明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



恐怖の振り子設計用コンパスを買う。どうせ今後使うこともないので小学生用で充分である。しかし大きく揺れながら上から迫って来る大きなマサカリのような振り子。良くそんなことを考えるものである。『落とし穴と振り子』は異端審問という設定であるが、無茶な刑具を創作して、単にその恐怖を描きたかっただけ、というような作品である。おかげで私は、そんな物が上から降りて来て、身動きできずに恐怖に怯える男を作れる訳である。エドガー・アラン・ポーがそう書いているので私には何の責任もない。 『黒猫』は、知人が飼っているので、それを撮らせてもらう予定である。送ってもらった画像には、牙を剥き出して威嚇する様子が実に良かったが、聞くとそれは以前の写真で、今は牙は折れて無いそうである。この作品は、アルコールで酩酊した男の被害妄想が引き起こすストーリーである。あげくに猫を虐待し、最後猫に復讐される。虐待シーンがあった方がオチが決まるわけだが、そんな物を制作したことが、入院していた猫が帰って来たばかりのK本の女将さんにバレたら出入り禁止を覚悟せねばならない。ポーに責任をなすり付けて、しかも吊るした首の縄も合成してそう見えるだけで、実際は何もしていません、といい訳しても、何かしら影響は出るだろう。そこまでして、したい表現など私には何もない。 そろそろ個展のことを考えても良さそうである。今回は外光をシャットアウトできる場所というのが条件であろう。何しろ主役がすべて恐怖に怯えた表情である。穏やかな外光に照らされていてはならない。そういえば前回の個展は、主役がすべて死んでいるところか死のうとしているところであった。それを思うと今回のほうがまだマシかもしれない。

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ジャズ、ブルースシーズ時代の作品を2体、納品するために、色の塗り直しをする。架空のジャズマンである。この当時は裸電球の真下で制作していた。バーやジャズクラブのスポット光が当たっているつもりで制作していた。彫の深い眉下に陰ができ、その奥に光る無表情な眼。仕事で撮影して貰う場合は、その点を強調してもらった。 ポーの場合は久しぶりに彫の深い陰影を生かした撮影が可能であろう。光の当たり具合による表情の変化を見ながら、たとえば『落とし穴と振り子』。上から左右に振れながら、徐々に降りて来る刃の付いた大きな振り子。恐怖の表情で脱出を試みるポー。ポーの陰鬱な表情は、まるで私の作品に出演するためであるかのようである。表情に出来る陰影を、角度を変えて塩梅することにより、恐怖の度合いを演出することができそうである。 そろそろ振り子のデザインを考えたい。実際は30センチ程度の物ということであるが、効果を考えると映画その他で誰しもそうしたように、もっと大きい方が良いだろう。人形サイズに対すれば20センチ弱といったところか。 いずれにしてもこんな楽しいことは慌てて決める必用はない。制作は友人に依頼するので適当にスケッチを送れば済むが、どうせなら数十年振りにコンパスを買って来てちゃんと設計しよう。彼のことであるから、焼きを入れ、刃を研ぎ出すところまでやるだろうが、未遂に終わるとはいえ、ポーを切り刻むための凶器である。私だって研ぎたい。砥石も用意しよう。ただ閉じこもり苦しいだけの頭部の制作が終わり、ようやく。

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エドガー・アラン・ポーからペンネームを拝借した江戸川乱歩には、出だしで読者を悪夢の世界に誘い込んでおきながら、その結末はどうなの?という作品があるが、世界初の推理小説であるといわれるポーの『モルグ街の殺人』にしても、最初に読んだ小学生の時、犯人はオランウータンかよ。と驚いたが。 先日ブログで触れた作品が『スフィンクス』である。男が窓から外を見ていると、遠くの山を胴体が象ほどもある異形の怪獣が降りて来る。ドクロの印まである。しかしそれは、窓辺の蜘蛛の巣にからまった目の前の蛾であった。という話である。実在するメンガタスズメという大型の蛾はドクロの模様を背負い、鳴き声まで発するようであるが、冒頭ちょっと普通の心持ちではない男という説明はあるものの、そうとう目のピントがおかしな男である。このイメージを、昔再読するまで、子供の頃見た夢だと思い込んでいたから、印象に残る作品には違いない。この作品などは読者が勝手に夢を見れば良いので、それを可視化するなど野暮な行為であり、手掛ければ火傷をする典型的な作品であろう。しかし検索していて、1カットだけ見つけ笑ってしまった。確かに仰るとおりである

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どういうわけかネットに繋がらず、ネットカフェより。 エドガー・アラン・ポーの頭部。完成といってから、水面下で紆余曲折、二転三転があった。いつものことなのでブログには恥ずかしくて詳細は書けない。 数日前、数週間前、これはどうみてもポーだろう、という状態にはなってはいた。その度に完成したと思っているのだが。しかし出来たはずの頭部をしばらく眺めていると、何故だかカサカサしたものを感じ始める。その理由を求めてさらにさまようことになるわけである。似ていれば良いというわけではなく、“私のエドガー・アラン・ポー”になっていないとならない。つまり私にはポーがこういう人に見える。ということが大事である。 作家シリーズを始めて大分経つが、ポーとなれば私としても心してかからなければならない。仕上げに入り、どうやらようやく結論に至った。数日眺めているがカサカサは起きない。おそらく写真で残されていないポーの横顔は、きっとこうだったろう。 すでにポケットに入れたポーを何人かには見せているが、もうハイキングにでも持って行けそうである。 日本の作家の場合、平板な顔の造形のせいで、撮影時に当てる光線はできるだけフラットに、と心がけていたが、彫の深いポーからは、ジャズ・ブルースシリーズ以来、色々な角度から光を当てて、様々な表情を引き出してみたい。例えば子供の頃誰でもやった、懐中電灯を下から当てる「お化けだぞー」。あんな極端な照明でもポーともなれば、やってみる価値は充分あるだろう。いや蝋燭でも持たせて間違いなくやるだろう。江戸川乱歩は大人になってもそんなことをやってる、写真だったか8ミリ映像だったかが残されている。

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ポーの子供時代の写真は在るのか無いのか、私は見たことがないが、その顔立ちからすると案外可愛らしかったのではないか。そんな気がしてきた。しかし陰鬱な表情のポートレイトと、これからピンチに遭わせようと考えるあまり、その辺のニュアンスが不足している。さらに手を加える。何しろ小さな物だから、修正しようとしてちょっとしたことで大ケガし、後悔することがしょっちゅうである。気になっている以上やらなければならない。 『アッシャー家の崩壊』。できればアッシャー家の外観は欲しいところだが、そこらにある洋館では物足りない。無い物は作るしかないのか。ブログでぼやいていたのはこの件だが、ようやく一カ所、アッシャー家に相応しい建造物を見つけた。イメージを頭の中から取り出すためには、どんな手でも使う訳で、どこを作り物にするか、実景にするか、その虚実の混ぜ方が肝心である。ラストの“崩壊”を描こうとすれば、作った方が良いわけだが。 『誰を作っているでしょうクイズ』。毎回正解の方の中から前後不覚状態の人に選んでもらうのだが、あいにく本日はそれほど酔っぱらっていない。これでは回らないルーレットのようなものである。週末は高速フル回転間違いないがまあいいだろう。選んでもらった。メールでご住所伺います。

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『黄金虫』を手掛けるかどうかは判らないが、ポーの作品にはどうしたって髑髏は要る。以前プラモデルで、夜中に塗装していたら、ノリ過ぎて醤油で煮染めたようになってしまったのを持っていた。下地に夜光塗料まで塗ってある。来客があると、親戚のオジさんが戦中満州で~とひとしきりビビらせたものだが、見えない所に置いてくれ、と怖がるのは100パーセント男で、目を輝かせてにじり寄り、触ろうとするのは女である。触られたらバレるので、女性客の場合は手の届かない場所に置く必用があった。随分長い間本棚の上にあったが、東北の地震で落ちて壊れた。再びネットで探して注文した。 そういえばその髑髏。捜査する刑事に見せるはめになったことがある。と書くと本物と思い込んだオッチョコチョイに通報され。と思われそうだが全く違う。 未だに未解決の一家殺人事件がある。被害者宅に人形特集の雑誌があり、そこに掲載されている作家を刑事が一人づつ訪ねている。ということであった。よほど捜査が難航しているのであろう。結局、私のところに来たところで手がかりがあるはずもなく、一度で終わるはずであった。しかし私が余計なことをいったばかりに。 夜光塗料を何か使いませんか、といわれ、それを塗った物をストロボを使って撮影すると光る。という話をした。聞くと犯人の遺留品に夜光塗料が付着していたということであった。そいつを念のため見てこい、と上司にいわれたらしい。見当違いを説明しても、野暮が背広を着ている連中には通じない。その刑事はハンサムで爽やかな好青年であったが、目だけは相手の眼底を覗き込むような業界人特有のもので、あの調子で部屋中を眺め回されたらかなわない。階段の踊り場までブツを持って行った。昼下がり、煮染めたような頭蓋骨を巡りコソコソする2人。途中エレベーターが上がって来る気配がしたので、とっさに刑事に髑髏をパスしたのはいうまでもない。

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本日久しぶりにスケッチブックを買う。何度か書いたことがあるが、私の場合うかつに画を描くと、構図その他、それで固定してしまい、何も変更できなくなることがある。ああだこうだしたいので、アイデイアスケッチなど一切やらないことにしている。しかしエドガー・アラン・ポーの場合、適当なロケ先があるわけではないし、ある程度背景を作り込むことになるだろう。壊すと中から腐敗した死体とともに黒猫が現れる壁など。となると、どこまで作らなければならないか、また作らないで済むか、あらかじめ考えておく必用がある。 午後田村写真へ久しぶりに行くと、ペッバール型レンズに溢れていた。湿板写真その他、古典技法のワークショップなど、新たな方向に向かっている様子である。私が古いレンズを集めていたころは安価であったレンズが、ebayなどで有り得ないような高額な物になっていて驚いた。印画法によっては、色に対する感色性が違うので、発明された当時に作られていたレンズが最適ということがあるようである。レンズはお国柄が出る。製造者の、私には世界がこう見える。というのが反映するのであろう。私はイギリス製レンズがどうしても好きになれない。専門的なことは良く判らないが、単純に良い目に合ったことがない。ただそれだけである。逆に1カットでも良い結果がでれば良いレンズ。ということになる。しかしそれも被写体による。昨年、拙著『貝の穴に河童の居る事』を制作するにあたり、梅雨時のじめじめした房総が舞台なのに、背景の撮影中、晴天続きであった。それが日が落ちる頃、評判の悪い陰鬱に写るレンズで撮影することにより助けられた。そう考えるとエドガー・アラン・ポーは、母を撮ったら本人にとても見せられないような写りをしたレンズを使うべきで、美しく爽やかに写るレンズは必要ない。

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私がポーに触れたのは、子供向けの小説だったかヴィンセント・プライス主演の『恐怖の振り子』どちらが先かは判らない。テレビドラマの『恐怖のミイラ』はもちろんのこと、怪奇だ恐怖だ博士だ怪人だ◯◯男、等々の単語に過敏に反応する子供であったから、怪奇派の俳優ヴィンセント・プライスやボリス・カーロフ、クリストファー・リー、ロン・チャニーなど大好物であった。同級生の女の子に「フランケンシュタイン描いて」と頼まれれば即座に対応したものである。『恐怖の振り子』の原作は『落とし穴と振り子』である。異端審問にかけられた男が、身動きできないように縛られている。その男の上に刃が付いた大きな振り子が、少しづつ下がって来る。この作品に『危機一髪』という訳書があるくらいで、残念ながら?寸前に難を逃れるわけだが、ポーがそんな場面を書いたおかげで、大きなマサカリのような振り子が大きく左右に振られ、徐々に降りてきて、縛られ恐怖に怯える男。そんな場面を作れるわけである。お礼に恐怖に怯える男をポーにやっていただこう。 5時から古石場文化センターの音楽スタジオ。本日もベースのYさん直前に欠席の知らせ。私は自分のしたいことをするために、まず2人のやりたいことに協力する体で進めるが、2人はヘビメタ好きなのに腕がない、ギター弾きながら歌えない、などの理由で進展しない。だったらこれを、とようやくブルース進行を覚えたSさんに、ジャズっぽいコードを覚えてもらう。生カラオケになってくれれば私はそれで良い。 飲み物を買いに行こうとスタジオの外に出て、分厚いドアを閉めた途端、『スモーク・オン・ザ・ウォーター』のイントロを弾くSさん。私がいる所ではやれなかったのであろう。かつて楽器屋ではみんなあれをやっていた。「物凄く恥ずかしいとこ見ちゃったよ」。高価なギターを何本も持っているのに、安普請の社員寮で、長年一人で音も出さずにいたSさん。「あの音が出るか一度やってみたかったんですよー」。

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『今作っているのは誰でしょうクイズ』。正解はエドガー・アラン・ポー。これで奥歯に物が挟まったように書く必用はなくなった。別に内緒にする必用はなかったが、どう考えても難物ではあるし、ホントにやるの?と怖々始めたものだから、こんなことになった。今の所有名な『落とし穴と振り子』『黒猫』『赤き死の仮面』『アッシャー家の崩壊』『大鴉』『モルグ街の殺人』あたりから、と考えているが、1800年代の外国が舞台なので、果たしてどこまでやれるかは判らない。 ポーは1849年にボルチモアで亡くなったが、亡くなる数日前、泥酔状態で見つかった。この間の行動は謎で、最後の5日間が映画になったくらいで諸説あるようだが、選挙の投票にからんで、酒を飲まされ着替えさせられ、身元確認など適当なまま、何度も投票をさせられたあげくに、というのが真相のようである。実に荒っぽい時代である。候補者の当落は、どれだけ二重投票者を集められるかにかかっており、百数十人の人間が一カ所に缶詰状態で、麻薬や酒を飲まされ何度も投票することが公然と行われていた。投票所自体が酒場だったそうだが、ポーは泥酔したまま、打ち捨てられたように肘掛け椅子に座っていたという。破れてサイズが合わない服を着ていたというが、そういわれているが誰も見たことがない。ロバート・ジョンソンが十字路で取引するため悪魔を待っている。等、こういう場面こそ作り甲斐があるだろう。せっかく似たような状態の人を毎週のように観察しているし。

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例によって完成したといいながら若干迷走をした頭部も、もういいだろう。といえるまでになった。 切迫感を演出するため、残された写真に記録されていない、血管を加えようか、迷っている。これは黒人シリーズ時代に多用したが、ニコリともしない男達に緊張感をもたらす。いってしまえば怒った場合の、赤塚不二夫のこめかみのドイツ軍のマークみたいな物と一緒である。あれも浮き出た血管を簡略化したものであろう。こめかみには重要な神経が集まっているのだろうか。下町の女将さんが膏薬を貼れば、ただちに子だくさんの生活苦が想像されるし、自殺した80メートルハードルの依田郁子が塗ったサロメチールも、スタートの緊張感を増したものである。 ただ着衣ならともかく、肝心の顔に記録されていない物を加えるというのは決心がいる。かといって取り外し自由というほど大げさにするつもりはない。表情の違う、血管付きバージョンを作るのが良さそうである。 以前も書いたが、この人物。血管が浮き出て当然なほど酷い目に合う。目も充血させることになるだろう。数作品で鎖につながれる可能性もある。書いてる方は人ごととしてペンを走らせていただろうが、私にかかると当事者になってしまう。これが作品に比して、とてもこんな作品を書くように見えない人物では画にならない。もっとも江戸川乱歩の場合は、どんな場面でもひょうひょうと登場させて可笑し味を出してみたのであったが。 

『今作っているのは誰でしょうクイズ』。本日は少々ヒントを出し過ぎ、すでに間違った答えをいただいた方々には申し訳なかった。トップページのメールから件名クイズでお答え下さい。正解者七名の方にポストカードサイズのプリントをお送りします。抽選の結果、改めて送付先を伺います。土曜の夜12時まで。

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昔の写真の補修を頼まれた。実物を見ると思ったより小さく、しかも数人で撮影した写真の一部のようで、特に一枚はあまりに小さく、拡大すると白い着物で、着物の部分は白く飛んでしまって、デイテールは何もなく、つまり情報が何もない。ゴミを一つづつ潰して綺麗にするぐらいしかないだろう。もう一枚は顔が1センチに少し欠けるぐらいのサイズがあり、これはどんな表情をしているか判る。これも数人で撮影した記念写真の一部で周囲の人物はやはり切り取られているので、消えてもらった方が良いだろう。前述の一枚は戦時中のためか痩せて見えるが、こちらの写真だけみると、懇意にしている、江戸っ子で、油断すると早く着き過ぎてしまう運送屋の御主人にそっくりで可笑しい。室内の板壁を斑バックのようにして、床のラインをうっすら加えた。身体が若干かしいでいるように見えるのは画面の中心から外れた最前の右端に座っているので、レンズの収差のせいで、いくらか引っぱられたようになっているせいであろう。後ろの窓枠が歪んでいるので判った。足許のさらに中心から遠い部分になると、やはり収差のせいでスモークを焚いたようにぼやけている。 過去の人物像を作るために昔の写真を凝視する毎日だが、百年以上前のレンズで撮影した経験のおかげで、写真家が加えた修正以前の、像の形まで変えてしまうレンズの収差、癖というものを知ったのが役に立っている。レンズによっては彫刻刀で加工したかのように、シワの彫りまで深くしてしまい、けっして女性に向けてはならないレンズすらあった。

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制作中の人物は作り始める前、太い眉、という印象があった。しかしそれは作るとなると簡単な話ではない。 小学校時代、同級生の家に戦前の漫画『のらくろ』があった。お父さんが防空壕に隠して守ったそうだが、そのお父さん曰く「白人は眉毛の所が出っ張ってるだろ?連中は猿に近いんだ」。モノクロ写真であると、眉毛とその彫の深さによる陰で、境が判然としないことがある。ややこしくしているのは、比較的鮮明で、1カット眉の薄い写真があることである。評伝の中にも目撃証言に、“薄い眉”というのがあった。そう考えてみると、制作当初から疑っていたのであるが、この人物、撮影時に化粧をしていた可能性がある。眉も描いているのではないか。それは有り得るであろう。世界中に流布する、写真の古典技法の左右逆像を鵜呑みにした肖像は、少なくとも、その人物には見える。しかし、ここで私がようやく見つけた1枚の眉の薄い写真と、当時の証言により、どいつもこいつもシビアさが足りない、と眉の薄い像にしたらどだろうか。何しろ写真によっては、ゲジゲジ眉毛の人物。といっても良いくらいなのである。これは私が写真師の修正を見破った、漱石のワシ鼻とは話が違う。 写真という物は、本人がこう撮られたい、という願望が写っているものである。漱石のワシ鼻の修正は、写真師の独断のはずはない。つまり漱石は、鼻筋のまっすぐの人に見られたい人。と私は思う。本当のところは判らないが、仮に眉を描いていたとしも、本人はそう見られたかったことは間違いがない。 『今作っているのは誰でしょうクイズ』は正解者が7名を超えた。よって足許もおぼつかない、前後不覚状態の人物に抽選をお願いすることになる。今週の土曜日が終わるまで、御応募をお待ちしています。トップページのメールから件名をクイズにてお送り下さい。

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ジャズ・ブルースシリーズ時代の作品を久しぶりに出してきた。このシリーズの最後となった96年の個展では、始めて写真を出品するにあたり、実在したミュージシャンを中心に作って撮影したが、それまでは主に架空の人物で、実在した人物は数えるほどしか作ったことがなかった。もともと何かを参考に作るということが得意でないこともあったが、人間をデッサンしたり、観察してしまうと、その情報が入ってきてしまい、入ったらもう出て行かないだろうと思っていた。自分のイメージが実際のことと違っていたとしても、誤解するには何か理由があるに違いない。たとえば人間の鼻はこうだ、と実際と違って思い込んでいても、それが訂正されてしまうと個性がなくなってしまう。と、かたくなに思っていた。独学者の思い込みであった。よって今の私には同じようには作れない。 探し物があったので、ごそごそしていたら、作りかけの首が出て来た。じっと見てもいったい誰を作ろうとしたのか判らない。そんな物をとっておいてもしかたがない。人心地ついたのでK本へ。10代からの知り合いであると、恥ずかしいところを見せ合っているし、今更かっこをつける必用もない、というところが良いわけであるが、常連席でこれだけ同じような人達と顔を合わせていると、女将さんがグラスから注いでくれる表面張力で盛り上がった、精一杯の亀甲宮のせいもあって、ついよけいな部分を披露することになってしまい、ここまで持ってくるのは結構大変だろう、という知り合いとなっている。よって連休明けに顔を出す時などは、夏休み明けに小学校に登校するような心持ちである。しかも最近は二次会に流れることも多い。本日もT千穂へ。そこでああだこうだいっていて、作りかけの首がストラビンスキーだったことを思い出した。

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最新作が一番良く見えるというのは単に自分が見慣れていないせいで、慣れてしまえば結局ただ過去の作品であろう。ということで、とりあえずしばらくの間は私も気分が良い。 この作家は、久しぶりにオイルプリント化を前提に考えている。特にその妖しい作風は、黒インクによるプリントが合う。田村写真の田村さんに、私が選んで使っていた画用紙に、ゼラチンを塗布したゼラチン紙の制作をすでにお願いした。オイルプリントは使用する用紙の選択は自由である。 最近手掛ける人が増えているオルタナティブプロセスと称される写真の古典技法であるが、数ある技法の中でも、私はオイルプリント以外にまったく興味がない。外側にレンズを向けずに、額にレンズを当てシャッターを切る念写が理想である。といっているのは本気なのであって、それが叶わないので、頭の中のイメージを粘土その他を使って可視化して撮影している。それに拍車をかけ、ウソもホントも私には知ったことではない、という状態になるためのオイルプリントである。他の技法ではそうはいかない。 91年当時。私は写真をやるつもりなどまったくないのに、ただこの廃れていた技法が知りたいという理由だけで、人形制作を放ったらかしにして打ち込んだ。何故こんなことをやっているのだ、とハラハラしているのに止められない。よってなんとか画が出てきた時点で止めたのだが。その後、自分で作ったジャズシリーズを自分で撮影し、個展をひらくことになるという想定外の展開になり、そういうことであれば、と2000年前後にオイルプリントによる個展を連発した。私のホームページはそもそもオイルプリントの紹介が開設の主な目的であった。しばらくはピクトリアリスト、とトップページに掲げていたが、意味が通じないだろうと数年後に止めた。そう思うとデジタル化の反作用であろう。現在の一部の古典技法の流行には隔世の感がある。かえり見ると、この技法を私が選んだというより、私が選ばれたというのが適切であろう。

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今年に入って作るといいながら、ようやく制作開始した某海外作家。肝心の頭部が、ほぼ完成。昨晩ああはいったが、目が覚めて改めて見たらまだ駄目だった。なんてことはよくあることである。“ラブレターは一晩明けてから投函せよ”というのは、昔自ら学んだ教訓である。しかし目が覚め、改めて見てもおおよそ完成していてホッとする。『誰を作っているでしょうクイズ』はフェイスブックからの応募もいただいている。簡単かと思ったら案外外れている方も。それでも一度は制作を考えた人、もしくはいずれ作る可能性がある人ばかりであった。ひき続きHPのトップページのメールその他からご応募お待ちします。本日評伝により瞳が灰色だったことを知る。これがあるから写真資料だけでは不足の場合がある。

2、3日前からだろうか。風邪をひいたらしく本日は鼻水が止まらない。Tシャツ一枚で制作しながら、夜中になんか肌寒いな。上着着たほうがいいな、と思いながら作業の手を止められず風邪をひいた。たまにこれをやってしまう。私は小学校の低学年までは落ち着きがないといわれたものである。よって、子供が落ち着かないと嘆く親には、心配することはない。といっている。風邪をひきそうだ、と思いながらも微動だにしない私。人はいくらでも変れる。という話でいいのか?

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