明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



妖怪の甲羅を制作。彫刻刀で削っていると、よけいなことを想い出した。小学校低学年の頃、どこからだったか、亀をもらってきた。当時は大きく感じたが、甲羅が20センチ程度のものだったろう。これが良く逃げた。近所の連中に手伝ってもらって探すと意外に遠くに逃げている。そこで甲羅の端に穴を開け、鎖につないでおいた。そうこうすると、甲羅の亀甲模様がマス目に見えてくる。イニシャルを彫った。やり過ぎる傾向は今に始まったことではない。ペンキ屋の倅にペンキをもらって彩色した。インディアンみたいだといわれた。犬みたいに連れて歩くつもりだったが、そうするには歩くスピードが遅く、すぐ飽きてしまった。そういえば先日、ネットで1965年に13歳の少年が亀にイニシャルを彫り、その亀を今年父親が見つけた、というニュースを見た。この少年は裏に彫っていたが、私は表に彫ってしまった。実家の裏の家では、私が物心つくかつかないかの頃、池で捕まえた亀を未だに飼っているそうである。住所やフルネームを彫らないでよかった。なぎら健壱は酔っ払って、やはり亀の甲羅に彫刻刀でイニシャルを彫ったら彫りすぎて血が滲んでしまい、すっぽんみたいなつもりでチューチュー吸ったら生臭かったという。やっちゃいけないことは、なるべく早いうちに済ませておくべきだ、という話である。

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本日ようやく旧知の編集者と二回目の打ち合わせである。2月の一回目は何か本を作りましょう、という顔合わせみたいなもので、何を出版するか決まりもしなかったので、実質今日が始めてといってよい。小さな出版社から大ヒット作が出たせいで雑務に追われ、今日も1時間遅れてやってきた。想えば当ブログは、結婚詐欺にあったのも気付かず、結婚準備にイソイソとしてる娘の日常。みたいに見えていたのではないか?表れたところを見ると結婚はしてくれるらしい。今頃ようやく条件面について。なかなか厳しい結婚生活になりそうである。出版不況の今時、このテーマで出そうというのだから、そうしたものであろう。内容に関すれば、忙しくて式場の相談にも表れなかった編集者にくらべ、イソイソしていた分、私のイメージは固まっている。日取りに関しても今頃表れておいて物凄いことをいう。昨年の三島由紀夫へのオマージュ展が、今年やるつもりを急遽前倒しにして、昨年の命日に開催したが、あの時同様、寝床にゴロゴロした本を敷いて、寝心地を悪くする必用がありそうである。すでに6月は友人がプロデュースしたCDの発売記念ライブの招待や、還暦のお祝いの出席を断わっている。普段と違うことはしたくないし、楽しいことは何かが減る気がするので避る。
始まるのは、尾根伝いをヘトヘトになって歩いてきて、目の前にそびえ立つ、これから登るべき山を見上げながら下るような気分の毎日であろう。せいぜい創作の快楽を味わっていこう。編集者は夏には今年も家族で伊豆に遊びに行くという。「ほほう。随分楽しそうじゃねェか」。

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先日会った友人、パットン将軍の旦那の二等兵Sから、私が制作中の妖怪と同種の銅像が某所にあった、とメールをもらった。彼には先日、制作中の妖怪と姫様の頭部を見せたのだが、彼にいわせると私の作った姫が、某作家の人形に似ているという。どこが?そもそも先方は布製だぞ?ミソもクソも舐めてみないと違いが判らない男である。黒人の人形を制作していた頃、よくあったことだが、私の人形を真似した物をを売っている、といって連れて行かれると、だいたい量産品の土産物であった。以前某メーカーに弁護士を立てて製造中止にさせたことはあったが、それと違って共通点がどこにもない。連中には、これと私の作品が同じように見えているのかと眩暈がした。そういうことをいう奴に限って幼稚園からの付き合いや、高校の同級など、長い付き合いだったりするので、なおさら情けないのである。Sは、乱歩作品で私が作った黒蜥蜴に似ている。女性の好みが出るのだろう、などときいたふうなこともいう。そりゃ両方私が作ったから共通点はあろだうが。大分違う。おそらく彼と私とでは、同じ次元に生きているつもりで酒を酌み交わしているが、世界は違って見えているのであろう。そういえばKさんが酒場で藤あやこにソックリな女性と知り合った、と喜んでいるので会ってみたら共通点は目と鼻の数だけだった。ということもあった。Sは「人それぞれ見え方が違うから面白いんじゃねェか」。という。御説ごもっとも。仰るとおりである。ただ頼むから、他所で私の作品についてコメントしないでくれ。

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SNS  


今時のものはできるだけ、と思い、ミクシィだ、ツイッターだフェイスブックだ、とやっているが、ほとんどブログと連動させているだけという状態である。ツイッターは気楽なので、たまにつぶやくが。昨晩は『女子バレーの真鍋監督が、子供の頃TVでも活躍した先代の金原亭馬の助を想い出す』みたいなことを呟いたが、実にどうでも良いことである。しかしなかで、どうしても合わないのがフェイスブックである。当初設定の間違いで、アカウントが二つできてしまい面倒だったこともあるが、どんな未開の裸族の所へもパンツはかせにやってくる、白人の宣教師のようなお節介さである。
ようやく妖怪の身体の制作を始める。撮影用の写る部分しか作らない物も含めると、何体作ることになるか判らないが、最初の一体で、身体のバランスなどだいたい決まるだろう。実在の人物と違って自分の都合で作れるのは楽しい。おかげで進行が早い。目玉は様々な場面に対応するよう、可動式にする。これにも人毛を植える予定である。

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作品の季節は梅雨時である。梅雨に入ったら撮影に出かけなければならない。一年で一番嫌な時期に出かけるのは気が進まないが、主役の妖怪がそもそも湿っ気ているので仕方がない。私はサウナも大嫌いである。一回入って1分もたなかった。せいぜい通気性の良い雨具を探そう。ここで間をあけたいところだが、スペースキーが壊れているのでズルズルと続ける。今回は人間と異界の物共の区別、コントラストを付けるため、両者、使用レンズを分ける予定である。特に異界用には、飛び道具が必要であろう。主人公がそもそも不気味である。たとえばウ○コを撮影するのに、料理が美味しそうに写るレンズを使う必要はない。ウ○コが実物より不味そうに写るレンズを使うべきである。

 水中モーターを注文。以前書いたが、もちろん石鹸箱の底に付けて、風呂で遊ぼうって訳ではない。上手くいくかは、やってみないと判らないが、撮影用である。しかし今回は水中モーターもそうだが、小学生以来、ということが多い。小学生の頃、白馬に乗った、とは思わないが、どこかの王様に塔に幽閉され、宿題も算数もやらないでいいから、ここで好きな本読んで、好きなもの描いたり作ったりしておれ、なんてことを夢みたものである。

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夕方、イベント屋のSと、門前仲町で待ち合わせて煮込み屋へ。久しぶりなのでつもる話もあるのだが、そこへ男一人に女二人の大学生。一人の娘が大きな声で、しかもキンキン声の早口という最悪な状態。他の中年男が静かに飲んでいるだけに狭い店内に響く。それが気になってSの話が耳に入ってこない。しかしSはそれほど気にならないような顔をしている。彼とかみさんが電話で話していると、電話の向うにいるのはパットン将軍か?と思うが、つまり彼はパットン将軍の旦那の二等兵というわけであるが、将軍との結婚生活で鍛えられたらしく、あのぐらいで腹は立たないという。お前1ステージ上がったな?
T千穂へ。彼は昨年房総でKさんと会っている。最初に「ホントにKさんていたんだな」。といった男である。どうせ捏造するなら、ちゃんとオチのある人物にする。彼は一日でギブアップ。先に帰るSを酔っ払って駅まで送っていくというKさんに、ウンザリして私に「もういいから何処か連れてってくれ」。そこへ先日、某店の女の子に剛速球のようなセリフを投げつけられ、ショックのあまり最近大人しかったKさん。酔っ払った勢いで店にでかけ、言い過ぎた、と謝られたとかで、すっかり機嫌をなおしてしまった。余計なことをしてくれる。ようするにSが思った類のことを、可愛い顔して率直にいっただけの話である。SはKさんの額の“へ”の字の傷を見るのは始めてである。「合成じゃなかったんだ」。するかそんなこと。フォトショップが汚れる。

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最近、ほとんど合成ばかりなのでレンズの味、などということとは無縁である。味というのは特にレンズのボケ方に収差の残った特徴があり、ということだろうが、撮影場所、拡大率が異なる画像を合成する場合、この味が邪魔になるのである。そこに居るかのようにしなければならないのに、描写が合わなくなる。よって複雑な合成になればなるほど、味とは無縁なレンズを使うことになる。頭に浮かんだ画を再現するためには、それを妨害する物は、すべて排除しなければならない。『それが例えオフクロでもな!』(byフレッド・ブラッシー)。ただそれはレンズを通して撮影する以上、また妙なレンズを集めてきた私としては、薄ら寂しいことではあった。ところが泉鏡花描く所の妖怪は、普段は1メートルに満たないくらいな姿だが、どうやら大きさを(小さい方に)自在に変えられるらしい。これはどういうことかというと、私が制作している30センチ弱くらいな妖怪を、例えば岩陰やら草むらなどに配置し、実物大として撮影ができるということである。となれば、妖怪を撮るに相応しいレンズというものがあるだろう。特に梅雨時の、ドンヨリした季節が舞台となれば、わざわざ低コントラストなレンズで、さらにドンヨリ撮るのも良いだろう。何しろ妖怪である。若い女性を撮るには躊躇するような変態的描写のレンズ、母を撮ったのに、本人に見せられなかった描写のレンズだってある。妖怪でも撮らない限り使う気になれない、嫌な描写のレンズも使いようということになる。妖怪を撮る幸せ。そんなものも私にはあるのである。

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一日探し物をしていてK本へ。隣に舞台俳優の今拓哉さん。制作中の本が完成した暁には、今さんに朗読してもらいたいと考えている。様々な声色を使える人なので、妖怪から翁、姫様まで、演じ分けてくれることであろう。世田谷文学館で乱歩のスライドを流しながらピアノの即興演奏と朗読のライブをやったが、数話てがけた分、1作ごとのカット数は少なかった。その点、今回は短編とはいえ、まるごと1話であるからカット数は多くなる。音が何か欲しいところだが、ユーモア小説である。何が合うのだろう。
T千穂へ。後ろに数人いる韓国人の中の一人がやたら声がでかい。おまけに間も空けずにずっと一人で喋っている。あまり間が空かないので、長い巻物でも読み上げているのでは、と振り返って確認したい欲求にかられた。かと思えば近所の銀行員の数人がまた声がでかい。しかも自分の女房をいかに評価してるかみたいな、恥ずかしい話である。そんな話は小声で話せ。幕末の頃だろうか、来日した欧米人の旅行記を読んだことがある。日本人は礼儀正しく清潔なことに感心しているが、それより印象に残ったのが、大きな声で喋っている人間がいない、ということである。大勢の人が集まる繁華な場所でさえソヨソヨソヨといった調子で会話が聴こえてくる。よって下駄の音がやたらと目立つ。いつからくだらない話を大声で話す恥知らずになったのか。まあ敗戦以後だろうが、他のアジア人の音量に追いつくのも間もなくであろう。日本人は国土の狭さと水の良さ、四季の変化の刺激のおかげで一味違ったと思うのだが、大分貯金を使ってしまった感じである。

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午前5時40分、ウツラウツラしているとKさんより「太陽見てから旅出ようかな」とメール。朝っぱらからやかましい。金環食の時刻、他からも電話があったが、一瞥もくれず。宇宙の出来事に関心がない。特に宇宙の果て、など考えないことにしている。訳の判らない空間に自分が浮かんでいると考えると、冗談みたいで真剣に粘土など練っていられないではないか。

制作中の妖怪の頭部だが、ディテールに手を加えているうち、実際いたら、あまり素手で触りたくない感じになってきた。もう止めよう。編集者からようやく電話があった。実際作っているのは二体の頭部だけ、というと、もっと進んでいるかと思った。という。二月に一回会ったっきりで、方針も決めず、いつ出版されるかさえ打ち合わせしないで、進めようがないではないか。某ヒット作騒動はあいかわらずのようで、今週もメディアの取材が4つ入っているという。旧知の編集者だが、この出版社に今年入って、たまたま大ヒット騒動に巻き込まれ、配送作業ばかりで、まだ編集者らしいことはしていない。しかしそんなやりとりの中、反面、私のやりたいように出来るな、という感触を得た。放っておかれるならおかれるで、好きにさせてもらおう。その代わり、やり過ぎても知らない。いくら孔子にいわれようと“及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”という私である。主人公の妖怪だけ無彩色にしたらどうだろう、というので、「鏡花は青いと書いちゃってるよ」。そういうところは律儀にしたい私である。青いと書いてある横で白くちゃしょうがない。2回目の打ち合わせは今月末に決まる。

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T千穂に行くと、K本から流れてきたMさんとHさん。Kさんもいる。Mさんはこの時点でかなり出来上がっていて、カラオケに行こうという。急遽門前仲町のスナックへ。 カラオケというのは場所によって選曲がまちまちのようで、本日は『レナウン ワンサカ娘』(シルヴィ・バルタンバージョン)を歌ってみたかったがなかった。企業名のせいか?どこへいっても、だいたい三割五分は歌いたい歌がない。そうこうしてMさんが帰ろうという。この人は一人で帰りたがらないので、いつも家の近くまで送って、そこからまた飲みに出かけることになる。しかし今回は腹が減った、と一人で吉野家に入っていったので、これ幸いとKさんとKへ。 Kさんは酔うと同じ話をエンドレスで繰り返し続ける。他の人と私の違いは、それに私が何故だか付き合っていられることである。勿論、その話はさっき聞いた、もう10回目、とかいっているが、本人は楽しそうだし、まあ壊れた蓄音機を聴いてるつもりで飲んでいる。しかしこれは他の人に耐えられることではない。世界の珍奇が語られるわけではなく、人生にタメになる話など一切出てこず。ただひたすら周囲の女性の話である。女性をくどく場合も、極端に少ないボキャブラリーで,同じ話を繰りかえす。どう考えたって黙っていたほうがマシである。そして今晩。そのことについて、ある率直な女性に剛速球のようなしっぺ返しを食らった。受身を取りようがない一言。ショックで凹むKさん。Kさんには日頃何でも書いて、といわれている。しかし私にも武士の情けというものがある。詳細は書かない。  結局午前4時まで(笑いをこらえながら)しょぼくれるKさんに付き合った。制作中の作品、かなりイメージ通りに進行している。こんな時は人にも優しくできるというものである。

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先日神楽坂で会ったTさんが女流作家のNさんに会ったとメールをいただいた。その方は『中央公論Adagio』を毎号楽しみにしていただいていたそうで、都内にはめったに行かないので沿線在住の友達に確保してもらっていたそうである。『特に賢治は良かったと。残っている写真がみんなうつむいている中、顔を上げている賢治サンに初めて会えて嬉しかった』。といっていただいた。私にとって、これは全く冥利に尽きるご意見である。 有名人で、特に残された写真が少ない場合、そのイメージから逃れられない人は多い。例えば長生きした人物でも、若い時代の写真が有名だと、いくつまで生きたんだ、といったところで、そこから一歩もでられなかったりする。たしかに宮澤賢治は、コーチの教えに忠実なボクサーのように常に顎をひいている。それがいかにも賢治らしくはあるのだが、それをあえて下から撮ることは最初に決めていた。平面と違い立体は一度作ってしまえば何処からでも撮れる。残された写真と同じように撮れば安全だろうが、ならば私がわざわざ手掛ける意味がない。覚悟のうえである。 そういった意味で、私がもっとも意地を張ったのが松尾芭蕉号である。弟子達が師匠の肖像画を残しているというのに、全国そこら中にいい加減な爺ィ像を乱造しゃがって、と三人の弟子の肖像画のみを参考に作った。なので芭蕉に関しては、イメージと違うといわれる度、あんたらの無念を晴らしたぞ、と逆に喜ぶ、という珍しい作品となった。 (賢治、芭蕉それぞれ画像下部に制作時の葛藤をまとめてあります)

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作中、郷土芸能が登場する。その神楽は中部地方のシミジミとしたものである。ユーチューブで観ると、鏡花の描写そのままで、旅先で見たことは間違いがない。よくぞ廃れることなく継承してくれていた。問題はそれを実際撮影に行くか、面を含め、装束を揃え、こちらで再現するかである。出版時期がいつなのか、編集者から相変わらず連絡がないので判らないが、その祭りが結構年の後半であるので、撮り損ねたり何かの事情で中止となったら目も当てられない。見物客も時代が違うので使えない。そう考えると、こちらで再現したほうが安全ではある。鏡花は作中、どこの何祭りと書いていないので、よほどの細部ははしょってもかまわないであろう。しかしちょっとのカットに係わらず、舞う時に使う道具は需要が少ないせいか高価なのが困る。練習用は安いが見栄えが悪い。こうして撮影用のおかしな物ばかりが残っていくわけである。  もし再現する場合、面を被ってひょうきんに舞ってもらうのは、当然未だに連絡してこない編集者である。私の指示通りに動いてもらう。なんなら熱した鉄板の上で、裸足で舞ってもらうのも一興であろう。 主人公の妖怪だが、作り惜しみもいい加減にしないといけない。

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先日飲みすぎと風邪で頭におしぼり乗せて震えていたKさんだが、一日空けて昼間からRさんと蕎麦屋で飲んだ。調子悪くて最初大人しかったが、この人はアルコールが回ってくると、覚せい剤を打ったように元気が出てくる。しかしいくらはしゃいでいても表面だけで、疲労はどんどん内部に蓄積されているわけである。翌早朝、久しぶりにT家に朝食を食べに行くと、もういるではないか。酔っ払ったまま、ほとんど寝ずに来てしまった。何をいってるか聞き取り不可能だが、一人はしゃいでいる。 成人式のさい、酔っ払ったKさんを壇上に上げて新成人に観せる、というのはどうであろう。喫煙者に真っ黒な肺の写真を見せる程度には効可があるだろう。そして案の定、酔いが覚めてきた夕方、また寝込んでしまった。この人の学習能力の無さは驚くばかりである。 小学生の時に観た怪獣映画『ガメラ対バルゴン』。記憶は曖昧だが、バルゴンが発する虹色の光線を鏡で反射させ、バルゴンに逆に照射する作戦を試みる。上手くいったかに見えた作戦も一回だけ。博士の解説では、動物は一度痛い目に会うと、二度と繰り返さないのだ、といった。大変感心した小学生の私であった。バルゴンとはいわないまでも、Kさんには、カワウソの爪の垢でも煎じて飲んでもらえないだろうか。

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主人公の人に非ずな物。つまり妖怪である。植える髪を残し完成。妙に笑って見えたところを修正した。こんな物を作ったのは子供の時以来である。怪獣、妖怪の類が大ブームであった。  先日、たまたまリチャード・ウィドマークが映る映像をネットで見たせいで、その影響が出ている気がするが、心がけたのは可愛らしくせず、あくまで不気味に、さらに哀れでなければならない。その感じは出ただろう。鏡花の作中では、空を飛ぶのが珍しいが、それ以外は特に変わったところはない。だからというわけではないが、特に新たなイメージを創作しようとは考えておらず、あくまでパブリックイメージに準じつつ、むしろその性格、心根が表に出るよう心がけた。 昼過ぎに、Kさんと、私が銀座四丁目の交差点を日産側に渡りきったところでコケたさい、爽やかに大笑いしたRさんと蕎麦屋で昼食を食べた。というか昼間から飲んだ。その際、ポケットに入れた頭部を見せた。こうやって持ち歩くのは久しぶりだが、みんなが知っている人物に限る。するとRさん「Kさんにそっくり!」。たしかにその根性、性根はそのままで、創作の神様が参考にせよ、と私に使わした妖精ではないか?と思うくらいだが、外見は似ていない。ところが。 先日、Kさんのオデコを携帯で撮り公開したが、あのせいである。おでこの丸みに、なんとシワを二本取り入れているではないか。こうやって、知らないうちに入り込んできたイメージを使って、常に作っていることが良く判った。



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編集者とは未だに連絡が取れない状態である。小さな出版社に大ヒット作が生まれると、こういうことになるのが判ったが、付き合いが長い担当編集者は、電話一本ぐらいして来てこい、といいたいところである(いってる)。まあそうはいっても出版不況のこの御時勢に、目出度い話には違いない。 そんな状態なので、具体的に何を制作中かはいえないが、隔月のフリーペーパーならともかく、数ヶ月にわたり、奥歯に物がはさまったような状態でブログを続けるのはうっとおしい。なので『泉 鏡花』原作の作品であることだけはいってしまおう。私もワイルドである。作品名はいずれ。 鏡花作品は、作品によって、現在馴染みのない表現、鏡花独特のいいまわしにより、解説、脚注が添えられていないと、今、どんな場面が展開されているか、一度読んだだけでは判りにくい場合がある。私としてはその脚注をなるべく必用としないよう、ビジュアル化したいと考えている。  鏡花の作品は、たとえば江戸川乱歩のように、室内にこもって創作された物、と勝手にイメージしていたが、改めて作品を解読していくと、モデルとされる某地方の神社は様子がそのままだし、作中イメージされる芸能は、ある地方の、極ローカルな祭りを、どう考えても実際取材したとしか思えず、私の鏡花のイメージは、江戸川乱歩タイプから、普段人前ではかけない眼鏡をかけ、現場に出向いて律儀にメモを取る、三島由紀夫タイプに変じた。 というわけで少しずつイメージを固めつつあるが、そんなこと具体的に細かく描写して、私にどうしろというのだ?困った。今は考えるのは止めよう、ということ山積である。

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