明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



毎年恒例の、去年出来なかった、考えもしなかったことを出来たか振り返る大晦日である。変化しているウチが華。去年と一緒では、冥土にただ一年近付いただけで我慢がならない。そういう意味ではモチーフを寒山拾得その他、に変えたことが大きい。始めて5年ほどになる、陰影を排除する東洋調ピクトリアリズムを完成させるには、最適なモチーフであり、陰影を無くすことにより失う立体感を適度に表すこともできたし、当初の目的、陰影をなくすことによる、画面構成上の自由を得ることが出来た。その調子で突き進むつもりであったが、何故かぐずぐずしてしまった。原因は、それによりかえって、私が一番恐れる、作りそびれて後悔する可能性に気が付いたからである。そして真反対に、絵画、写真に当てられなかった陰影も与えられると思えて来た。行き当たりばったりの私の常だが、それもこれも、寒山拾得をやってみたから判った。 目の前の事しか考えず、長期的目標を定めないのが、中途挫折の一番の回避法である。大晦日、そんなことを言っているが、さあどうだろう。



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一日  


浮世絵、日本画からヒントを得て、被写体から陰影を取り去った手法を続けできたが、ここへ来て、昔、絵画、写真、共に陰影を与えられなかったモチーフに、新たに陰影を与えてみたらどうだろう、と思い出した。 知り合いでもなんでそんなに絵みたいなことばかり、という人がいるが、そもそも人形は人形から、写真は写真から学ぶべきではない、と思って来た。成分が同じなら、それでは人形的、写真的世界内からはみ出すことなく終わってしまう、と思い込んできたからである。 それに立体は、一度作ってしまえばどんな角度から撮れる。光の調子だって、当て放題である。紆余曲折経て、陰影の無い、東洋画的ピクトリアリズム手法は一応完成した。まぁ手法といったって、同じ被写体に光を当てれば、今度は逆に、陰影を与えて来なかった、あるいは与えられなかったモチーフに陰影を与えることも可能であり、それを持って、被写体を自ら作って撮影するというメリットを堪能出来るというものだろう。死の床でそう思っても遅い。 昨日から作っていた煮物で一杯と思い、昨日試しに買った糖質、プリン体ゼロの日本酒を飲んでみたら、昭和30年代の給食の脱脂粉乳の如し。飲めたものではない。まったく汚れずに生きようったってそうは行かない。もう少しためにならない物を求めてコンビニに走った。

 



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29日  


いい加減な割に、こう決めたらそうすべき、というところがある。なので今後陰影のない手法一筋で行こう、と思っていたのだが、そのせいでかえって私が一番恐れる、死の床で、あれを作りたかった、これも、と後悔に身を捩ることになりそうだ、と思い始めた。羅漢図まで行ってしまうと戻れないかもしれない。その途端、現金なもので、薄暗い所からドロドロドロドロと迫り上がって来る九代目團十郎の仁木弾正が浮かんで来るわ、子供時代の岡本綺堂が怖くて走って家に帰った、という圓朝の高座が浮かんでしまった。特に圓朝は、あそこを高座に設定し、と考えていたことを思い出した。死の床では間違いなく思い出すだろう。 ホームにいる母は、仕事をしていたせいで社交的が過ぎるくらいで楽しくやってる。友人でも、親が専業主婦は、他人が家に来るのも嫌がるので下の世話までして苦労している。〝夜の夢こそまこと”などとはいっていられないだろう。その母もこの一年でだいぶボンヤリしてしまった。介護認定の再判定を申請しようとしていたら、数千人待ちだった特養ホームから連絡が来て見学に行く。新築で以前住んでいた町で3キロ以内。決まると良いが。夜は恒例の工芸学校時代の連中と忘年会。



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昨日のブログに書いたように、陰影のない浮世絵が気になり出したのは、九代目團十郎を作った時からだった。 歌舞伎、役者の地位が劇的に向上したのは九代目が、明治天皇を前に展覧歌舞伎を行ってからである。そう思ったら、同時代に展覧落語をやったのが、三遊亭圓朝である。もし九代目の仁木弾正をやるのであれば、高座の蝋燭に照らされた圓朝を作らなければならないだろう。明治の寄席の外観は制作したが、手掛ける寸前まで行った高座の圓朝を作るべきだろう。これまた陰影を無くした第一作が圓朝だという因縁を感じることになる。もちろん圓朝も、フラットな陰影などまるでない写真しか残っていない。これまた私の〝念写”によれば可能である。幸い明治の寄席内部の様子は写真は無くとも、驚異的な記憶力を持って伊藤晴雨が描き残している。当時の高座上には、湯呑みだけではなく、火鉢、鉄瓶まである。そうだ。当時の寄席内部はあそこで撮ろう。と考えていたことを思い出した。

 



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浮世絵に着目したきっかけは、そもそも九代目團十郎を作るために、九代目の芝居絵を見るようになったことだった、と昨日思い出した。それにしても可笑しな話である。浮世絵を眺めて、写真や西洋画の画面上の自由を阻害しているのは陰影だ、と始めたはずが、今度は陰影のない浮世絵に、陰影を加えようというのだから。本当に始めるかは未定だが、行き当たりばったり、東洋の魔女の如く棚から降って来たぼた餅は全て拾いたい。 現在の歌舞伎の舞台は煌々とした人工照明により、かつての蝋燭の灯りのような陰影は与えられていない。ところで初めて舞台撮影が成功したのは、巨大なガラス乾板による、鹿嶋 清兵衛撮影の九代目團十郎の『暫』である。その照明技術が認められ、泉鏡花の『高野聖』の舞台照明を担当し、暴発事故により指を失い舞台の能の笛方に転身する。笛吹が指を失い、写真家に転身するなら判るが、その辺りは良く判らない。莫大な財産を使い果たし、晩年はしみじみとした暮らしぶりだったという。鏡花作の拙著『貝の穴に河童の居る事』に出てくる長面の笛吹芸人は元々資産家で趣味が嵩じて笛吹になった男である。鹿嶋 清兵衛がモデルなのは間違いない。その芸人役をやってもらった人とは、先週サイゼリヤで明るいうちから飲んだばかりである。



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私の大リーグボール3号たる、陰影のない手法は5年を経て『寒山拾得展』で完成した気がする。その勢いのまま、例えば羅漢図に進むつもりであったが、想定より飛距離が出過ぎ、かえって私の恐れる、作りそびれが起きそうである。作っただけで撮影していない葛飾北斎もあるし。 先日中村勘九郎のドラマ『中村仲蔵』で江戸の芝居小屋の雰囲気にムラっと来た。我が家には、明治の〝劇聖”九代目市川團十郎がいる。作るきっかけは、海老蔵の仁木弾正の目が照明の反射によりピカッと光ったのを客席で観た。当時、インフルエンザが流行っていたが、江戸時代より團十郎に睨まれると一年風邪ひかないと言われていたし、歌舞伎座の改修が迫っていたことによる。 暗闇から陰影も物凄く、妖しい煙と共にドロドロドロと現れる九代目の仁木弾正はどうか?感材の関係で舞台写真は残っておらず、眉間にレンズを当てる念写によるしかない。



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40周年の寒山拾得で友人等さえ呆れさせた大ジャンプを果たし、後戻りはしないことを信条に、勢いのまま、となれば今までやって来たことを踏まえると、羅漢図こそ究極のモチーフではないか。ところが裏腹に、何か釈然とはしないものがあり。以来、ちびちび部屋を片付けながらぐうたらしている。 今回、想定以上にK点超えの飛距離が出てしまった。陰影を無くすことによる画面上の自由を手に入れ、そこにわずかな濃淡により、観る人は気付かないかもしれないが、被写体制作者として充分な立体感遠を加えることができ、この手法を始める前に、自ら創り出した陰影を自ら台無しにする矛盾に躊躇した問題も解決した。 だがしかし、着地して振り返ると、思いの外の飛距離に、このまま羅漢図に突き進んだならば、作り損なうものが出て来そうである。2年間一筋に来た分、立ち止まってみる事も必要だろう。



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携帯ショップで契約の見直し。何度やっても身に覚えがなく、よって一度も使ったことがない契約が含まれており。説明の中にどさくさに紛れて含まれていたのだろう。街中で平然と詐欺まがいなことが行われている趣きがある。 子供の頃アーケードの入り口でいわゆる泣きバイというのを観たことがある。万年筆工場が火事で仕事を失った、という設定の青年が汚いバッグの中の万年筆を買ってもらおう、という奴である。良き所でグルである男が「坊主、これは物は上等じゃねえか、おじさんが買ってやろう。」なんていう奴である。今から20年くらい前だったか、スーパーの買い物をぶら下げて歩いてると、トラックが止まった。運転手がやおら「時計やるよ。」という。時計?見ると化粧箱に入ったキンキラの腕時計である。「一杯飲めるくらいくれれば良いよ。」サンダル引きずり歩く私は、無防備な田舎出の人間に見えたのだろう。『葛飾は某所育ちに何を言っていやがる。』舐められたものだが、携帯ショップにおいてはアーケードで灰にまみれた万年筆を買わされたマヌケの如しである。



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買い物に出かけると一角で良い匂いがする。トイレの芳香剤とは一味違う香りである。見ると口を開けた様々な室内用芳香剤のサンプルが並んでいる。スティック状の物が差してあるので次々と嗅いでみた。男世帯にこんな香りを漂わせてどうする、とは思ったが、ものは試し、一つ買ってみることにした。しかし色々嗅いでいるうち、何がどれだかわからなくなって来る。何往復して一つ選びレジへ。液体ではなく、瓶を開けっぱなしにするワックス状の物にした。某液体をこぼしてはパソコンのキーボードを何十と壊してきた、芳香剤をぶちまけたら大変である。店を出ると指に着いた芳香剤が良い香りがしていた。 買い物を済ませ、ベンチで休みながら芳香剤の包みを開けて嗅いでみると、イメージとちょっと違う。鼻が馬鹿になって間違えたらしい。しかし店に戻って再確認の自信はない。まして店員の鼻先に指を突き出し、嗅いでもらう訳にもいかず。



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作業台の前の壁には長谷川潔のコロタイブによる複製を決めているが、右の壁には、何か色彩のある物を、と。カーテン越しに日当たりも良い。それでも惜しくない物をと、ヤフオクを見ていたら、大正から昭和にかけての売れなかった画家の油彩画を見つけた。検索しても、どの風景作品も冴えない。ヌードもあったが、風景は冴えないが人物は良い、なんて事はあり得ないだろう。さらに冴えない。何でこんなモチーフを描いたのか?腕もさることながら、その着眼点にも疑問が残る。「お前に言われたくない」と聴こえたのは幻聴か? あまりに売れず、キャンバスも買えずに多くは板に描いており、酷いのになると、茶箪笥の引き戸にでも描いたか、裏側に取っ手がついたままの絵さえある。額に至っては、木切れを集めた手作りである。何か色が欲しいだけで、これなら紫外線も気にする事はない。検索して指を指されたくないので作者名は書かないでおく。私への戒めにもなろう、と思ったが、貧乏神がもれなくへばりついて来そうで止めた。



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泉鏡花作『貝の穴に河童の居る事』を出版した際、これを見た知人に、私の孤独を想った。といわれた。飲み仲間から選んだ方々に出演してもらい、私の作った河童と共演してもらった。和気あいあいの実に楽しい制作であり、私の孤独?と意外な言葉であった。 知り合いにもう70過ぎた酔っ払いがいて、何度も流血し、救急車に乗せたこともある。彼のバンパーたる額は傷だらけである。つい最近も肋骨を折った。女の尻を追いかけ、酔っ払って幸せだろう、と周囲の人間は口を揃えていうのだが、私には寂しい淋しいという彼の叫びが聞こえ、そうは思えない。酒という鎮痛剤をいくら飲もうと虫歯は治らない。 一方私は家族などに囲まれていると、孤独が深まってしまう類いの人間である。そんな自分勝手な人間が,全力を持ってどこからか妙なイメージを絞り出して来て、呆れられたり、楽しんでもらったり、それが私の渡世だと考えている。私の孤独を想った人には、楽しそうに見えるけれど、と件の酔っ払いと同じように見えるのだろうか?

 



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作家シリーズの中で、唯一やり尽くした、といって良いのが三島由紀夫である。2011年のオキュルスの『男の死』についでのふげん社2020年の『没後50周年 珍説男の死』この間、三島本人がモデルとなった篠山紀信の『男の死』出版の噂に怯えながらの10数年であった。三島にウケるとしたらテーマはこれしかない。まさか三島本人に死の直前最後にやっていたのが男の死と知った時はショックであった。半分は〝やっぱりな私は解っていたよ”   本家は三島の個人的趣味の男となって三島好みの死に方をする。これは本人ならではである。私の場合は三島作品あるいは言及したエピソード内の死に方である。本家に敬意を表し『椿説弓張月』に倣い『椿説(珍説)男の死』とした。内容は違えど本家よりちょっとでも先に発表しなければ格好が悪い。5ヶ月後に出版されることを知ったのはふげん社の個展会場であった。未だに三島のご褒美だと思っている。わずかに『サーカスの死』を作り損ねたが、サーカス芸人の落馬の死は、糞尿運搬人の死まで作ってしまっているともはや弱い。  オンデマンドで日々眺め暮らす用に〝卒業写真集”を作っても良い。ちなみに本家『男の死』は、あの死の直後に出てこそであり、壮絶な死の直後に見られること想定してザマアミロ!とワクワクしながらポーズしている三島を想うと、あまりに哀れで未見のままである。



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陰影を無くした手法により、画面上の自由を獲得して思った通りの結果を得た。平面に描かれた赤富士の前に立つ葛飾北斎。しかし後ろにある赤富士を見上げている。陰影があったらこんなことは出来ない。これが出来るようなら寒山拾得も、と思った。昔の日本人はこんなことは平気でやっていた。図書館で浮世絵やかつての日本画を眺めては羨ましがっていたのは六年前か。おかげで少々先を急ぎ過ぎた気がしないでもないが、同じことを続けている程時間がないのも事実である。 先日、医者に癌かもしれないといわれた友人を見ていて、私がその立場だったとしても、今なら寒山拾得展をやっておいて良かった、と思えるだろうと思った。結局癌でもなんでもなかった友人に、これからはあれもこれもやっておこうと思ったろ?と聞くと、もう何もしないでじっとしてようと思った、という。入退院を繰り返し亡くなった父が、今回はダメかもしれない、と思ったものの退院を果たした時、実家に帰ったらガリガリに痩せた父は水戸黄門を観ながらスポーツ新聞を読んでいたから人それぞれである。



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一日  


出不精の散歩嫌いのためにテレビショッピングで買った自転車漕ぎ運動器具。おでんを煮ながらスマホでドラマを見ながら。それにしても子供の頃に、おでんではもっとも嫌いだったちくわぶが入っており、むしろ好きになっている。あんなうどん粉の塊が大阪にないというのは意外である。ついにホットのブラックコーヒーまで、ふげん社のコーヒーで生まれて初めて美味いと思った。人生折り返し、やり直している気がする。他にもらっきょや和菓子、特にあんこも。生きている間に間に合った、最後に残るは梅干しだが、これはさすがに難敵である。しかし酸っぱいといえば酢も、ラジオで深田恭子が酢で餃子を食べるというのを耳にしたのがきっかけだったし、何が起こるか判らない。 朝からおでんで飲み始める。寒山拾得展によるたかぶりも収まり、年内何も作る気はないが、葛飾北斎の画室に想定した場所の撮影許可は得た。テレビのドラマでで『中村仲蔵』を観た。だいぶ前、シネマ歌舞伎で彦六の正蔵の中村仲蔵で泣かされたことがあったが、今と違った蝋燭による薄暗い芝居小屋の雰囲気も良かった。ウチには〝劇聖”九代目市川團十郎がいる。陰影のない浮世絵の芝居絵とは真逆に、陰影深い姿を描いて見るのも乙かもしれない。



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知り合いがCT検査でたまたま癌の疑いを指摘され、しばらく落ち着かない様子だった。再検査の結果、たいした事がなかったが。若い頃、たまたまテレビで黒色メラノーマという死亡率の高い皮膚癌の番組を観て、そういえば、右手のヒラに黒子のようなものが出来たな、と心配になった。ところがその話を、飲み仲間に某医大の医者がいるという女の子に相談したのが悪かった。飲みの席で聞いたらそれが癌だったら手首から切断だって、という。すぐに診てもらってその場で切除検査、結果が出てる一週間生きた心地がしなかった。ネットがない時代、図書館で調べると、試験切除が刺激になり転移する場合がある、と。左手なら、オプションでナタやフック船長のようなカギを作るが、右手なので、だったら死ぬしかない、と思った。創作以外に使い物にならないのは自分が一番知っている。結果を聞きに行くと、もったいぶっている。女の子に、少し脅かしてくれと言われたという。ふざけんな、という話である。なので知人の気持ちも良く判った。 それが今だったら、寒山拾得展が終わり、やっておいて良かった!と思ったろう。その効果が切れる前に次に行かなければならない。長い目標を持たず、作り残しのないよう作り続ければ、常に目標を果たしたばかりの気分で死ねるのではないか、というのが私の企みである。

 



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