであり、私は参りました、と完全にひれ伏した。 そんな私に再び火を着けつつあるのが、前述の通りのスチールギターの構造の単純さと、ユーチューブに展開される、主にアメリカ人のドゥーイット・ユアセルフのホームメイド男たちである。 本日は丁度時間となった。

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『貝の穴に河童の居る事』に出演いただいた方の中には、泉鏡花に対しての関心が未だに続いている人がいるようである。鏡花に縁がなかった人達が、どんな理由にせよ良いことである。鏡花が奥さんと逗子に逗留のさいに度々訪れ、池を寄進した岩殿寺に行ってみるという人もいる。 そいうことならいっそのこと、河童の三郎が腕を折られ、とぼとぼと石段を上り姫神様に仇討ちを頼みにいった房総の神社に出かけてみるのも一興かもしれない。現場に行ってみれば、いかに鏡花が観たまま書いているか、また同時に、私がいかに“無理”をしたかが判って面白いかもしれない。 撮影時は梅雨空という設定なのに酷暑の晴天であり、しかたないので名物を食べて薄暗くなるのを待った。それにしても御当地の名物というもの、訪れる側からすると、なんで御当地で採れる物を使わないのか不可解に思うことがしばしばである。有名な漁港の街でなんでこれにした?という名物であった。もっとも回りは海ばかりであるし、そこをあえて、ということかもしれない。平日であるにもかかわらず開いている店がなく、ようやく入った店は、眠そうな老人が何人かたむろしていた。想いだしたら、もう一回食べても良いような気がしてきた。そもそも酷暑の日に食べるものではなかったし。

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粘土やカメラばかりだと、なかなか頭から去ってくれなかった河童の三郎も、下手なギターをかき鳴らしているうち、ようやく何処かへいってくれた。趣味とは有難いものである。下手だということも肝心で、これが人前で披露するような腕前なら、それはそれで悩みの種になりかねない。 それでもT千穂に行くと、三郎の幻影のような物があらわれる。先日救急車に乗せたばかりのこの幻影は、懲りもせず、同じことを繰り返している。あれだけ頭を強打して生きているのが不思議である。おそらく盲腸あたりが脳の役割をしているのであろう。 これからの季節、屋外で凍死、道路清掃車にスポッと吸い込まれる可能性が高いが、いくら周囲がいっても聞かないのだから、くたばろうとしょうがないだろう。という空気が漂い始めている。だが先日、例によって朝から飲み続けて泥酔状態。T千穂を出て行って、閉店時間近く暖簾も仕舞っているところへ帰ってきてしまった。ところが店に入ったところで薄暗い中なぜか突っ立っている。すぐに判った。カウンターに○○長がおり、怖くて近づけないのである。やはり酒がらみで叱られたことがあるそうだが、まるで結界を超えられない河童。というより焚き火が怖くて近寄れないイタチである。実に面白かった。誰のいうことも聞かないこのイタチを退治するのは○○長の貫禄しかないだろう。それで駄目なら保健所に通報である。 最近はイニシャルも書かないようにしているイタチだが、おかげで、その人だと勘違いされて迷惑しているのが○2さんである。申し訳ないが酔っ払いには違いがない。本日も遅くにやってきたが、話したところで覚えていないことが判っている。そう思いながらの会話はむなしく死体と話しているが如き気分である。適当に相手をして帰った。

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某銀行の会員向け雑誌用の制作。それにしてもいい加減ギターの腕はなんとかならないものであろうか。アンプにつなぎっぱなしにしておいて、吸っている頃であったら、ちょっと煙草一服のタイミングで弾いている。 しかし指板上の、どこにどんな音があるのか、いつまで経っても把握していないので、ネックを握ったその辺りから動かず、フレーズのバリエーションが一向に増えない。アイススケート場で、真鍮製の手すりをつかんだままでいる初心者を『真鍮磨き』といったが、あんな有様であろう。 私の中での理想は『Tボーン・ウォーカー』である。なんとも粋で格好が良い。この一派はあまり指板上を上下しないが、その分、狭い範囲で多彩なフレーズというわけで、私にはとても歯が立たない。輸入版のハウツウDVDを入手してみたが、講師が上手いことがただ判っただけであった。 こういう場合、私のようなだらしのないのは、新たな世界を模索する方向に走る。以前から興味があり、普通のギターと違って膝の上に載せて弾くラップスチールという、スライドバーを使うギターがある。ハワイアンやカントリー、ブルースなどで使われる。構造上単純なせいであろう。普通のギターに比べ安価である。  浮気相手を探すにはユーチューブである。オジサンの演奏を観て、1930年製の同じギターを注文してしまった。これで朗らかな気分で本妻であるギター、ではなく。粘土の制作に戻るのであった。

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昨日は40年ぶりに高校時代の同級生に会った。彼は車だったので飲まなかったが、気分は尾をひき、その後少々飲みすぎた気がする。二年の時に、担任が問題をおこし替わった、とOはいうが私には記憶がない。よって二年の時はクラスが別だと思ったら、その担任はあることがあると、教頭の愛犬用のバリカンで生徒を坊主にする。それが問題になったのだ、と私がいったのを母が覚えていた。私も一回坊主にされた経験があるので、なんで坊主にされるのかは書かない。K本で訊かれてもいいません。 そういえば同級生のIから5千円程度で買ったグレコのエレキベースがあることを思い出した。音が気に入らなかったので、いつだったか、ピックアップを外したところで放ったらかしにしていた。ひっぱり出してみると、Iの貧相な顔が思い出され、可愛そうな気がしてきた。メッキははげ、ロクな状態ではないが、当時は現在に比べて、よほど良い木材を使っている。磨きをかけてみた。ボディには○○から剥がしてきたプレートがボルト留めしてある。バカだねどうも。そういえば昔、なんだこれはと問われ、前の持ち主のIというのがバカな奴で、とIのせいにしたことまで思い出した。ついでに貧相なIが現在健康を害し、床に伏せっている様子まで浮かんできてしまった。ヤフオクで適当なピックアップを入手し、再生することにした。生きてろよI。でも途中で飽きちゃったらゴメンな。そんな親しかったわけじゃないしさ。

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フェイスブックで連絡を取り合った高校の同級生Oだが、会おうと思えば簡単な場所に住んでいることが判ったものの、40年も会っていない同級生と、どんな顔をして会えば良いか判らなかった。ところが本日、ごく近所にマンション物件を見に来るというので二時過ぎに喫茶店で会うことになった。 一年の時一緒だったのは判っていたが、3年の時も一緒だと知った。二年の時も一緒だったかについては二人の記憶は分かれた。 未だに学校に残る担任Kは大学出て間がなく、やたら突っ張っていたが、フィリピン人と結婚したと聞き、確かに日本人じゃ無理だろうと笑った。修学旅行は二年の時、九州一周であったが、長崎あたりで野球で有名なH海高校ともめた。私の記憶では、いきり立つH海高校の生徒をH先生が「君ホックが外れてるよ」の一言で収めたことになっているが、名場面過ぎて事実であったか今となっては怪しい。その後担任Kは寝台車で寝ている生徒一人ひとりに「お前等なんでさっき行かなかった」といって回り、学年主任にバレて説教されていた。Mと二人で行ったと思っていたフリーが前座だったEL&Pの後楽園コンサートは、彼もMと二人で行ったと思っていて、実は三人で行ったことが判明した。中止となったストーンズ初来日コンサートは、Oが学校サボってチケットを買いに行ったことも判った。私は生徒の側に学校と通じているスパイがいたと踏んでいたが、それは現在歯科医のYらしい。 今日は一棟買いするためのマンションを見に来たという。オリンピック開催での、このあたりの値上がりを見越してのことであろう。金利がどうの、という話は『半沢直樹』でさえぎりぎりであった私にはチンプンカンプンであったが話は尽きず、後日改めて一杯やろうということになった。 

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食材偽装が騒がれている。困ったことであるが。私は産地云々がどうのという店に縁がないので実害はない。 作家シリーズの最初の個展のタイトルと、処女出版のタイトルが『夜の夢こそまこと』という江戸川乱歩の有名な『現世は夢 夜の夢こそまこと』から拝借したものであったが、私自身がもともとこんな有様の人間であった。本当のことなどどうでもよく、“写真”という、まことを写すというのが肌に合わない。まこと等、画面の中からできるだけ排除したいタイプである。そのためには、どんな手でも使ってやろうと考えているうち、蛇蝎の如くに思っていたコンピューターに手を染めることになってしまった。 ところで嘘をつくには本当のことを混ぜるのがコツである。それは人に怪談の一つもでっち上げたことのある方は良くお判りであろう。制作する場合、そこまでやっても誰も見ていない、というところをこだわると、嘘が鮮やかに際立ってくる。 これは初めて書くことであるが、隔月で4年間表紙を担当した都営地下鉄のフリーペーパー『中央公論Adagio』だが、何号目かを制作している時のこと。なんとなくグレーのスーツを着た40代のサラリーマンが浮かんだ。この男は特集人物に関して大学で卒論を書いたらしい。私の方をじっと見るのである。これは私が妄想で作り出した男だが、毎号、その号の特集人物を卒論で手がけた一介のサラリーマンとして頭の中に現れるのである。これはどこにいるとも知れない一読者の象徴であろう。二ヶ月の短い勉強、制作時間で専門の研究者を唸らせることが叶わずとも、彼だけは唸らせたかった。 彼はもう浮かぶことはないが、何処かにいる、誰か一人を唸らせたい、というのは常に意識の中にあり、そう思うと手は抜けないことになる。 どうもノイローゼの告白のようであるが、私がそんなタマでないことはブログの読者はお判りであろう。

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