明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



昨晩、近所の店の娘が婚約したというので行ってみると、父親はここ数日体調が悪く点滴をしているという。娘の婚約はこれほどまでに父親にダメージを与えるものか、と本気で思ったのだが、なんということはない。婚約はガセネタであった。カウンターに座る◯さんは、両親が娘の彼氏に会う時に、立会人だかなにか知らないが、呼ばれたそうである。 ◯さんには最近ブログが制作のことばかりで面白くないといわれた。制作者としてのブログであるから、そうしたものだと思うのだが。それに近所の人も読んでいると思うと多少遠慮してまう場合もある。例えば◯さんがこの店に、彼氏を連れてきた娘と3人で飲んでいる初顔合わせの場に居合わせたことがある。この時の◯さんの複雑な表情は、人物像を作る私には大変勉強になるものであり、おそらくかなりのデータが収集されたはずである。顔は終始笑顔なのだが、ただ形として笑顔のようになっているに過ぎない中年の男。一方娘の方はタバコの煙を斜め45度の虚空に吹きかけ、一切クレームは受け付けません。という体である。そして父親からの壁になって座る彼女の陰で、無邪気にニコニコしている彼氏。画ヅラだけで濃厚な面白さが伝わってくる。 もともと男など哀れで滑稽なものだと思うのであるが、ここに父親というタイトルが加わるとこれがまた際立ってくる。しかし実態はともかく、その日は表面上では、いずれ目出度いことになる可能性がある、という顔合わせの場であるから、腹の中で“やったことは帰ってくるのさ”“しかも倍になってな”などと考えてにやけていても、お日柄も良く、実に微笑ましい、とニコニコしているように見えさえすれば良い。そして◯さん今日はピッチ速ェえなあ。そのわりに麻酔が効いてこないなあ、と横目で観ながら大いに楽しませてもらった。カウンターの向こうには、間もなく同じ目に合い、今度は◯さんを助っ人に呼ぶはめになることも知らない父親。こんな幸せ過ぎる話を書くのはつい遠慮してしまう。

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没後50年は柳田國男の他にもコクトー、コクトーと同じ日に逝ったエディト・ピアフがいる。 本日はストラヴィンスキー作曲、ニジンスキー振り付けの『春の祭典』初演からちょうど100年目だそうである。最初に断りがあり二台のピアノとパーカッションによる演奏のはずが、ストラヴィンスキーの遺族だとかかから、それは編曲にあたると、パーカッションが出演できなくなったということであった。2人の若い女性によるピアノの『春の祭典』であったが、これがパワフルで実に良かった。旧知の重杉彰さんの企画であったが、なるほどパーカッションが加わっていればさぞかし。 休憩の後、三浦雅士氏の解説。かつての『ユリイカ』『現代思想』の三浦氏がこういう人だとは思わなかった。時間制限のこともあったのか、話したい事が渦巻いていて大変な早口で、座ってなどいられない。興味深い話がうかがえた。天才バレエダンサー、ニジンスキーは『春の祭典』『牧神の午後』で常識を破った振り付けで波紋を呼んだが、とくに『春の祭典』は舞台から観ると山手線のホームのようにごちゃごちゃしているが、仮に上から観たとすると様々な円が描かれているそうである。ニジンスキーは後に精神に異常をきたし、口もきかなくなるが、たくさんの“クルクルした”画を残している。三浦氏によると、それが『春の祭典』の振り付けの円と重なり、おそらくこの時点で精神の異常は始まっていたのではないか、ということであったが、ニジンスキーの振り付けは、人間の根源的な部分を描いており、そこが感銘を与えている。という話であった。私は11年前、バレエなど1回しか観たことがないのにニジンスキー、デイアギレフ、コクトーを題材にした個展を開いてしまったのは、獣じみたこの天才ダンサーの、そんなところに触れたからである。 第二部は在日の中国雑技団によるサテイの『パラード』。これもかつてコクトーの台本にサテイの曲、ピカソの舞台装置によりスキャンダルを起こした作品である。CDによるパラードに雑技団は違和感はなかったが、広い舞台に少々さっぱりして物足りなくはあった。 それにしても、デイアギレフを中心としたこの世界。いまこそもう一度やりたいことが山ほどある。たまたまロシア人のドストエフスキーを作って思いだしていたところである。100年前のニジンスキーの歴史的跳躍を客席から観た風景を描くとしたら私しかいないであろう。しかしこの大きなテーマはうかつに2回も手を出せるような世界ではない。

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陶芸の専門学校時代の同級生N君の作品が、国立近代美術館に収蔵されることが決まったという。二十年前に伝統工芸展の最高賞である、朝日新聞社賞を受賞した作品である。さらに先日26日には三重県文化奨励賞を受賞したという。これは目出度い。どれだけ目出度いかは、我々が通った学校を知らない人にはわからないであろう。なにしろデッサンなどろくすっぽやったことがない人間でも入れる学校で、私など酒を覚えるために入ったようなものである。 S君は一浪して美大を諦め入ってきたが、トラックの運転手で授業料を稼いで入って来た人など6、7歳も年上であった。今思えば、すくなくとも男子生徒に限っていえば、後がない連中が集まっていた。なのでほとんどが現在、各地で陶芸作家になっている。 何度か書いたことがある。卒業を数日後に控えたある日。名残惜しんでアパートで女の子と飲酒にふけっていると、そこに一緒に飲もうと来たのがN君とO君で、居留守を使っていると、私がラーメンと酒ばかりで倒れているのではないかと心配し、雨戸をこじ開けられてしまった。恥ずかしい私は入れよというしかないし、2人もこんな場面で急用を思い出すにはまだ若かった。そりゃ何度でも書く。こんなことで歴史は変わってしまうのである。 N君にはせっかくなので本名で登場願いたいところであるが、私もたびたび馬鹿な想い出話を披露している。伝統工芸展のその賞は、人間国宝は取らないではなれないらしい。そこからが大変なわけだが、何が起こるか判りゃしないのでN君にしておこう。 N君といえば、昔から友人の両親など、お年寄りに妙に好かれる。それがまるで猫にマタタビなのである。私はいつだったか、N君がうちに泊っている時に試してみるつもりもあって、このあたりでうるさい婆さんで有名な◯三に連れて行った。あちらとしては、これだけ安く飲み食いさせているのだから愛想までは売らない、ということなのであろう。N君がその婆さんと喋ったのはせいぜい注文するときの三言くらいである。私が見る限り笑顔ではあったが、たいした話をかわしたようには見えなかった。その日N君は店にセーターを忘れ、翌日一緒に店に取りに行くと、その婆さんが満面の笑みで忘れ物!と手を振ったのには唖然としてしまった。 陶芸作家としてますます活躍するのは私も楽しみであるし結構なことだが、果たしてあんな能力放っておいてよいのであろうか?

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甲羅の造形がようやく終わり、後は着彩のみである。最初が安易にただ亀調の甲羅であったが、色々なパートを制作し、さて主役の河童を、となったら物足りなくなり、河童でもスッポンでもない、オリジナルの甲羅になった。色は2つ目のバージョンの、いくらか青磁がかった色に、多少グラデーションを付ける予定である。河童の体色も甲羅の変更にともない変えるつもりである。 しかし写真もアップせず、こんな造形上の細かいことを書き連ねても、読んでいただいている方にはチンプンカンプンであろうから申し訳ないことであるが、毎日地味に、ああだこうだ一人ジタバタしているものだ、とそれだけは伝わるであろう。勿論それを伝えて何になる、という問題は残るが、他にもっと重要な問題があるので考えないでおく。

ところでここ数ヶ月ネットが不通で、ご迷惑をかけた方々もいるが、なんてこともなく回復。ただ回復前もメールの送信ができなかったので、それはどうだかまだ確認はしていない。何しろ数ヶ月分のメールを削除しているだけで疲れる。 その間、近所のネットカフェに通って無駄な金を使ったが、なぜこうなっていたかは、あまりにも格好が悪いので、適当にごまかし、誰にも詳細を説明したことはない。わざわざ何を馬鹿なことを?!という顔をされるのが判っていていうことはないだろう。そんな顔は三島へのオマージュ『男の死』と今回の河童制作で見飽きている私なのであった

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制作中の『貝の穴に河童が居る事』は締め切りもなく、やりたいようにやっているせいで制作開始からそろそろ一年が過ぎようとしている。締め切りがない、というより編集者と話し合わないまま今に至っている。 堀辰雄は本作について『こんな筆にまかせて書いたやうな、奔放な、しかも古怪な感じのする作品は、あまりこれまで讀んだことがない。かう云ふ味の作品こそ到底外國文學には見られない、日本文學獨特のものであり、しかもそれさへ上田秋成の「春雨物語」を除いては他にちよつと類がないのではないかと思へる。』と書いているが、こんな作品に閉め切りなどという生臭いものは不似合いではないか。(河童はベトベト生臭いが)鏡花の幼児性が炸裂したようなこの作品には、締め切りなど気にせず、今こそ私の中に有りあまる幼児性をもって、挑まなければならないのは当然であろう。各方面に対する言いわけはこの辺にして。 それにしても今年は泉鏡花生誕140周年であり、柳田國男没後50年である。両者を作中に登場させることを考えると、見事に過ぎるタイミングである、しかし制作を決めた時点ではまったく知らず、ツイッターで妙に鏡花が盛り上がっているな。とそれで知った。まして父の命日すら覚えられない私が、柳田没後50年に気付くはずもない。 私の場合、こういう都合の良いことは、できの悪い表層の脳を使っていると起きることは皆無であり、何も考えない場合にしか起こらないのが問題といえば問題である。仮に私が寝ている間に、もう一人の別な私が目覚めて、世間の動向など研究していたらたいしたものであるが、夢を見て、笑いをこらえてその苦しさで目が覚めているようではあり得まい。 まあ発刊に際し、鏡花生誕140周年と柳田没後50年ですから、計画的に決まっているでしょう。という顔をすれば済むことである。

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ドストエフスキーの肖像画で最も有名な肖像画はヴァシリー・グリゴリエヴィチ・ペロフ描くところのこの作品であろう。だが私にはどうしてもドストエフスキーには見えない。いつもいっていることであるが、私は残された写真でさえも、そう簡単には信用しない。夏目漱石の鼻筋のように、写真師が修正している場合もある。この肖像画は私には本人と違って耳が小さいし、髭越しに透けて見える顎は細いのに、こちらはエラが張っているように見え、体格も良いように見える。ただでさえ他人の創作物など参考にしたくない私は、編集者に、ドストエフスキーの生前に描かれた作品なのか調べてもらった。死後であれば私と条件は一緒である。即無視であるが、生前に描かれたものだという。これは困った。だがどうしても私がドストエフスキーです。ということが伝わってこない。いってみれば、なんらかの事情で本人をモデルにすることができず、妙に似ている近所の農家の主人を座らせて描いた。そんな感じがしっくりくる。写真に残されていない、貴重な角度を描いた作品ではあったが、たとえロシア政府が公認していたとしても、私のなかの屈託が払拭できない以上、一切参考にしないことを決めた。

ドストエフスキーの髭は、私が造ったような密度はなく、実際はまばらである。それでも石像だろうと銅像だろうと素材上、固まりとして表現せざるをえない。今回は異例の速さで制作が進行したので、何かの素材を利用し、顎のラインが透けてみえる髭の表現を試みたい衝動にかられた。しかし私の中には“フランケンシュタイン博士の教訓”といえるものがある。つまり、“やりすぎてはいけない”。 何度も書いていることであるが、実物と見まごうばかりの作品を作るのが私の本意ではない。私が考える、必用なリアル感さえあれば、粘土丸出しで良いのである。やり過ぎて野暮で嫌みな作品になることだけは避けなければならない。 そうはいいながら制作のたびごとのこうした思いつきが、徐々に私の作品に変化を与えてきた。最初の作品がただの手捻りだったことを思うと、随分長い間作ってきたと呆れるばかりだが、人間の脳は思いついた物は作るようにできている。といったのは養老孟司氏であったか。私は幼い頃から、この仕組みにずっと苦しめられ、またこれ以上ない快楽を与えられてきた。しかしもう子供ではないのだから、フランケンシュタイン博士の教訓を胸に、ハシャギ過ぎないよう気を付けている。

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http://www.shinchosha.co.jp/book/127531/

少なくとも、私が資料として目にすることができたドストエフスキーのポートレイトは皆口が開いていた。撮影に長時間の露光を要する時代に、口が開いているというのは常に口を開けっ放しの人物だったと判断してよいのではないか?ロシアを代表する文豪がこれではいけないということか、肖像画、彫刻の類いは閉じて作られているが、私にはドストエフスキーに何の義理もない。このような、どちらかというと面白い特徴を私が見逃すはずもなく、開けて作ったのだが、今回はシャンとしてもらいたいので、たまたま髭の影で閉じているように見えたのをそのままにしておいた。それはともかく。 この口の開けっ放しも大いに貢献しているのだが、むしろ気になるのは、どの写真も心ここに在らず。呆然としているように見えるのである。ドストエフスキーは博打好きで借金に苦しんだのは有名である。そう思うと、競馬場の外れ馬券舞い散る景色が似合いそうな表情である。“こんな所で写真撮ってる場合ではないのだ”。それは当時の写真師が許しても、私は放っておく訳にはいかない。ボクサーのセコンドよろしく、気付けのアンモニアをたっぷり嗅いでもらった。さらに視線に曰く言い難し的なニュアンスを加えるために一工夫している。 立体作品は、作ってしまえばどの角度からも撮影できるという利点がある。アンモニアでシャンとしてもらったついでに、残された写真にはない角度から撮影してみた。加えて今回は著者との共演を試みている。 “わたしはドストエフスキーに憑かれ、そして救われたー。”と帯に書かれている。翻訳者である著者の亀山郁夫さんには、ドストエフスキーと同じ空間に立っていただいた。タイトルの“旅”にちなんでコートを手にしてもらい、足許には革製の旅行鞄を配した。そして窓外にはロシアの風景を想わせる針葉樹林。どこで撮った樹々だかは書かないでおく。 実在した人物を作る時は、私の勝手な思い込みだが、いつの時代の人物であろうと本人に見せて、ウケるものを造ろうと心がけているが、ドストエフスキーはその存在があまりに遠く、遺族と顔を合わせる可能性もない。いつもの心がけ、歯止めを忘れ、アンモニアを嗅がせたり遠慮せずに制作した。おかげで私のドストエフスキーになった気がしている。私は危険なことに気づいてしまったのではないか。

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午後一時。筋彫りはすべて終わったそうで、本日よりボカシに入る。子供の頃、近所に中途半端な筋彫りから、何年経っても進展しない兄チャンがいたが、“ガマン”というだけあって、彫っている間に急用を思いだしてしまう人がいるそうである。 その点、太腿から腰にかけて鳳凰を入れている目の前の女性は、ボカシを入れている間中、携帯を観ている。見上げたものである。私は急用ならいくらでも思い出してしまう口であろう。実際は痛いそうだが、筋彫りほどではないという。 筋彫りの時は、彫っているそばから皮膚がもり上がってきたが、ぼかしはそうはならないが、墨に赤味が混じって見えるのが、彫りたてならではのことらしい。落ち着けばこの赤味は消えてしまう。筋彫りの中をぼかす時、インクが溜まった中で彫ることがある。つまり針先は見えないわけだが、筋彫りのラインからはみ出すことはない。はみ出していたら取り返しがつかないわけで当然であろうが、実際見ていると感心してしまう。 途中知人から電話がきた。音を訊かせると『床屋さん?』私は自分が墨を入れていることにしようと考えたが、ブログを観ているというので止めた。 しかし画を描くといっても色々である。私は陶芸作家を目指していた頃、湾曲した面に画を描くことを経験しているが、プヨプヨした生身の肌に描くというのは、見ると聞くとは大違いである。おまけにキャンパスが痛みに耐えているという独特の空間である。  彫Sは一門等と海外でパフォーマンスをすることもあるらしい。その際は日本調に、作務衣に雪駄でやる人もいるそうである。着物できめれば彫Sは江波杏子ばりではないか。『昇り竜のお銀』のようにさらしに片肌脱いで、日の丸を背に度肝を抜いてやればいいと思うのだが。やかましい客がいたらグレートカブキみたいに毒霧でも吐いてやればよい。それはともかく。 進むほどに良くなってくる。やはり私もそうだが、画竜点睛。最後に入れるのは目だという。

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灯ともしの翁と、ひれ伏して向かい合う河童の三郎。自分の腕を折った人間どもに復讐して欲しい、と願い出る。岩波だったかの解説では、翁の膝に三郎がすがりつく、というような解釈をしていたが、人間に対しては自分勝手な怒りをぶつけるが、こと異界においては姫神に失礼だ、と案山子の着物を剥いで着て、空を飛べるのにヨロヨロ石段を上がってくるほど礼儀正しい。それにびしょ濡れであるし、もともとベトベトと生臭い三郎である。自己紹介もまだだというのに、いきなり翁に取りすがるはずがない。ひたすらひれ伏す三郎を作る。 左腕は肩から折れて“ぐなり”と削げてしまっている。鏡花は詳細に書いてはいないが、折れた左腕は肩から後ろに折れ曲がり、あさっての方を向いてしまっていることにした。ヒドイ状態である。右腕だけでは身体を支えるのも大変で、身体が傾いてしまいながら翁を見上げている。自分で作っていて哀れである。さらにダブダブでぐしょ濡れのボロをまとわせればさらに哀れさが強調されるであろう。しかしこの三郎、何が哀れといって怪我は娘の尻を触ろうとした結果であり、翁にも、お前等一族は昔から皆そうして怪我をすると苦言を呈される。学習能力が欠如している河童一族である。 近所のやはり学習能力欠如の63歳から、例によって朝から飲んでしまいロレツの回らない電話が来た。 酔っぱらって頭から血をしたたらせ、半ベソかいているところを哀れな三郎のイメージに取り入れさせてもらっている。 私はいつか書いた。この人物、私に河童を造らせるためモデルにせよ、と舞い降りた妖精なのではないか?と。そしてこうも書いた。もう取材は十分なのでとっととお帰り下さいと。しかし妖精界へ帰りもせず、くたばりもせず、ただ私をウンザリさせ続けている。結局その後、飲み屋からつまみ出されたそうである。

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3時に古石場文化センターの音楽スタジオへ。小津安二郎作品の常連であった佐田啓二の娘、中井貴恵さんの朗読イヴェントは昨日であった。人形作家の与勇輝氏もみえるというので行くつもりでいたのだが。先のことだと思っているとこうなる。 昨日は母がクラス会の後、何人かで歌舞伎座を覗いたが、人だらけで予定より早めに深川に来た。深川不動に写経を納め、鍼灸院に行き、ついでにK本に顔を出し、その後T千穂へ行ってしまった。皆さんが大事にしてくれるので母は来たがってしょうがない。

本日のスタジオも1コマ2時間である。2時間というと、チューニングして前回のおさらいをして終わってしまう。やはり2コマ4時間は必用である。かといって6時間だと、途中ガソリンを入れる時間をとらないと間がもたない。 私としては、他の2人がそれぞれ遠慮しているのが気になっている。特にSさんは何本も高価なギターやアンプを所有していながら何故かベースをやっている。一方Yさんはコードの押さえ方が少々怪しいが、ビートルズでもポールマッカートニーが好きなのでベースに興味があるようである。Sさんに、Yさんにベースにまわってもらってギターをやってみたら、といっていたが、たまたま本日、Yさん自らベースをやってみたいというので丁度良かった。 2人は会社は違うがトラックドライバーである。日頃車間距離に気を使っているから、ということもないだろうが、人に気を使うタイプである。そこが良い所であって一緒にやってみる気になるのだが、いい歳した3人が、誰も見ていない防音された場所に集っているのである。もっと積極的にはじけるべきではないか? そもそも一番年上だからといって、なぜ私が全体の和を重んじ、細かいことに気を配り、頭を悩ませなければならないのか。普段河童を作っているような人間のすることではない。

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鎮守の杜の姫神様は、袖頭巾というものを被っている。始め時代劇に出てくる武家の女性が被るような頭巾だと思っていたら、それこそ着物の袖のように袋状になっているもので、頭部から襟元まで覆い、丸く穴が開いている所から顔を出す。発表された昭和6年当時は、日常的に見る物ではないにしても、読者には判るものだったのであろう。これこそ今となればビジュアル化のしどころであり、脚注の必用はなくなる。 姫神に仕える翁である柳田國男は揉み烏帽子というクタクタと柔らかい烏帽子を被っている。私としては、柳田國男の柳田らしい頭部のラインを隠さずに見せたいところである。ハゲ頭は作り所であり、作ったところは見せたいのが制作者である。 たとえば河童の三郎に対して、どれ、お前の言い分を聞いてやろう、としゃがみ込んだついでに烏帽子を、たとえばキャップやハンチングのように脱いだっておかしくはないであろう。なんならその際、ハゲ頭をなでてもよい。 しかし姫神となると、頭からすっぽり被る頭巾を、わざわざ脱いで、というシーンはないような気がしてきた。最後一件落着。空を飛んで郷の沼に帰っていく河童を見送る後ろ姿くらいは、頭巾を脱いでいても良いだろうと思っていたが、鎮守の杜に君臨する姫神からすると、沼に住む河童など身分違いもはなはだしい鼻糞みたいなものであろうから、それもおかしいであろう。 となると入手した人毛を姫神に植え付けたところで見えなければ効果はない。あれだけ人毛だなんだと騒いでおきながら。細部に目がいくようになると、充分考えたつもりでも、こういったことは起きてくる。 来週にはひれ伏す河童と踊る河童など作る予定だが、主役の河童もそろそろ佳境に入ってきた。

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夢を見た。日本武道館。何かの世界タイトルマッチのリング上。君が代を歌う歌手が物凄い音痴で吹き出しそうになる。顔をそらして耐えようとするが、周囲の人間は神妙な顔で、館内は水を打ったような静けさである。苦しみながら我慢する。なにしろ「静粛に願います」とたった今リング上からアナウンスしたのは私自身である。しかしメチャクチャ音痴な君が代が続き、苦しみ悶えながら目が覚めた。どうも腹筋の感覚からすると、実際笑いをこらえた節がある。笑いながら目が覚めたことはあるが、笑いをこらえる苦しさで目が覚めるという。こんなバカバカしい目覚め方があるだろうか?おまけに寝てからまだ3時間しか経っていないではないか。 一日の最初がこれでは、今日はおそらく、チャレンジ的なことをする日ではないだろう。河童の甲羅にペーパーをかけて、細部を修正することにした。 私は実在した人間の顔以外は、ほとんど資料を参考にすることはない。亀でもすっぽんでもない甲羅を作っていると、今まで見たことがある、様々な記憶を頭から取り出して作っているのがわかる。今回は甲羅だけに、ほとんどが貝などの生き物であったが、甲羅のふちにそって、ちょっとえぐれたようにしようと思った時はSさん所有のギブソンのギター、レスポールが頭にあったような気がする。 私は励んで覚えたことが一切役に立たず、無意識に記憶に取り込んだ物だけがためになっている。しかしこれは怠け者のいい訳にしか聞こえないところが残念である。 本日も人間の表情を無意識のうちに観察し、取り入れるために酒場へ。なんといっても人間の油断した自然な表情の宝庫である。周囲の人間は、まさか私が人形制作のために勉強しに来ているとは気づいていないであろう。もちろん気取られてはならない。しかし最も肝心なのは、私本人も気づいていないことである。

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やはり河童の甲羅を作り治すことにした。三度目の正直である。大きな甲羅を背負ったまま着物を着せると大きくなりすぎる。鏡花作品で河童を描くのであるから、それこそアトムのブーツ式で良いと思うのだが、改めて思いついたことがある。 河童の案山子から剥いだ着物は粘土で作るつもりでいた。小学校の家庭科2の私である。とても布は扱えない。ところがこの河童はずぶ濡れである。濡れて張り付いた着物から甲羅が浮き上がって見えたら面白いのではないか。特に河童初登場シーンは、石段を歩く後ろ姿である。透けて見える亀甲状の紋。ちょっと薄気味悪いところが良い。ということで甲羅を作りなおすことにした。 河童は小さいほうにはいくらでもサイズが変えられるようだが、普段90センチ程の身長である。案山子の着物はダブダブであろう。しかもボロに違いないし、ズブ濡れである。ちゃんと着物状に縫われている必用は無いのではないか。そういえば、かつて黒蜥蜴のドレスを、ただ布を巻いてごまかした前科もある。 昔JリーグにいたアルシンドがTVに出ていた。昔の映像を映していたが、ファンが床屋で自分の子供をアルシンド風河童頭にしていた。親はああいうことをしたがるものである。私もリボンやスカート姿の写真が残っている。あの頃の可愛らしさで親孝行はすでに済んでいるのだ、という説もあるが。親も私が後に、こんなことになるなんて想像もしていなかったのであろう。哀れな話ではある。写真を処分するなら今のうちである。 河童の毛は、最初人毛を使ったが、素材としての縮尺が合っていない。人毛の気持ち悪さが狙いであったが、小さな河童に人毛ではまるでピアノ線である。濡れそぼった河童の顔に張り付いた毛。この感じが欲しい。結局人形用の毛髪を粘土製の皿に張り付け、これを頭にかぶせることにした。とりあえずこの皿一つを使い回すことにする。

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河童に最初に取りかかったのは昨年の今頃ではなかったか。作っているうち気が変わって色や髪の毛、甲羅など変えることになったが。 河童の三郎は姫神様に、自分にケガを負わせた人間どもに対して仇討ちを願い出る。自分勝手な三郎だが、空を飛べるのに、上から飛込んでは失礼だ、と長い石段を登ってくる。さらに案山子の着物を剥いで着てくる。そこである。 三郎の背負う甲羅は、最初があまりに亀っぽいので大分変えた。それでも身体からはみ出す程度に大きい。作るときは後で案山子の着物を着たらどうなるかまでは考えなかった。つまり甲羅を背負った上から着せると不細工なのである。もっと身体にフィットした、小さめの甲羅にさらに作り替えるか。または着物を着る際は、甲羅を背負っていないかのように作る。つまり鉄腕アトムが空を飛ぶ時は、赤いブーツはどこかへ消えている。というようなことである。物心ついた時にはすでに活躍していた鉄腕アトムのブーツの謎について、一度も見聞きしないまま今に至っている。そんなことを問題にさせない手塚治虫である。そう思えばこちらにしても幻想文学の鏡花作品である。あまり細かいことを気にするのもどうか。だがしかし、アトムの角や丈矢吹の前髪はいったいどちらを向いているのだ、ということはおかまいなしの漫画とはちがう。明日には決めよう。 それにしてもそろそろ考えなければならないが、表紙に相応しい作品は未だにできていない。河童ができていないのだからしかたがないが、せめてイメージだけでも、と過去に撮りためたデータをチェックしていると、これぞ、というカットが一つ見つかった。季節その他のこともあり、そのままで使える物ではなかったが、幸い都内で撮影したカットだったので、いずれ再撮することに。何もかも湿気って写る旧東ドイツ製レンズの出番である。何故か緑色が鮮やかに写る。梅雨時の河童用に設計されたレンズのようである。

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古石場文化センターに3時。スタジオを借りる手続きをしていると、職員の方に、ここに収蔵展示してもらっている小津安二郎像を、小津の関係者の方に、長い時間感心しながら観ていただいた、という話を聞いた。有難いことである。近日、小津関連のイベントがあり、人形作家の与勇輝氏作の小津像を一日だけ拝借するらしく、与氏もみえるということで、余程のことがない限りご挨拶くらいはと思っている。 

前回、前々回とスタジオを6時間もとってしまったが、今日は2時間である。メタリカ好きなSさんとは会えばロックやギター談義である。決定的に合わないところは、私は70年代までのロックが好きで、以降はブルースティストが薄れ、面白くない。一方Sさんは、80年代以降のロックしか知らない。そこでかつてのロックはブルースが基本であったのだ、とあまり乗ってこない2人の懐柔作戦を展開し、前回ようやく12小節のブギを練習することができた。昔はド素人がレコード出す場合、福留功男だろうとせんだみつおだろうと、なんとかロックンロール的な物を出したものである。つまり素人でも形になりやすいということで、下手糞でも楽しめる形だ、ということがようやく判ってもらえたようである。今回は提案した私がリードギターということになっているが、弾いていてネタが尽き、やることがなくなった場合のエンディングを練習をした。 居酒屋へ移動。今後何を練習するか話し合う。Sさんが希望を出す番であるが、自分がやれないものを提案するわけにいかないというジレンマがある。マイケル・シェンカーが好きで、フライングVを持っているSさんなので、以前在籍していたUFOの『カモン・エブリバディ』はどうかといってみた。遥か昔、私が中学生時代にヒットし、来日もしている。今日も練習したコード進行と同じであるし。元はエディ・コクランの軽快なロックンロールであるが、UFO版は単純だが、やたらと泥臭いハードロックにアレンジされている。決まれば私がまたリードギターをやらされそうである。くれぐれもマイケル・シェンカーが入る前のバージョンでね。と念を押す。Sさんは「ユーフォー」というので、あの頃はそんないい方なかったんだよ。「ユー・エフ・オー」。

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