明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


寒山拾得が不気味な笑いといって、いきなり気持ちが悪いのは狩野山雪の作だろう。中国の顔輝作を写すことなく、独自の味を出そう、というところは私もそう思ったから良く判る。この山雪、絵師の記録を残していて、おかげで、初代曽我蛇足こと墨渓、その子宗丈の記録が残った。山雪も蛇足軒という号を名乗ったというからややこしい。 今まで軽く100以上の寒山拾得を見たが、良くも悪くもそれらとは違う表情は作れたろう。周りがリアルな分、民芸品のお面のような感じを入れてみた。 今回のモチーフは、ほとんどが架空の人物で、25年ぶりくらいに個展をすることになったが、それは極初期のジャズ、ブルースシリーズ時代を知っている人しか知らないし、写真に興味がなかったから初期の作品は写真がほとんど残っていない。いずれにせよ原点に戻ったことになる。



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窓から降り注ぐ陽光の中、拾得を作り始める。どんな物質が溢れ出しているのかは知らないが、なんともいえない幸福感に満たされる私。これだから子供が口を開けたまま西の空でも眺めていたら、ロクなことは考えていないのだから、手遅れになる前にコーナーでグロッキーのボクサーにやるように、アンモニアでも嗅がせるべきであろう。しかし物は考えようであって、実にささやか、かつ安上がりな幸福ではないか。  寒山と拾得は、 精霊または半分妖怪のような存在ではないか。昔から一卵性双生児のように描かれるが、キャラクターが違うし、兄弟のようだが、一卵性程は似ていないことにし鼻だけ共通にしてみた。それは知り合いの、鼻筋がない団子っ鼻を採用した。ところが二人の違いを出そうと寒山の額に、2本の深いシワを加えた。そうしたらその鼻の持ち主、私が2年前まで住んでいた辺りの人達は「あの酔っ払いじゃねぇか。」と誰しもいうであろう人物の横顔に似てしまった。



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寒山と拾得、それぞれ一つの頭部を使って数パターンのポーズを作る予定。そう考えると髪を貼り付けると邪魔になりそうである。髪を貼り付けるなど河童を作って以来である。髪がないまま、まずは一体づつ作るべきか、となるとまず作るのは、巻物を持ち月を指指す寒山、箒と塵取りの拾得、真ん中に豊干禅師。合わせて『三聖図』としたい。 それぞれ私なりのオリジナルの寒山と拾得を作るべきだが、そもそもが絵画の古典的モチーフを人形を作って写真作品にする、という奇手を用いるので、それで充分。オーバーワークは慎み、企みが目立たぬよう、そっと末席に座りたい。先達に対する敬意は当然のことだが、防腐処理として歴史、伝統味は大事だろう。新しい物は翌日から古び始めるのを散々見てきた。 という訳で、明日から先ずは拾得の制作を開始したい。

 



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機会があったら専門家に聞いてみたいが、私の想像では臨済義玄の同時代の肖像画は存在していないだろう。そして後世の人々が想像で描いた。穏やかな表情の線描画が中国にはある。そうこうしてある僧侶が、画僧だか絵師に、激しい表情の義玄像を提案注文し、それが日本に渡り、曽我派の初代蛇足こと墨渓が描き、その子である宗丈も、そこに陰影を加えて描いた。 義玄像の変わった髪形、ハゲ方は、どう考えても由来の元があるとしか思えないが、その元となった中国作品は、中国の検索エンジンでも墨渓と宗丈作品しか出てこない。本国には無いのかもしれない。 いずれにせよ詳細は不明な時代の話である。そして子供の頃読んだ『一休禅師』に載っていた禅師像が本人と面識のある墨渓作の宗純像だった、という縁である。代々蛇足を名乗る人物がいて、その一人に師事した長谷川等伯も義玄像を写しているが、本当に等伯か、と思うほど出来が良くない。

墨渓と宗丈の義玄



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先日、インスタで臨済義玄が臨済宗開祖にも関わらず、投稿が100未満というのを知り驚いた。このままでは私の臨済義玄だらけになってしまう、投稿を控えようと思った。 しかし考えてみると、臨済宗に先達の肖像を残す、という習慣が生まれたのは開祖以降、ずっと後世のことである。余りにも見つからないので以前、中国の検索エンジン百度で検索したら目新しい物は出て来ず、中国作品を元にしたはずの曽我蛇足の作も出てきた。検索の仕方が悪いんだろう、とその時は思ったのだが、無い物は投稿のしようがない。 無い物は撮れない写真の欠点をカバーするために考えられたのが石塚式念写術である?例え世の中に存在せずとも、ひとたび私の頭の中に浮かびさえすれば撮れる。多少手が粘土で汚れるが。インスタを私の臨済義玄だらけにするのもオツかもしれない。

 



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オリンピックを見ていて散々頑張って来た女の子がそれでも負けたことで悔しいという。いたたまれない気がしてしまうが。好きでやっているのだからかまわない。私はこう見えて負けず嫌いである。親戚の子供にオセロを挑まれても対戦を拒否するくらいである。それに勝者をハグして讃える、度量の広さが私にあるのか、というと怪しい。結局、対戦相手は自分自身のみ、ということになった。ある種の独り相撲といえなくもない。おかげで側から見ると負けるくらいなら、と子供の挑戦から逃げるような人間には見えないという寸法である。 制作において失敗した場合、悔しくて我慢が出来ない。そこで失敗して良かった、と思えるまで絶対に止めない。その執念深さは、マムシに蛸足の如しである。しかし結果として少しずつ階段を登っていることとなる。という訳で、本日、新たな手法が一つ浮かんだ。



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肝心なことは忘れるのにどうでも良いことばかり覚えている、そしてその記憶が制作の役に立っている、それは正確にいうと、考えたことは忘れるが感じたことは覚えている、なのだと思った。先日書いた寒山と拾得の表情、特に目は、20年以上前に、電車から向こうのホームに並んだ人の間に一瞬見えた人物をモデルにした。 小学4年で専科の図工の先生に出会うまでは、私の絵は子供の絵じゃない、といわれ続けた。他の連中のように、筋肉のないカカシのような人物を描かなかったし、目に星も、太陽から放射線状の線も描かないのが不満なのだろう。授業で交通安全の絵を描いた。それは全員コンクールに出品されるのだが、担任は私の絵だけ出すのを忘れた、といった。私にはそれが意図的なものだと判った。将来の世の中との違和感、さらには独学者として生きることも予告した記憶となっている。高学年になり、図工の先生の推薦で私の版画が国語の教科書に載るかもしれない、といわれたが審査で落ちた。またしても〝子供の絵じゃない”であった。私は子供の絵のようなタッチで描かれた大人の絵が大嫌いである。



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臨済義玄、着彩を残し完成。インスタに制作中の画像をアップしていたが、完成するまでは止めることにした。臨済宗開祖だというのに投稿がなんと100件未満で、このままでは私の投稿ばかりになってしまいそうである。本場中国はともかく、日本では開祖より日本に広めた栄西ということなのだろう。蛇足の義玄像が現代の臨済宗の坊様に、どのくらい認知されているかは不明である。私はあの憤怒の表情を作ってみたかっただけだが。        これで着彩済み、もしくは着彩を残すのみは、一休宗純×2、達磨大師、慧可禅師、布袋尊、臨済義玄となった。他の連中も、寒山と拾得を残し、仕上げを残すのみである。だったら寒山と拾得の二人に髪を貼り付け、ダメだったら髪も粘土にするとかグズグズしていないで、という話ではある。



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昨日、決勝戦に進んだカーリングチームが、失点が多かった分強くなれた、というようなことをいっていたが、まさにそうだろう。私の場合は独学、我流の大変さを散々味わった。何か変だが、どこがどうへんなんだか判らず固まるしかない、挙句に40年間で、やったことのない失敗はないだろう。そしてついに策がないからといって慌てもせず、水槽の金魚を眺めていよう、という境地にまで至った。それはとどのつまり〝考えるな感じろ”ということであり、寒山拾得が示していることもそれである、と思い至った。そして先日、ブルース・リーのセリフ〝考えるな感じろ”の後に、それは月を指差すようなものだ〜と続くことを知り、月を指差すのは寒山の定番のモチーフであった、というオチがついたばかりである。結局、作ることでしか打開も解決もない、と改めて。

 



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禅宗の中でも臨済宗に先達の肖像を残す、という伝統があったことを知らず、中国由来で曽我蛇足作の臨済義玄の激しい表情の肖像画を知り、これも臨済宗か縁があるな、と勘違いして作ってしまった。それも失礼なことに、寒山拾得展の端の方に置いて、なんて考えていたが、日々歴史、事情を知るにつけ、座禅一つしたことのない私は慌てて敬意を表し、義玄を納める厨子を用意した。 最初の石塚式ピクトリアリズム作品である三遊亭圓朝図は、アプローチが違うと顔まで違う。パロディとして、鏑木清方の圓朝図と構図だけ一緒にしてみたが、肖像画の名作として有名な清方の圓朝像と違い、蛇足の義玄像では臨済宗の坊様くらいしか面白くないかもしれない。 そこでもう一つ、薔薇刑の三島由紀夫のように、ド真正面を向いたカットも撮ることにした。この義玄の正面は誰も知らない。薔薇刑では、いくらでも瞬きしないでいられる特技を発揮した三島だが、私の義玄もいくらでも表情一つ変えずにいられる。



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箒に続いて拾得のチリトリ完成。以前だったらムラに着彩し、リアルにするのだが、陰影のない石塚式ピクトリアリズムでは、あまり効き目がない。特に顔などは、よりリアルに、なんて重ね塗りしてあると見た目はリアルでも、撮影してみると、ただ汚れているように見え、一色のベタ塗りに塗り直すことになる。何故そうなのかは判らないが、そういえば日本画でも、形として着衣がビリビリであったとしても汚し表現は少ないように思える。 陰影や着彩による工夫が発揮できないということは、より私の原点である人形の造形が成否を分けることになる。有名な写真に帰れという言葉ではないが、ここに来て人形に帰れ、といわれているようで。これもまた妙な気がしている。 これで寒山と拾得の髪に取り掛かるべきだが、その気になれず、90パーセントは出来ている臨済義玄の仕上げに入った。



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拾得の持つ箒完成、焼き鳥のように絵の具を塗っては乾かした。後は髪だが、何した訳でなく、触らないよう置いてあるはずの人形用ヘアーは既にモシャモシャ絡み合っている。  昔から私の部屋には悪さするボーイスカウト出身の小人が常駐している。 箒が出来ると、チリトリが欲しくなる。先に作ることにした。落ち葉などの塵は本物を撮影したい。 最初の個展は40年前、架空のジャズ、ブルースマンだったが、作っているうちに、だんだんリアルになってくる。いい加減に作っていた楽器も、それに合わせてリアルにせざるを得ない。他人が作った物を、ただ写して作るなんて、こんな苦痛はない。作家シリーズに転向した理由の一つである。 好きなことのために苦手なことをしなければならないのはしかたがないことだが、もう一回試して上手く行かなければ、寒山と拾得の髪は、他の連中同様粘土にしよう。 特に今回はいずれ中国の山深い風景など粘土、石膏で作らなければならない。まさに高いハードルである。だがしかし陰影のない石塚式ビクトリアリズムでは、何もない無地の背景に配することが可能である。例えば竹竿にしゃれこうべを掲げ、こちらを見ている一休和尚や布袋尊、臨済義玄の背景は全くの無地の予定である。 たんかんという鹿児島の蜜柑をいただく。今まで食べた蜜柑で一番美味しい。



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2年前の引っ越し以来様々変わった。断捨離に成功し、本は六分の一だろうか。以後、制作に関わらない物は一切読まない。 子供の頃、子供向けではあるがアマゾンその他、世界の紀行文、冒険譚を読んだものだが、あれ以上の世界が実際あるとは思えない。だからという訳ではないが、町内からあまり出ない。粘土数ミリで形勢が変わってしまう。今日出掛けていたら大変なことになっていた、とつい思ってしまう。 人形は人形から写真は写真から学ぶべきではないと考えて来たが、現在、興味を持って眺めるのは、中国、日本の古典絵画である。それも重要なのはマチエールではなくエスプリで画集や図録で充分である。 寺山修司は〝どんな鳥だって想像力より高くは飛べないだろう”  といった。人間も草木同様自然物と思って来たが、以来、自然界の最高位にあるのは人間の想像力だ、と思うようになった。  本日、長々と私の出不精、怠惰の言い訳を考えてみた。



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完成したが、綺麗過ぎるので、着彩時少し古びさせたい。ぶきっちょな私も、棒に枝を巻き付けタコ糸で縛っただけなので、さすがにどうということもない。これで毛髪さえ貼り付ければ、寒山と拾得は完成に向かうことになる。首以外の身体は作るのは早い。被写体制作と撮影の二刀流名にはスピードも必要である。ただでさえ時間がかかるのに、いつまで経っても完成に至らないだろう。 これで制作しないとならない小物は寒山の持つ巻物(本物を使う可能性も)『慧可断臂図』の慧可が達磨大師に弟子入りを志願し、覚悟を示すため己の左腕を肘の辺りで切断する、そのための剣が要る。後は鉄拐仙人が口から吐き出す小さな分身くらいだろうか。身近な小物で作るとなるとそんなところだろう。



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雅号  


昨晩、拾得の頭に人形用ヘアーを貼り付けるが失敗。元々私は糸だ紐だ、電気コードだ、と気が付くと絡み合っている。こんなことをしているからといって、器用だと思ったら大間違いである。粘土で作っている部分以外は目も当てられない非合理な作り方をしている場合が多い。拾得の頭が悲惨なことになりいったん中止。 気を取り直し拾得が持っている箒。ネットで竹箒の作り方を見る。    手漉き和紙のプリントに印を押したくて以前試みたが、使用する手漉き和紙が表面処理の関係で朱肉が乗らず諦めていたが、今回のモチーフこそ押したい。どうせデジタルデータならば、プリントサイズに応じてデータ印を押すことにしようと考えた。それならば雅号が欲しい。40年前の初個展の時に作家名を考えようと思ったのだが、地元の友人、先輩が来ることを思うといたたまれず断念したのだったが、この際何とかしたい。かといって自分で付けるとなるとスカしてしまいそうで具合が悪い。そこでこの方ならば、という方にお願いすることにした。

 



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