明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



朝ドラ『おかえりモネ』は、久しぶりに観たので展開が良く判らない。ヒロインの、前髪を一直線にそろえた顔で、口が半開きの表情がイライラするので観るのを止めたのだが、おでこを出すようになり気にならなくなった。子供の頃、隣のおばちゃんに「ボク、口開けてると埃が入るわよ。」と良くいわれたせいではないだろうが。なぜ一直線で半開きがイライラして、今は気にならなくなったのか。私にとって、こんなどうでも良いことが実は大事なのである。独学、自己流でやってきた私の作品は、実はこんなどうでも良いことや、どうでも良い記憶の集積によって形作られている、といっても過言ではない。一方残念なことに、これについて学ぼう、励もうと考えたことが役にたったことは皆無とはいわないまでも、大方スカに終わる。なので、考えるな感じろということになるのだが。もっとも私如きが学ぼうと考えることは誰しもがそう考えることであろうから。私は遠慮しておいた方が良さそうである。



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後頭部から頭頂部、前頭部にかけて盛り上がるという妙なカーブを描いている。実際はこんな人間はいないだろう。いやどうだろう。日本人と同じように見える青朝龍や白鵬の額のアールは日本人にはないものだろう。しかしこの臨済義玄の場合、何百年も伝わる肖像画の通りに立体化するから面白い。座禅一つしたことがなく臨済録も読んでいない私が勝手に創作したらつまらない物になるだろう。作れば良いというものではない。頭部と握った右拳に、下から支える左手の仕上げにはいる。法衣の仕上げは急ぐことはない。 明日は達磨大師の後ろ姿を作る。先日書いたように達磨大師が“ダルマさんが転んだ”と振り返っている。国宝、雪舟の『慧可断臂図』と違い、達磨は慧可の存在に気付いて注意を向けている。本来その前に慧可の頭部を作る所だが、頭部はすでに10個はあるので、今はすぐに撮影出来る状態の作品を増やしておきたい。 雪舟作の見所は背景の奇岩にもある。私は奇岩にする気はない。ただ、これを実写の洞窟にするか石膏で作るか。そこで趣は変わってくるだろう。昔からウソとホントの配合バランスが工夫のしどころである。

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西洋の宗教画や宗教彫刻の中にはモチーフの選択肢が少なく主題はそこにはないと思われるエロチックな作品に溢れている。昔友人にそんな話しをしたら怒りだした奴がいて、お目出度い奴だ、と呆れた。 私が長らく続けた作家シリーズは、作って面白いイメージを創作してくれた作家に敬意を払い、おかげでこんなとんでもない場面を作ることが出来ました、と感謝しっぱなしで、なので作家本人が不快になるようなことはしたくなく、本人に見せてウケるような作品を、と妄想しつつ心がけてきた。 それを考えると制作中のモチーフは一千年前のエピソードはざらで、やりようという意味では、一小説家が描いた世界とは比較にならない広大さである。作っているのは殆どが老人で、地味に制作しているが、内心は相当はしゃいでいる状態である。 数年前から突然始めた陰影のない石塚式ピクトリアリズムだが、このモチーフのために有るような手法である。3本脚のガマを頭に乗せた蝦蟇仙人や、虎に乗った老人など、さも現実に存在するかのように、太陽がこちらにある設定だから陰影はというと、なんて馬鹿馬鹿しくてやってられない、という話である。


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曽我蛇足の臨済義玄像からおよそ200年後の長谷川等伯の義玄像は、構図こそ一緒だが、まるでインド人のような黒さで、何だか濃い。印刷もなかった頃、模写はどうやっていたのか、伝言ゲームのように、模写を繰り返しながら、それぞれ個性や工夫が加わり、同名異人的な変化も生じただろう。私にしたところで手本にはない、血管、筋を加え、どうせ喝!なら、と口をもっと開けた。今の所どこの坊様からもクレームは来ないが、義玄よりもっと偉い、禅自体を作った人物も群馬県で量産されているから問題はないだろう。 その達磨大師に教えを請うが許されず、己の腕を差し出してようやく許される後の慧可大師。雪舟の『慧可断臂図』では達磨大師に腕を差し出しているが、達磨は壁に向かったままである。私の場合は次の刹那、達磨が振り向いた所にしようと考えている。しかし今日つまらないことに気付いた。これではまるで達磨大師が“ダルマさんが転んだ”と振り向いているようではないか。私の地区では“インデアンのふんどし”というバージョンもあったが。


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それにしても、行き当たりばったりといえど、それなりの経緯という物があったはずだが、今年の話しだというのに詳細を覚えていない。臨済義玄の前に一休宗純に取りかかっていたはずだと思う。フト思い出した小学生の頃、ねだって買って貰った初めての大人向け本『一休禅師』。”門松や~目出度くもあり目出度くもなし“に感銘を受け、左卜全のような肖像画を思い出した。すると一休も臨済宗ではないか。興味深い肖像画を見るとまた臨済宗である。その段階では高僧の詳細な肖像画を残すのは禅宗でも臨済宗の特徴だと知らず、それを縁だと思い込んでしまった。知っていたらこうはならなかったろう。 しかし一休の“目出度くもあり目出度くもなし”が、寒山と拾得の笑っているようで笑っていない、不可解な表情のヒントになった。そもそも『寒山拾得』の物語といっても、登場人物は少ないし、名場面的な物も有るような無いような。かえって良かった、と思っている。 一休の竹竿に捧げ持つしゃれこうべは出来ているが、一休の頭部はまだ出来ていない。”門松や“の一休だけに、来年の元旦には間に合わせるつもりである。

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野暮な乾燥機にかけるよりマシであろう。参考にしてきた曽我蛇足の臨済義玄像だが、昨日、長谷川等伯がまったく同じ構図の義玄像を描いていることを知った。昔の絵師は先達の作を盛んに模写してきている。中国側にもしオリジナルがあるものなら見てみたいものである。私もその末席に座した訳だが、後ろ姿まで作ったのは粘土で作った、おそらく私だけだろう。
引っ越しの際は、64:年の東京オリンピック以前の生活がテーマだったので、作業机は古い物で、それに合わせて椅子も昭和または戦前調である。それに合わせて、昔から持っていた古いヨレヨレの絨毯を敷くつもりでいたが、今朝机の下を見たら粘土屑だらけで、絨毯を敷くどころの状態ではなかった。せっかく棕櫚製の箒とブリキ製のチリトリを買ったのに結局、いただいたダイソンの掃除機で。文明に負けて宣教師によってパンツを穿かされてしまう原住民の如き心持ちする。。

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無呼吸用装置をし忘れのせいで、寝てばかりいて、予定より遅れ臨済義玄ようやく乾燥にはいる。 二体目は誰にするか。『寒山拾得』の豊干禅師を手掛けておきたい所だが、常に乗っている虎を実写にするか、作るか決めかねていたが、虎を作るくらいなら人物を作りたい。猫を虎に変える策も考えてはいるが、寒山と拾得、豊干と虎が寝ている『四睡図』は寝ている猫を撮影するより動物園の虎の方が楽だろう。 となると三体必要な『虎渓三笑図』を作るか。これは人形展示は考えていないので、写る所しか作らない。修行のため山を下りない、と決めていたのに、客人を送って行きながら、話しに夢中になって、つい渡ってしまい、笑う三人の背景の石橋は、すでに撮影場所は決めてある。山深い背景は描かず、お笑い三人組と、石橋だけでも成立するだろう。西洋画ならモナリザの背景みたいなのを描いてしまうところだろう。陰影がないと、写真でもそんな省略が可能である。陰影を描かない石塚式ピクトリアリズムは今回のモチーフでこそ、真価を発揮するはずである。

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目が覚めると、無呼吸用装置を装着せずに寝てしまっていた。おかげで臨済義玄の完成一日伸びそうである。私のような不信心者が、ある宗派の開祖を作ることになるとは。一寸先は判らず、行き当たりばったり、成り行き任せの、あえて良いところといってみたい。”考えるな感じろ“でいくのが、特に今回のモチーフは肝心であろう。何でこんなことになったのか、経緯は後で当ブログを検証するしかない。そして初めから予定通りに制作しました、という顔をする。「絵を描くこととは考えないで作業すること」という横尾忠則さんと違い、幼い頃から今に至るまで、周囲は素っ堅気ばかりで「何だか判らないけど作りたくて作っちゃいました」が通じる人材は絶無である。”感じたんじゃない考えたのだ“という顔をついしてしまうのである。哀しい話しではあるが、今にして思うと、将来を案じた母の教育の賜物であろう。やってることの割に人間関係で問題は起きにくい。

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一日  


乱視が酷いせいもあり、スマホでブログを書いていて、ちょっとした手違いでバックしたつもりがすべて消してしまうことが良くあり、消えて惜しい駄文でもなし、と間が空いてしまった。制作中の臨済義玄も座像なので足を作らないで済むので完成は早いだろう。 相変わらず、目が覚めたつもりで無呼吸用のマスクを早々に外してしまい、眠気が襲うことも多いが、原因は明らかになったし、着けてさえいれば、マシではある。睡眠といえば、明け方トイレに何度も起きるのが悩ましかったが、すっかりなくなった。それは外で飲むときは、焼酎を炭酸や、ホッピーで割った物を飲むが、昔から家で飲む時は、どんな酒でも生のままで、氷すら入れない。つまり水分を取り過ぎることがない。歳のせいにしていたが、コロナのおかげでこれも原因解明となった。 この辺りは、段ボールは、月に一度町会が集めるようである。不便なので、区役所に聞くと、燃えるゴミで出だして見付かると何か言われるかもしれない、などと余計なことを言われたので守ってはいる。タイミングを逃していた、運動不足解消用に買ったエアロバイクを一ヶ月以上ぶりに梱包をほどいた。


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出来るだけ曽我蛇足の臨済義玄像に近づけたいが、実際は喝!といってる口をさらに大きく拡げ、首を修正したため一旦消えているが、こめかみ首筋などに血管を浮き立たせるつもりである。 最近気付いた、ただ目の前の物を作ることに集中することを繰り返すメリットに気付いてから、昔から漠然と想像していた、死の床で、あれも作りたかった、これも作りたかった、と苦しみ悶えるだろう心配が消えてなくなった。友人はこれでやり切ったということはあるだろうか、俺の親父はたくさんやり残して死んだぞ。という。最も良くないのは”いつかあれをやろう、あれを作ろう“と考えることである。そこに至らない場合、後悔に苦しむのは当然である。先のことは考えず、目標をただ目の前の作品の完成に限れば自動的に、死ぬ時は昨日、或いは先月、或いは昨年、作りたかった作品が出来たばかり、という状態で死ねるのではないか。“あすなろ”なんて了見が一番良くない。“明日出来ること今日はせず“は“今日出来ることしか今日はせず”でも良い。

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制作を再開した臨済義玄だが、座像なので足を作らないで済む。元になっているのは、お決まりの斜め45度の肖像画だが、生前本人を目の前に描いたのと違うので、少々整合性に欠ける。つまり鉄腕アトムの角や、矢吹丈、花形満の前髪はどちらを向いているのだ、という話である。クラナッハのヌードを立体化した時、解剖学的にはメチャクチャ、絵画は自由で良い。だからといって私がかつてに創作しては面白くなく、曽我蛇足の臨済義玄像を元にするから良い。 躰を作っていると、顔の部分に違和感を感じ、引っこ抜いて治す。しかしこの段階でいじっていると、取り返しがつかなくなることもある、と躰が完成してから頭部を改めて仕上げることにする。長くやって来て、何が良いかというと、失敗の膨大なデータの記憶量である。何か変だが、何処が変だか判らないという、あまりにも長かった独学者の悪夢の年月。

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まさかのコロナでな亡くなる。最初の記憶は『アラーの使者』。サングラス無しの月光仮面みたいな、マントも短かかったかも。指先から煙が出た気がするが、三歳の記憶は曖昧である。『七色仮面』も良かったが、千葉真一らしいといえば、盲目の柔道家を演じた『暗闇五段』だろう。『プロミス・シンデレラ』の眞栄田郷敦が倅と知り驚いた。合掌。 打ち合わせ後、大谷の活躍をチェックしたりして、夕食後、ようやく臨済義玄座像に取り掛かる。一つ判って良かったことがある。頭部制作後、作業机の移動や片付けをグズグズやっていたが、制作を再開したら眠気は雲散霧消。無呼吸症候群が眠気が感じなくななったら、まずいのかもしれないけれど。とりあえず安心した。

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一日  


無呼吸用のマスクは鼻から空気が出ていて呼吸が止まるのを阻止するようになっていて、そのデータはスマホを通じて送信される。先日クリニックでデータを見せられたが、思った以上に装着を外してしまっている。途中目が覚め、もう起きたから大丈夫だと、スイッチ切ったり、マスクを外して、また寝てしまう、ということらしい。よって装置時間が短いと、やはり一日中眠い。なので目が覚めた、と思ってもしばらく外さないように心掛けていたのだが、今日も気が付いたら外していた。外すと空気がシューシュー出てうるさいので、スイッチも消している。というわけで、本日、作業机の引き出しの整理と天板にワックスを塗って終わってしまった。始めるはじめるといいながら何日経つのか。明日は人と会うから夕方には再開出来るだろう。始めれば一変、せっかちに変じるから、まったく問題はない。むしろ弓の引き絞り効果がさらに生じるだろう。

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臨済宗に伝わる寒山と拾得の話を単にビジュアル化しようと思っていたのに臨済宗開祖を作ろうとしている。曽我蛇足の臨済義玄像の激しい喝!の表情を見て作りたくなった。図象で禅の心を伝えようという、臨済宗の意図通り、素直に受け取って、その気になっているといえるのかもしれない。座禅一つすることなく、臨済の言葉を弟子が書き取ったという、臨済録を一読もせず、というのは心苦しくはあるのだが。 などとずっとグズグズいっているが、そんなモチーフこそ私に創作上の快楽をもたらすことは明らかであり、グズグズいったり自分を焦らしたり、盛り上げるためには、どんな手でも使う私である。なので本日全身像制作開始のはずが、空手形で金メダルの喜友名諒選手の気合いを今一度臨済義玄の頭部の参考にした。というわけでご馳走を前に口中は唾液が溢れんばかりである。明日こそ。

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仙人や架空の人が多いこともあってすでに頭部だけが13個もあるという異例の状態で、今までとは勝手が違う。昨日は起きしなに、寝惚けながら、よりによってこんなモチーフを、何をやらかしているのだ、と最低な気分で目が覚めた。そんなこととの関係は不明だが、実は今年に入ってずっと腹が緩い。整腸剤も効かず、クリニックでずっと薬を貰っているが芳しくない。もっともそれでゲッソリ痩せることはない。ストレスなんて感じるタイプではないが、自分が思っている程ではないのか?  それはともかく。明日より、ようやく新シリーズ第一作となる、臨済宗開祖、臨済義玄座像の制作を再開する。結局、殊勝なことを考えても、物心ついて以来、取り憑かれ続けている快感物質に抗うことは出来ない。かつて噛みつき魔と恐れられた悪役レスラー、ブレッド・ブラッシーはいった。「俺の邪魔をするヤツは誰であろうと噛み殺す。それがたとえ俺のお袋でもな!」アメリカならともかく日本でお袋でもな、といわれても今一つではあったが。

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