明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



深川江戸資料館『深川の人形作家 石塚公昭の世界』における関連イベント一部『江戸川乱歩夜の夢こそまこと』二部が泉鏡花作『貝の穴に河童の居る事』語り竹本越孝 三味線鶴澤寛也を久しぶりに観た。私にとって鏡花は毒の効く速さは一番なのだが、現代人にとって読みやすいとはいえない。私も制作中、河童に驚いた漁師はどっち方向に逃げた、なんて事でも迷った。しかし耳と目で判り安かったと思う。   最初に考えたのは、この鏡花作品でも異色の作品に合うのは和楽器でも琵琶か三味線だろう。朗読に関しては、たとえば老若男女を演じ分けるとなると、歌舞伎と宝塚比べても男性だろう。無声映画の弁士でも女性は中年男性、老人が今一つ。何故か女流漫画でもそう思う。しかし老若男女に加えて河童でも演じ分られる竹本越孝さんがおられた。寛也さんの演奏は、時に叩いたり擦ったり場面に合わせ時にトリッキー見事に工夫をされていた。難をいえばリハーサルの時間がほとんどなく、スライドを操作する私のタイミングが悪かったのが悔やまれる。いつかリベンジを、と思っていながら、その機会が失われたのは残念である。

『貝の穴に河童の居る事』2016年5月  深川江戸資料館小ホール

前後半

https://youtu.be/rLuCrUYEkUc

https://youtu.be/Ijz0344rmBY

 



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私が余計なことを言ったせいの『タウン誌深川』の鏡花特集。編集長が締切寸前まで大変だったようだが、そのかいあって、鏡花ファンが深川を訪れる際のガイドブックに最適な物となっている。私が余計な事を言ったのも、昨日書いたように、〝幻想小説家〟の鏡花を、全くの書斎派で、空想で書いていた、と勝手に思い込んでいて、勝浦の神社に行ったら、まったくそのままで、現場で読んでいたら、取材中の鏡花が、石段を上がって来て私とすれ違いそうな気分を味わった。また本誌にも書いたが、『葛飾砂子』を読んでいたら、作中の乗り合い舟が、こちらに向かって来る。実際舟が通る訳でもないのに、本を持ったまま作中〝土左衛門塚〟などと言って出てくる平久橋のたもとの波除碑を見に行った。これらの経験から、現在訪れる人の参考になるような特集号が出来やしないか、と提案だけなら誰でも出来る訳で、鏡花作品の現在を取材は大変であったろう。またこんな特集といえば〝ご存知〟東雅夫さんの『妖しき水辺の誘惑ー鏡花と深川めぐって』。という訳で、深川在住の方は勿論、これから深川を訪れる鏡花ファンにはお薦めの一冊となっている。
『タウン誌深川』A5サイズ/64頁定価300円+税 問(株)クリオプロジェクト03ー3641ー0071

新HP


 旧HP


 アートコレクターズ(生活の友社)引用の美学 存在しないものを撮る 石塚公昭


『石塚公昭 幻想写真展 生き続ける作家た18年7/25~9/2 リコーイメージングスクエア銀座ギャラリーA.W.Pyoutubeこ2016年『深川の人形作家 石塚公昭の世界』 youtube  


『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載13回『月に兎 泉鏡花




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13時半に神楽坂の毘沙門前にて坂崎重盛さんのお招きにて鶴澤寛也さん親子と竹本越孝さんと待ち合わせ『うを徳』へ。 四谷シモンさんに久しぶりにお会いする。泉鏡花も訪れた店での朗読劇である。構成演出桑原茂夫/出演劇団唐組、久保井研、稲荷卓央、藤井由紀。チェロ、義太夫三味線、鼓の伴奏。不思議な組み合わせであるが、座敷自体の響きが良く、鏡花作品を堪能した。高野聖は私にとって初めての鏡花体験で、TVで観た高野聖を原作とした『白夜の妖女』(日活)である。月丘夢路が妖女で若い僧が葉山良二。子供の私は怪談映画のつもりで観たと思う。 鏡花は潔癖性で自分は嫌いなくせに蛇や蝦蟇やヒルに僧を襲わせて喜んでいるいる。私が手がけた『貝の穴に河童の居る事』の河童の三郎もべたべたして生臭いと書いている。 ゴールデンウイークには深川江戸資料館でこの作品の朗読ライブを上演する。越孝さんの朗読に、寛也さんの三味線に私の作品をスライドで上映。朗読であるから義太夫節とはいかないが、そこここに独特の味がでるに違いない。明日は第一部で乱歩作品でピアノを弾いていただく嶋津健一さんと朗読の田中完さんと全員が顔を合わせての打ち合わせである。 帰りの車中坂崎さんにいただいたた新刊「東京煮込み横町評判記」(中公文庫)を読む。坂崎さんと吉田類氏と二人で煮込みベスト10を選んでいて、吉田類氏のベスト5に無事『河本』ランクイン。そこへ母からメール。「琴奨菊優勝」よけいなこと教えるんじゃない!

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来年の個展の関連イベントとしての朗読会は、第一部は江戸川乱歩作品。嶋津健一さんのピアノに田中完さんの朗読。評判も良かったので、一度だけというのは惜しいと思っていた。来年5月ようやく。一方の第2部。昨日電車内で思い付いた方から快諾いただいた。 女流義太夫の太夫、竹本越孝さんである。私がこだわっていたのは河童から若い娘、中年夫婦など演じ分けられる人である。個人的には宝塚、弁士、噺家、少女漫画まで、中年男にすべて違和感があり、歌舞伎を見るまでもなく、お願いするなら男性という頭でいた。 泉鏡花の怪異譚。後ろで鳴るのは和楽器。琵琶か三味線だろう。三味線なら河童がでてくるし?太棹が良い。となると拙著『乱歩 夜の夢こそまこと』の『人間椅子』で作家の佳子を演じていただいた鶴澤寛也さんだ、というわけで、すでにお願いしていた。多少引っ掛かっていたとするならば、現代人の朗読に義太夫三味線が上手くブレンドするか、ということであった。ところが昨日地下鉄の車中突然ひらめいた。森の石松、三十石船「お客人。肝腎なのを忘れていたよ」の心境である。あちらはオチがあったが。寛也師匠が頭にありながらうかつであった。男を演じて大迫力の越孝さんである。ずっと以前から越孝ファンであるTさんに報告すると「越孝さんの男は最高ですね。業の彫りが深くて。」と、いうことが違う。 この閃きは、作中の河童の三郎に対する灯ともしの翁を柳田国男にやってもらおう、と思い付いて以来である。あの時は思い付いた瞬間立ち上がり、そのまま河本に直行した。今回は電車を降りてから直行した。 ちなみに3日からの神奈川近代文学館の柳田国男生誕140年展の書籍コーナーには『貝の穴に河童の居る事』(風涛社)が置かれる予定である。河童の三郎と柳田の共演や、バイ菌恐怖症で蠅を恐れた鏡花のためにサービスで三郎に蠅をとまらせてあるところなど見ていただければ幸いである。

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千葉県某所に撮影に向かう。刺青師、彫◯◯さんの仕事場にて撮影である。私の被写体はほとんどが知人友人なので撮影時に初顔合わせ、ということがないが、今回は始めて会う人である。呉服関係の仕事をしているとしか聞いていない。挨拶もそこそこにまずは施術台の上で、外光を入れて。刺青師の仕事場という雰囲気があればそれはそれだな、と思っていたが、以前お邪魔した時と部屋のレイアウトが変わっていたので、光の加減だけを考えて始める。いつもと違うのは“絵柄”が生きるようにしないとならない。 次に居間で。光の調子が変わり刺青の色彩も変わる。 元々彫◯◯さんを撮るはずだったが、自分に入っている墨が未完成で、プロとして、この状態で残したくない。という。よって今回は断念することになった。その時は飼っている蛇といっしょに撮りたい。休憩中、二匹居るうちの1匹を見せてもらう。ボールパイソンというらしいが、被写体の彼女も何匹も飼っているらしく、二人して「可愛い」を連発。盛り上がっていた。相変わらず女性の「可愛い」は「美味しそう」に似ている。今回始めて蛇を人差し指の先で触ったが、イメージと違って妙に柔らかい感触。 さらに撮影。10年以上かかっている、という彼女の刺青も完成しているわけでなく、まだまだ続くようである。

オイルプリント制作法

インキング映像

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フェイスブックの『Alternative photographic processes』に昨日に続き投稿した作品。こういったものは海外の方が良いのか、80人以上がイイネと。撮影したのは20年程前であろうか。8×10インチのカメラで撮影した作品である。オイルプリントが廃れた原因は感度が低く作品大のネガが必用で、後に引き延ばしたプリントにオイルと同様のインキングをするブロムオイルに取って変わられた。私は当初35ミリフィルムで始め、次にブローニーサイズ。しかしどうにも小さい。知人から借りた4×5インチのネガで試した後、タチハラの工場まで8×10インチのカメラを買いにいった。しかしこの欠点も、製版用フィルムに出力することで拡大ネガが容易に得られるようになり、現在はインクジェットによるネガ制作が可能である。 私がオイルプリントに魅かれた理由は、私が写真に興味がないド素人であったことが大きい。つまりこのぐらい特徴的な画調でないと、写真であるかぎり興味を持つことはなかったであろう。 今回外国人を魅了したらしいこのジャパニーズ・ビューテイーは、気圧の変化により機嫌が上下した。

オイルプリント制作法

インキング映像↓

http://youtu.be/kZozcEqgKsE 

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この作品は世界初の推理小説であるが、私が最初に読んだのは、おそらく子供向けの本だったろう。犯人がオランウータンというのにびっくりした。よって、どちらかというとオランウータンが女を殺している場面を作りたかった、といってよい。何度か映画化されているが、検索しても、どういうわけだか、本物のオランウータンを使っているのは今のところ見当たらない。 この事件を解決するのが、後の推理小説の探偵像に多大な影響を与える名探偵、オーギュスト・デュパンである。暗号を解くのが得意だったポーそのもの、といってもよい分析能力に長けた人物である。もちろんポーにその役をやってもらったが、ポーは人物の外見について、ああだこうだ書かないので有難い。明智小五郎がもじゃもじゃ頭のおかげで江戸川乱歩に明智をやってもらうのを断念したことは前にも書いた。 完成したのは、オランウータンが女を殺しているというのに、助けようともせず、ドアの陰で、どこかの家政婦のように聞き耳立てているデュパンである。

※世田谷文学館にて展示中

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ジャズ・ブルースシリーズ時代の作品を久しぶりに出してきた。このシリーズの最後となった96年の個展では、始めて写真を出品するにあたり、実在したミュージシャンを中心に作って撮影したが、それまでは主に架空の人物で、実在した人物は数えるほどしか作ったことがなかった。もともと何かを参考に作るということが得意でないこともあったが、人間をデッサンしたり、観察してしまうと、その情報が入ってきてしまい、入ったらもう出て行かないだろうと思っていた。自分のイメージが実際のことと違っていたとしても、誤解するには何か理由があるに違いない。たとえば人間の鼻はこうだ、と実際と違って思い込んでいても、それが訂正されてしまうと個性がなくなってしまう。と、かたくなに思っていた。独学者の思い込みであった。よって今の私には同じようには作れない。 探し物があったので、ごそごそしていたら、作りかけの首が出て来た。じっと見てもいったい誰を作ろうとしたのか判らない。そんな物をとっておいてもしかたがない。人心地ついたのでK本へ。10代からの知り合いであると、恥ずかしいところを見せ合っているし、今更かっこをつける必用もない、というところが良いわけであるが、常連席でこれだけ同じような人達と顔を合わせていると、女将さんがグラスから注いでくれる表面張力で盛り上がった、精一杯の亀甲宮のせいもあって、ついよけいな部分を披露することになってしまい、ここまで持ってくるのは結構大変だろう、という知り合いとなっている。よって連休明けに顔を出す時などは、夏休み明けに小学校に登校するような心持ちである。しかも最近は二次会に流れることも多い。本日もT千穂へ。そこでああだこうだいっていて、作りかけの首がストラビンスキーだったことを思い出した。

『世田谷文学館』展示中

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結局搬入の朝まで制作。久しぶりに見た江戸川乱歩は眼鏡をしていない。よせばいいのに、壊れやすいからと外したらしい。何処へ行ったらや。隔月のフリーペーパー『中央公論Adagio』表紙用に制作した円谷英二は、ネットで注文した瀬戸内海のタコに勝鬨橋を襲わせている。円谷がかける眼鏡に私が使っている眼鏡を流用していたとしてもバチなど当たるはずがない。ただそれを忘れていてはいけない。 長年お世話になっている江戸っ子の運送屋さんは、せっかちゆえに先方に何時着でお願いします。とはいわない。たいてい早く着きすぎる。よって何時にウチに来て下さい。と頼む。それでも私が汗だくになっている最中に到着したのだが。助手席に乗る。 新宿に差し掛かると、青いサッカーボールのような形の360度写すカメラを屋根に立てた車がいた。ドアには大きくGoogleの文字。あの娘とキスしているところを撮られないでよかった。もっとも先方は警官に停められていたのだが。あとはTVの視聴率をカウントする機械を見られれば思い残すことはない。 結局気がつくと早くも芦花公園。予定通りに到着。写真作品はすでに収蔵されている世田谷を背景にした作品プラス4点。作家像用には、3個のライト付きボックスが用意されていた。6体展示するので2人につき1個の計算であるが、江戸川乱歩は寝ころがっているので場所を取る。結局ボックスを追加してもらい、乱歩は最近まで国宝が収まっていたというケーズに。ということで、乱歩と横溝正史が個室。柳田國男と夏目漱石。円谷英二と寺山修司がペアに。違和感あること解剖台の上のミシンとコウモリ傘の如し。ここで笑わなければ、世田谷文学館で笑う所はないだろう。 ほとんど寝ていないのに、これから帰って明日の内覧会までに眼鏡二つ作るのは難しい。学芸員の方に、「普段眼鏡かけていたって外すことぐらいありますからねエ」。いい残し帰る。

 

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『貝の穴に河童の居る事』に出演いただいた方の中には、泉鏡花に対しての関心が未だに続いている人がいるようである。鏡花に縁がなかった人達が、どんな理由にせよ良いことである。鏡花が奥さんと逗子に逗留のさいに度々訪れ、池を寄進した岩殿寺に行ってみるという人もいる。 そいうことならいっそのこと、河童の三郎が腕を折られ、とぼとぼと石段を上り姫神様に仇討ちを頼みにいった房総の神社に出かけてみるのも一興かもしれない。現場に行ってみれば、いかに鏡花が観たまま書いているか、また同時に、私がいかに“無理”をしたかが判って面白いかもしれない。 撮影時は梅雨空という設定なのに酷暑の晴天であり、しかたないので名物を食べて薄暗くなるのを待った。それにしても御当地の名物というもの、訪れる側からすると、なんで御当地で採れる物を使わないのか不可解に思うことがしばしばである。有名な漁港の街でなんでこれにした?という名物であった。もっとも回りは海ばかりであるし、そこをあえて、ということかもしれない。平日であるにもかかわらず開いている店がなく、ようやく入った店は、眠そうな老人が何人かたむろしていた。想いだしたら、もう一回食べても良いような気がしてきた。そもそも酷暑の日に食べるものではなかったし。

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現在プリント6点展示中の金沢『泉鏡花記念館』で鏡花が愛蔵したキノコ図鑑『菌譜』が展示されるそうである。学芸員のブログには、潔癖症の鏡花は、麹町土手三番町の家では湿気でキノコが生えて辟易したと書いているのにキノコ図鑑を愛でるという矛盾~と書かれていた。やはりそうなのである。『貝の穴に河童の居る事』には潔癖症のわりに河童や血みどろの大魚イシナギの生々しさが印象的である。なのでこの2点にはこだわった。河童の撮影用には、用途は不明であるが某ローションを入手し、大魚は大きさはともかく、東北の鮮魚店から捕りたて本物のイシナギを入手し、血糊にもこだわった。明らかに鏡花は、気持ち悪いからこそ書く分には楽しそうだ、と私には思えたのである。このブログを見て納得した次第である。時間が揺れ動くような、鏡花の表現のやっかいなことに少々むかついて、河童に鼻水垂らさせ、鏡花の大嫌いなハエをとまらせたのは、私からのサービスとしておこう。

昨日のブログを見て友人から電話。「誰だお前にまだ女房をもらえとかいってる奴は?」「俺は孤独だなんてまったく気付いてないのに、女房もらって本格的に孤独になっちゃってどうすんだよ。」「ホントだよお前。」

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悪寒が走って急に熱っぽくなるような風邪は、気づいた時点で陳健一の麻婆豆腐を食べて寝てしまえばなんとかなるのだが、喉から来る風邪は数日かけてしっかりひいてしまって治りにくい。横でタバコをやたらと吸われ、そのせいで喉がへんだ、と思っていたら風邪であった。横でタバコを吸っていた人物はその日バチが当たり、目が覚めたのは朝七時過ぎ。永代通り沿いのツツジの植え込みの中、靴も脱げた状態だったという。誰も起こしてくれないと文句をいっているから呆れたものである。通勤者からすれば枯れ木じみた死体に見えたことであろう。かかわりは避けたが、あれは生きていたのか死んでいたのか、その日のニュースを気にした人は一人や二人ではなかったろう。

『貝の穴に河童の居る事』の出演者のお一人が、春まで同じ職場だった女性に拙著発刊をお知らせいただいたそうだが、「それにしても河童が怖すぎる」と返信がきたという。表紙だけ見れば「見たな?」といういかにも恨めしげな河童であるが、そいつの腕を自分がステッキで折ってやったのだ。ということまで知らせないと“片手おち”であろう。本日発売の『SFマガジン』ブックレヴューには『人外のものたちが何と生き生きとして愛らしいことか』と書いていただいている。当初不気味な存在として描くつもりの河童が撮影してみたらとても“娘の尻を触ろうとして怪我して神様に仕返しを頼んでいる”ようには見えない純真な表情に、急遽キャラクターの変更を迫られる、という、制作者として、今後に影響しかねない経験をしたのであった。

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VOX製のギターアンプが届く。毎回スタジオに引きずっていくのが億劫になり、場所もとらない小型の真空管アンプが欲しかった。なかなか可愛い。そして安い。さすがに高級感に欠けるが、使う人間に高級感がないのだから文句などある訳がない。 私はついにこの歳になり、もっとも好ましいギターがテレキャスターだ、とようやく判った。ボディが空洞でない、いわゆるソリッド型のエレキギターでは、もっとも初期に考えられた物のひとつで、当時の人間には板切れにネックがついただけのように見えたらしく、不人気だったという。その無骨な部分がまた良い。実は最初に手にしたのはテレキャスタータイプのギターであったが、通信販売のいい加減な物であったせいで、偏見を植え付けられ、気づくのに時間がかかってしまったのかもしれない。初体験は肝心ということであろう。

ようやくHPの更新が可能になった。出版から1ヶ月経ったところで、拙著の紹介ページを作った。以前からやっていたように、制作ノート的なものをブログから抜粋して、と考えていたのであるが、一年以上のことゆえあまりに膨大で、コンパクトな形にしたものを改めて考えたい。 登場いただいた方々は近所の一般人である。いくら拙著内で顔をさらしてしまった、といってもネットはまた別のことであろう。後々クローズアップさせていただく場合があるかもしれないが、とりあえずは遠慮気味にアップしてみた。どんな物好きな美男美女が出演しているのだ、という方は本書を手に取っていただくしかない。 告知ページということで、これを見て買う必要がなくなってはいけない。昔の浪曲や講談、紙芝居調に終わってみた。

泉 鏡花作 『貝の穴に河童の居る事』(風涛社刊)
http://www.kimiaki.net/kainoana.html

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本日より金沢の泉鏡花記念館に写真作品が展示される。『貝の穴に河童の居る事』からはカラー作品4カット。昔、吉徳の“人形は顔がいのち”というCMがあったが、人形制作する私からすると、河童がジタバタと人間どもに仇討ちしようとする物語は、極端にいえば主役の河童の三郎の表情のためにある、といっても良いであろう。特に三郎の目に物いわせた、表紙と表紙になり損なった沼に半身浸かっているカットを選んだ。実際は20数センチの三郎が、プリントとして拡大されての、“こっち見てる”感を御堪能いただきたい。観る方には三郎は何を想うように見えるであろう。ちなみに表紙の三郎を見上げる亀は合成ではなく、たまたま現れた亀で、外来種のミドリ亀であったら当然使えなかった。直後にすべってドボンと落ちたから日本の亀は鈍臭い。それと東雅夫さんに“呵々大笑い”していただいた、柳田國男演ずる灯ともしの翁と三郎の見つめ合うシーンである。仮に『やっと会えたね』とでも名付けておこう。それに先日書いた、このぐらいやらないと収まりが着かなかったクライマックスの大団円シーンである。他2点は96、7年に、金沢に鏡花像を持って行き現場で撮影したモノクローム作品と、古典技法のプラチナプリントである。 鏡花作品のビジュアル化の難しさに少々苛立ち、腹いせに、ばい菌恐怖症の鏡花が嫌いな蠅を3匹三郎にたからせ、洟まで垂らしてしまったカットは遠慮しておいた。鏡花記念館は鏡花の生家跡に建つ。鏡花が観に来ないとも限らない。

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一日  


私の場合、最初に浮かんだイメージに修正を加えるのが難しいところがある。イメージスケッチをしないのはこの為である。うかつに描いてしまうと最初に描いたその通りになってしまうからである。ファーストインプレッションで決まる。というと聞こえは良いが、問題もある。悩まされたのは私が鏡花の文章を誤読している場合である。あとでそれが判ると、すでに頭に浮かんでしまったイメージが焼き付いてしまっており、変更するのが実にやっかいなのである。 潔癖症の鏡花は、実際こんな生臭い河童がそばにいたら嫌だが、描くぶんには平気、とばかりに嬉しそうに筆を飛ばしている。鏡花作品の中でも鏡花の幼児性が炸裂した作品であろう。完成度については頓着せず、筆に任せて一気書いたような作品である。そのせいかどうか、クライマックスに向けて急激にテンポがはやまり、急転直下の大団円を迎える。このくだりは正直いって、あまりな展開に、どう描いてよいか解決策が浮かばないまま追いつめられた。ようやく策を見つけた時には、寝不足も加わり、そうとうなハイテンションで、道ばたをヒョコヒョコ這い出して来た小ネズミを撮影し、お前も出演したいの?とすぐそのシーンに加えてしまった。そろそろ展示が始まるであろう金沢の泉鏡花記念館には、河童のカットとともに、この大団円シーンを選んだ。 こうやって拙著の内容について書き続けていると、当ブログをお読みの方は、いったい何のことを書いているのだ?とつい『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)を注文してしまわないものであろうか。

※作者として書店に並んでいるところをまだ観ていない、というのも悪いのであるが、本当に売っているの?という気がしないでもない。読んだ方がいらしたら、ご意見ご感想をコメント欄やメールで、是非いただきたいものである。

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