明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


人間の登場人物の撮影が終了した。終わってみれば丁度七人。K本で志村喬かユル・ブリンナーの調子で酔客の品定め。この人は誰に使えそうだ、などとやっていたのは随分前のような気がする。最初に作り始めていた河童、姫神、灯ともしの翁はしばらく手付かずの状態であったが、それは素人の劇団の面々の意外な奮闘に、当初考えていた異界の描き方にレベルアップの必要が生じてしまったからである。そこに予定数を越えて制作してしまった漁師の二人。導入部に厚みができた。しかしこ のまま放っておいたら、人間が主役になりかねない。自分で制作していうのもなんだが、それだけは阻止しなくてはならない。後半は異界の住人がほとんどなので、是非盛り上げていきたいものである。

夜、T千穂にて4月に亡くなった飲み仲間のミドさんを偲ぶ会。本来照れ屋のミドさんのこと。そんな集まり恥ずかしいから止めろというだろうが、ポックリ逝ったあんたが悪い。もっとも献杯をすませてしまえば、いつもの飲み会と変わらない。久しぶりの顔もあり、良い集まりであった。 途中から、頭をぶつけ過ぎたせいで、いつもニコニコしている人物が呼ばれもしないのに入ろうとする。みんなは性質の悪さを知らないので、小さな野良犬が紛れ込んできたぐらいの調子でいじっているが、何かしでかしてからでは遅いので追い払うが聞こうとしない。良い人から死んでいくというのは本当のことだとつくづく。

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漁師の二人が4時過ぎに来てくれた。心配だったのは坊主頭が伸びてしまうことであったが、気になるほどではない。今日はフンドシでなく上半身だけだが、それにしたってどこで撮影しても良い、ということでもないので、マンションの屋上に来てもらった。前回、全身が入ったカットが多かったが、彼等の顔が気に入ったので、もっとアップで撮ろうと考えた。もう何を撮るかは決まっている。大魚イシナギを丸太にぶら下げて運ぶ横からのカットと、今俺達が遭遇したのは河童か?と話し合っているところである。そのカットは向かい合ってやってもらえば、自分達は寒い中裸で、屋上で何をやらされている、と笑ってしまうだろうから、一人ずつやってもらった。 プロであったなら、それこそ「畜生。今ごろは風説(うわさ)にも聞かねえが、こんな処さ出おるかなあ。」とかなんとか言いながら演じてくれるだろうが、こちらはドが付くシロウトである。そこで今回多用した方法を取った。一応シチュエーションを説明した後、眉間あたりの演技をしてもらい、“ア、イ、ウ、エ、オ”といってもらって撮影。途中、笑わないよういったが、良く見ると笑っていない。図体のやたらと大きい二人だが、人柄が出ていて、目元にケンがないというか優しく穏やかな雰囲気がある。なるほど、私が彼らに決めたのはこれか、とファインダーを覗きながら思ったのであった。 合計5分もかからなかったであろう。前回風邪をひいて延期になった彼は、まだいくらか鼻声であった。K本で一杯、と思ったが、彼らがバイクで来るといっていたのを忘れていた。別れた後すぐ制作開始。物語の導入部だが3カットのつもりが増えてしまった。しかしここでの若者が、後に登場する柳田國男演ずる灯ともしの翁の年寄り臭さや、河童の不健康さまで強調してくれれば良いと考えている。

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ちょっと間を開けている間に、やはりいつの間にか腕が上がっている。完成済み、などと悠長にかまえていたカットを再チェックすると、なんでこれで完成などと思っていたのか。 何年かに一度くらいだが、気を失っている間に修行でもしてきたかのように、いつの間にか目と腕が上がっている時がある。実に不思議な現象であり、昨日も書いたが、真面目にやっていたためのボーナスだと解釈しているのだが、それはたとえば正月などに、食べ過ぎたわりに体重は増えないもんだな、と調子にのっていて、ある日突然、ワンランク、ウェイトアップしていることがあるが、あの感じに似ている。いや似ていない。  作業行程は記憶にあるのでやりなおしに時間はかからない。一日のうちに3カットがランクアップした。天使にいただいたようなボーナスは使わなければならない。一日集中したので息抜き。

私が所有するギターなどほとんどポンコツである。多くは経年のため、トーンコントロールが不調である。電気音痴のクセに改造したくなってくる。これまでエレキギターの腹を開けて、その時点でいうにいわれぬ奇妙な気分に襲われ、開腹した患者を残し手術室をでていってしまい、少年時代から、何台ギターをダメにしたことであろうか。しかし今度は違う。テスターを入手し、各部品の状態を計って、断線している部分などを調べた。どれだけ判りやすく書かれた回路図も、私にはさっぱりである。高校時代の友人にギターを20本以上所有する、電気に強いのがいるので、ギター内部の回路を携帯で撮影して見てもらおうと考えた。携帯では簡単な撮影しかしないのだが、細かい配線を見せるためには、高画質がよかろう、と高画質モードで撮影した。しかし撮影したはずの画像が見当たらない。3回目に携帯本体でなく、中に入っているSDカードに保存されているのを見つけた。かってにここに収まるのか、と他の画像を見てみてみると、そこには先日撮った、緊張した面持ちで岩崎宏美さんとツーショットで写った写真があった。保存しそこなったと思っていたのに。なんだここにいたのね。

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本日、漁師二人の撮影予定であったが、一人が風邪気味ということで延期。何しろ屋外で上半身裸になってもらわないとならない。 先日人形撮影時に予期できない要素を画面に入れる話を書いたが、今回人形と人物の撮影をしてみて、何が面白いといって、人間が、私の想定外のことをした時に限って面白い。これは乱歩作品のビジュアル化をしていた時には考えたこともなかった。 長い間制作してきた。近頃は頭の中でイメージさえすれば、いずれはおおよそ思った通りの物が目の前に出来上がる。そこに思った通りではない要素をプラスするのが、私にとっての写真の役割といえるであろう。特に人間との共演は、私が造形したわけでない、生身の人間を加えることにより、刺 激や動きをもたらしてくれる。飲み仲間や近所の、いわば素人中の素人を使い、なおかつ、たいしたアドバイスもせず自主性に任せてしまう理由はそこにある。というのは後で考えたことである。 正直いうと自分の作品、さらに出版を前提にしている作品に、ここまで放ったらかしにしていいのか 、という気持ちがないわけではなかった。しかし私の口から出るのは、「それで良いです」「かまいません」「それでいきましょう」。ばかりでただ笑っていた。 常日頃思っていることだが、表層の脳はたいしたことがないが、頭以外に、もう少し性能の良い物がどこかに備わっていて、そうせずにいられ ない場合は、そちらに任せたほうが結果が必ず良い。実に悲しむべきことではあるが、私が頭を使って励んだことで結果が良かったことなど皆無といってよい。だったらそんなボンクラ頭など使わず直感で行こう、というのは当たり前の話である。しかしその最中は、なんでそうしているか判らない場合が多い。それではまるで馬鹿みたいなので、初めから考えてそうした、という顔をしているのである。 踊りのシーンの撮影の時のことである。鎮守の森の神様の機嫌をそこねたかと三人が踊りを奉納するシーンである。さてもう一カット、という時に、出演者の一人がトイレから出てきた。手には縦に裂いたトイレットペーパーを持っているではないか。それをヒラヒラさせて踊ろうという訳である。なんてことを?!即採用!!

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一日  


昨日のブログを岩崎宏美さんが読んでくれて、会場で母と三人で撮った写真とともにメールをいただいてしまった。昨日私が特に感銘を受けた手話をしながら歌われた曲は、さだまさし作詞作曲の『いのちの理由』だそうである。 母が新小岩の豆腐屋の話などするものだから、宏美さんとの携帯のツーショット写真を保存損なってしまったのだが、三人のカットから母を削除し、ツーショット写真を捏造しようと一瞬よぎったが、やったことのある人なら判るだろうが、反対側に邪魔で余計な人物が写っていたであろうことは、なんとなく判るものである。「ツーショットは次回ですね」と添えられていた。それにしても当ブログには、イニシャルを目にしただけで喉その他に悪いような人物がしばしば登場するので気をつけなければならない。

本日一日、赤フンドシの漁師2人組が、大魚を丸太で運ぶシーン。河童に驚いて逃げるシーン、河童に唖然とするシーンなど怒涛のいきおいで進行した。パソコンの調子が悪くなる前どうやって良いのか判らず、保留していたシーンがあったのだが、それを難なくクリア。極たまに起きる現象である。何もしなかったのに1ランク上達している。真剣にやっているときに限り不思議と起こる。ボーナスのような物と解釈している。 漁師の二人、良い味を出してくれて、冒頭のシーンを活気付けてくれている。一人は肩に見事な神輿ダコが出来ているくらいで、二人共にフンドシに鉢巻姿が堂に入っている。撮影は40分かかったかどうか。あっけなく思ったのか、追加撮影あれば、といってくれている。お言葉に甘えて、今週表情をアップでとらえることにした。今週は寒さもさらに厳しくなるであろう。幸い上半身だけで良いんだが、得意の超がつく早撮りで行こう。

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出掛けにガスがどうした鍵がどうした、忘れ物がどうした、と出発が遅れるのは母方の家系だと思っていたが、奥さんが玄関から外へ出てくるのを待つという経験を何度もして、女性には良くあることだと知ったのは大分経ってからである。結局、入場したのは、一曲目の最中であった。 生で聴く岩崎宏美さん。想像以上であった。御本人は年々音程が低くなり、といっていたが、私が聞く限り高音部は少女時代のまま。それにコントロールされた大人の声。聴いたことのない曲では、なんという曲だったか、手話をしながらの曲が感動的であった。途中、地震が起きて中断というハプニング。 終演後の握手会の後ロビーにいると、すべて終わって、宏美さんがわざわざ母の元に来てくれた。いきなり宏美さんとハグする母。幸せな老人である。宏美さんファンだった亡き伯母に一度聴かせたかった、よくいっている。母はすでに一緒に写真を撮ったりサインをしていただいている。三人で写真を撮ったあと、せっかくなので、スタッフにお願いして携帯で宏美さんと私二人でお願いした。私は集合写真以外、二人で撮ることはない。特にミュージシャンとは、スティービー・ワンダー、BBキング、シュガー・ブルーについで岩崎宏美だ。ということになるはずであった。携帯のモニターには確かに二人が。ところが母が宏美さんと新小岩の豆腐屋の話をしている。(いつかその店に宏美さんが来たらしい)ステージを終えたばかりの宏美さんに、なにつまらない話しているんだ、早く帰ろう!おかげでうっかりして、画像を保存しそこなってしまった。帰りのタクシーで「何か宏美さんの歌、カラオケで歌えるようになりたい」という母。あくまでお調子者である。  お腹も空いたということで母とT千穂へ。こういう場合、普通相手が誰とだろうと、先ほどのステージについて語り合うものである。しかしそこへ現役、元を含めた某運送会社の大分できあがり“完成”の域に達した不良三人組が私と母のところへ乱入。母は賑やかなのが好きなので喜んでいたが。80過ぎて足がパンタグラフのように曲がって杖をついているが、どこでも出かけてくる老婆が珍しいのか、老人を相手にしてくれる人ばかりで有り難いという一日であった。

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60Wのアンプとギター二本を持ってくるというSさん。来る前にごついキャリアーを買いに行ったが、アンプが重過ぎて小さな10Wを持ってきた。待ち合わせ場所にある電柱の脇に、私はギター二本入りのバッグに30Wの真空管アンプを置いて待ったが、遠くから見ると粗大ゴミに見える。丁度3時に古石場文化センターに到着。予約は4時間。スタジオは二人には広すぎる。それなら広く使って、と思うがアンプとギターをつなぐシールドがお互い短くて、結局半分も使わず。 私は65年製のグヤトーン。中学生の時に、父方の親戚の納屋に打ち捨てられていた物を修理して使った、それと同じ機種である。今見ると玩具のようだが音は大変良い。もう一本はカワイ製の4ピックアップ。ピックアップ4つも無駄だが、ノブやスイッチが無駄に沢山付いている。Sさんは希少材が使われている100万円のサンタナモデルと、60万円のストラトキャスター。 本日の目的の一つは、自分のアンプやギターを大きな音で鳴らすことである。しかし育ちというのは恐ろしいもので、窓から手を伸ばすと隣りの家に届いてしまうような所で育つと、リミッターがかかってあまり大きな音が出せないのがなんとも情けない。それでも普段では考えられない音量で満足。 私はスライド用の金属パイプやハーモニカに小型マイクも持っていった。なにしろ一人で遊んできたのはブルース進行の音楽だけである。アメリカ唯一の発明といわれるブルースは、ロックンロールなどの多くのポピュラー音楽の下地になっているので退屈しない。しかし驚いたのは、8歳年下のSさんがブルースどころかブルースのコード進行自体を知らないことであった。ひみつのアッコちゃんは知っているらしいが。 下手糞にも色々ある。一人の独身者は、飽きもせず、わずかに憶えたコードだけで、ブルースを長年いたずらしただけ。もう一人の独身者は、仕事の憂さを高額なローンに苦しみながらギターを入手することで晴らし、長年やってきたのは、好きなメタリカやキッスのイントロをちょっと真似てみたところで満足感に満たされ、ギターを磨いてケースにしまうことであろう。 その後、仕事で来られなかったYさんがたまたま誕生日ということで、T千穂で鍋を囲む。現実を知らないYさんは今後の活動に関してやる気満々である。Sさんが「曲を決めて練習した方がいいですよ」。先日そいういった私に、「真面目ですね。そんなの耳で聴いて感覚で合わせればいいじゃないですか」。とぬかしただろう。そういえば君は本日、途中大の字に床に寝ころがり、コードをかき鳴らしながらアンプの調整に長時間費やして終わったな。

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一日  


それにしたってベランダの掃除である。外壁補修のため、毎日足場をいったり来たりして、ウチのベランダの様子を知っている職人さんには、誠意は見せられたのではないか。おかげでベランダの荷物が室内に。ヌード撮影用に入手していた椅子が、風雨にさらされすっかり枯れて良い感じになっていた。

私が高校生の頃に、空前の黒人ブルースブームがあった。町の小さなレコード屋にさえ、マジック・サムが並んでいた。それまでブルースっぽいロックを聴いていたところに、そのロッカーが手本にしていた黒人音楽が流れ込んできたので夢中になった。それになにより参ったのは、連 中のビジュアルである。当時『ブルースのすべて』といったか、残念ながら人に貸してそれっきりになった雑誌にズラッとならんだ顔は、あきらかにジャズミュージシャンとは違っていた。変なヘアースタイルや、プロレスのリングネームのような芸名。妖怪、怪獣、プロレスラー図鑑と同系列の匂いがした。おかげで後に初個展『ブルースする人形展』につながって、今に至っているのであり、人形といっても澁澤龍彦とはまったく無縁なスタートであった。よってこの黒人のブルースは、私にとっては単なる音楽とはいえない。 先日やはり同い年でブームの洗礼を受けた田村写真の田村さんと電話で話していて、ブルース用のハーモニカを買った話を聞いた。あちらの世界ではハープという。そういえば初めてスタジオを借りる日が迫っている。思わずハープとハモニカホルダー。それにガムテープで張りつけるに丁度良さそうな小型マイクを入手してしまった。 今度一緒にスタジオに入る連中は私より大分若い。当然、聴いてきた音楽は違う。今は丸くなってしまった再結成オヤジ達の、尖っていた頃の音楽などを聞かせたりして、そんな物聴いてないでこれを聴け、と私のレコードで勧誘したいと思っている。中学の頃もアイドル好きな連中を罵倒し、このロックを聴け、とやったものだが、キャンディーズを好きになり、同級生にかくれて近所のレコード屋にいったら店のお姉さんに「ツエッペリンの新しいのが入ったわよ」。結局遠くまでコソコソ買いに行ったのを想い出してしまうが。

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学生の頃試験が近づいてくると、普段の怠け体質のおかげで毎回一夜漬けということになる。しかし教科書というものは特殊なインクや用紙を使用しているらしく、開いただけで眠くなってくる。そういうとき私は考えた。今日の私が寝てしまったら、明日の私は否が応でも勉強しないわけにいかない。必ずするはずだ。でないととんでもないことになる。だったら今日の私は明日の私に託して寝ることにしよう。 明日は高水圧によるベランダの洗浄がある。先日片付けたつもりが、それだけでなく、何も置いていない状態にしなくてはならないらしい。つまり今日の私は、昨日の私にベランダの片付けを託されてしまっている状態である。さてそうなると、仕事に集中してしまうか、何も今じゃなくてもよいことを始めるか。どうしてもこうなることは先日書いたとおりである。 さて今日は何をせずにおられなかったかというと、エレキギターの改造について考えてしまった。私はメカ音痴であり、特に電気が苦手である。なのに。いやだからこそ。 子供の頃、熱帯魚を飼っていて、ヒーターの漏電でなんどとなく感電して懲りている。初めてエレキギターが家に来た時、テープレコーダーをアンプ及びスピーカー代りにしたのだが、エレキギターなど信用できない。たまたま学校から帰ってきた妹に、「始めに触らしてやるよ」。ひどい兄である。 そもそも電気が目に見えないのが良くない。電圧など計測するテスターがあればよいのだ。ネットで検索する。これも以前書いたように、遠藤周作は『何かしなければならない時、他の事をせずにいられないのを怠け者という』といっているが、何かをしなかった代わりに、他の何かはしたということである(重要度はさておいて)。つまり掃除はしなかったが、そのかわり掃除していたら得られなかった電気についての知識が得られたわけである。その知識は『掃除が終わってからだって得られるではないか』。もちろん子供の頃から耳にタコである。しかし何も判ってない。掃除が終わってしまったら電気のことなどどうでも良いのである。もともと興味ないし。だいたいそんなことをいっていたら、私がブログに書くことがなくなってしまうではないか。 そして深夜の私は数時間後の早朝の私に色々託したのであった。

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制作中の作品のように、人形と人物を競演させるのは、主役が動かない分、脇役である人物に動いてもらおうとまず考えた。 片手にカメラ、片手に人形を持って撮影していた頃は、様子の良い通行人を待ち受けては背景に入れることをよくやった。極端な例だが、永井荷風の背景に、通りかかったルーズソックスの女子高生を入れてみたら、『俺に寄るな構うな』という顔をした荷風の表情が、ちょっと変わったように見えた。人物と出会い頭に撮影したかのような空気が欲しいので、三脚を立て、準備万端整えていては主役が動かない分感じがでない。古いレンズを使用したり、時にブレたりピンボケ、その他、様々なハプニングを積極的に期待し、不確定要素を作中に加えようと努めた。 一時期大型のカメラでの撮影を試みたが、じっくり撮影する大型カメラの使用は成功したとはいえない。そもそも50センチ程の人物を大型カメラで撮るということは、人間でいえば超巨大なレンズとカメラで撮ることになるわけで、素材感のこともあり難しい。 背景としてではなく、人形と人を共演させたのは画像合成をするようになった江戸川乱歩からだが、脇役の人間が動く分、主役の乱歩は一つの表情で常に他人事のような顔をしているのが面白かった。 制作中の作品では人形と直接共演する場面は少ないが、出演者は素人の方々なので、それこそ人形を撮影するように、全部指示通りやってもらうつもりでいたが、一回目の撮影で、これも三脚そなえて撮るような被写体ではないな、とすぐにピンと来た。そこで河童に化かされ踊らされてしまうシーンなど、参考になりそうな神楽舞のサイトのアドレスを皆さんに送り、あとは注文を付けず任せてしまった。撮影現場では、それぞれ予習をしてきたことを、出演者同士話し合う様子を眺めながら、私はただ笑っていた。これで私の意のままに作られ意のままのフレームの中に、たまたま通りかかったルーズソックスの女の子のように、私のコントロール外の不確定要素が導入された。こうやって作者の私の眼にも物語は動き出したように見えてくる。 そして先日も漁師役の二人に、私の辞書に載っていない表情をされてしまい、おかげでそれを生かすべく、場面を増やすはめになりそうなのである。

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柱時計に入った夢野久作。置きっ放しで稼動試験もしないままギャラリーに渡してしまった。時打ちは『ドグラマグラ』調にゆっくり鳴って欲しい。柱時計のネジは極たまに逆のこともあるらしいが、普通は二つあるうちの左が時打ち用、右が稼動用である。もちろん同時に一杯に巻くものである。コチコチいう作動音は振り子の長さによる。当然長い方が速度は遅い。そこで自宅にかかっている柱時計で実験してみている。時打ちがせわしないとイメージに合わない。一杯に巻いてしまって後悔したことは先日書いた。 右を一杯に巻き、左を軽く巻いて試しているが、時打ちの打ち方が緩いような気がする。となれば、時刻は大よそ正確に、時打ちの音だけが今にも止まりそうな速度で打ってくれれば最適である。自宅用もしばらく動かしていなかった。これは二本の棒を打つようになっていて、音がブレンドされ、とても良い音がする。ただ現在の密閉性の高い部屋では、少々音が大きいのでテープを巻いて抑えてある。モニターを眺めていて時を打つと、つい時刻を確認してしまうが、正確なことにあらためて感心している。 子供の頃、ずっと鍵っ子であった私は(現在鍵っ子という言葉は通じるのであろうか)よく畳に寝ころがって一人本を読んでいた。静かな部屋で時計を見上げる。宿題もしないで本を読んでいるので親の帰宅時間が気になる。幸い今日は読書であってテレビは観ていないから、帰宅早々母がテレビの背後を手でチェックしても真空管は冷えており、叱られる心配はない。 時計はコチコチと時を刻んでいるはずであるが、ずっと聞いているせいで鳴っているのかいないのか判らなくなり、不思議になり、時計を見上げて耳を澄ませたものである。

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年も暮れてくると、これで一献シミジミいこう、と出してきては止めるのがこの小ぶりな徳利である。一応久保田万太郎作、ということになっている。表面に先の尖った何かで引っかくようにして書かれた『灰ふかく立てし火箸の夜長かな』。有名な『湯豆腐やいのちのはてのうすあかり』同様、これからの季節。独身者には沁みるような句である。私にはこの程度では効き目ないけど。 灰釉がかけられたこの作品。久保万制作と思えばなかなか。といいたいところであるが、何しろそれを越えて下手糞である。分厚くて、外側だけなんとか徳利っぽくはしたけれど。という典型的な素人作品である。中に満たされる酒の都合のことなど考えもせず、外側の様子しか頭にない。私は陶芸作家を目指した時代もあるから、下手糞ということに関しては素人の域を超えているのである。 どこかの窯場に出向いたおり、ちょとひねってみた、というところか。こういう場合、窯の親方だか作家が、後から手を加え、体裁を整え焼いて完成させるものである。しかし久保万先生本人はなかなか良い出来、と思ったかどうか、気分が良くなって一句書いてしまった。窯の親方は、それを削ってしまうわけにいかない。何しろ出来が良いのは書かれた句だけである。よってロクロから切り離されたまま。ということになった。まあそんなところであろう。ただの一般人が作った物ならまだしも、久保田万太郎作と思って手にする分、残念な気分が先に溢れてきて、ここに酒を注ぎ入れるに至らないのである。シミジミしようがない。 今年は年越し蕎麦の蕎麦汁を入れてみようか、とたった今思った。いくらかましかと思うが、残念な気分には変わりはないであろう。

東京大学総合図書館『鴎外の書斎から』森鴎外旧蔵書展終了。 軍医総監閣下無事帰宅。

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朝ポストを見るとマンションから、昼からベランダの防水加工だ洗浄だのお知らせが入っていた。外壁工事のスケジュールのホワイトボードを見たらそう書いてある。ポストが一番下なので、奥にある郵便物などよく取りそこなう。 今日は12月の展示のため画廊が作品の受け取りに来る。普通の住まいを使った、国立にできたばかりの画廊である。廊主とは旧知の間柄なので、急遽時間を変更してもらいベランダの片付け。自業自得とはいえ、朝っぱらから苦手なことをするのは辛い。その間廊主からの『ベランダって胸のでかいイタリヤ女みたいっていったのは吉田戦車』などというメールも幸い気付かず片付け。 何かの折に展示しようと思っていた『屋根裏の散歩者』用の“屋根裏”がでてきた。しかしもはや崩壊し展示できる状態ではない。 作家シリーズ。最初に浮かんだのが尻をはしょって屋根裏から下の部屋を覗く江戸川乱歩であった。しかし制作したのは随分後である。屋根裏といってもイメージ通りの屋根裏など、どこを探せば良いか判らない。しかも作中の屋根裏は新築の木造である。 初出版に向け、打開策がないまま『屋根裏の散歩者』を手がけることは決めていた。丁度その頃、デジタル作業を続けるには一台目のパソコンが力不足になっており、二台目を購入した。大きい段ボールが届いた。パソコンを取り出し、何気なく蓋を内側に折り曲げたところ、屋根を内側から見たような角度になった。『屋根裏!』これが屋根裏になった。夜中に暗くした部屋で下からライトを当て、チンダル現象といったか、床の穴からの光を視覚化するため、当時吸っていたタバコの煙を漏れる光に向けて吹きかけては撮影した。夜中にこんなバカなことをやっているのは私だけだろう。こういう時である。快感物質が私の脳内に溢れるのは。こんなことを書いていると、再び乱歩を手掛けたいという“蟲”が涌いてくる。しかし乱歩が優しいオジサンだと思ってうかつに懐に飛び込むと、巴投げをくらって投げ飛ばされるのは、成功とはいえない数々の映画作品を観れば判ることである。私はこうみえても創作行為自体に酔っぱらうことはない。乱歩との間合いは心得ているつもりである。

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未知の方から大きな魚イシナギはあのイシナギですか、と質問をいただいた。半分そうだといえるが半分は違う。これは当初、最初に頭を悩ませた問題であった。ネタばらしになってしまうが、完成まで間があるし、当ブログの読者数もたかが知れている。それに私としても、近所の酔っ払いの話より、できれば制作に関することを書きたい。 おっしゃるとおり、ネットで検索しても判るが、鏡花が作中『かさも、重さも、破れた釣鐘ほどあって』と書くように、一メートルなど軽く越してしまう魚である。今では高級魚であるが、マグロのトロと同じく、昔は脂の強い魚は好まれなかったのか、以外に安価なことに鏡花も作中驚いている。だったら村に持ち帰って自分達で食べようと二人の漁師は考えたのであろう。いわゆるクエ、アラ系統の鍋にして絶品の類らしい。肝臓にはビタミンAが多量に含まれ中毒を起すので、現在は肝臓を取り出さないと販売ができないという。 そう簡単にあがる魚ではない。仮にどこかの市場に入ったとして、運良く撮影できたとして、まず合成する背景と市場の照明が合わないだろう。丸太に吊るされて漁師に運ばれるのだが、それがドンと寝ころがっているのを撮ったところで、吊るされているようにはならない。しかもそれだけでなく、死んでいるはずが『ヌサリと立った』などという演技をしてもらわなければならない。 編集者は粘土で作ったらどうか、とかスズキで代用したらとかいっていたが、潔癖症の鏡花が、だからこそというべきか、この魚に対し、無残にも血を滴らせた描写をしている。おとぎ話のような話であるが、ここは本物にこだわった。いつもいっているが、嘘をつくにはホントを雑ぜるのがコツである。そこで考えたのが小さなイシナギを入手し、巨大に見せられないか、ということである。かつて40センチ程の瀬戸内海産のタコを、巨大化させた経験がある。そこで検索して網で獲れたイシナギの幼魚を販売している岩手県の店をネット上に見つけた。それで安心してしまったのだが、さてそろそろ撮影を、と思ったら、そのサイトがネット上にあるだけで反応がない。更新した日付を見ると、どうやら震災のために移転、もしくは廃業したようである。 それでも制作の合間に検索し続けていて、青森に毎日入荷した魚の画像をアップしている鮮魚店があり、その中にイシナギを見つけた。さっそくメールをすると、これからシーズンで40センチクラスの網にかかった物が入るので、入り次第メールをくれるという。そしてクール宅急便で到着したそれをマンションの屋上に持って行き吊り下げ、自製の血糊をかけ(演劇用の血糊を入手したが、魚の血の感じとは違った)撮影した。撮影中子供がニ、三人上がってきた。面倒臭いと思ったが、屋上で血だらけの魚をぶら下げ這いつくばって撮影しているオジサンに話しかける子供はいなかった。イシナギは撮影後、すぐにT千穂に持ち込み、刺身と潮汁にて無事成仏。

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ビートたけしの『アウトレイジ』は2作品観たが、役者かどうかさえ判らない登場人物がリアルである 。お茶の間でお馴染みの役者は殺されても、お疲れ様、とでもいいながら起き上がりそうなのはしかたがない。そういう意味においては、私の知人、またそのツテのみでキャスティングしている制作中の作品は、誰も知らない演者ゆえに、私が漁師だ、と決めたら漁師である。
昨日撮影の二人。一人は麦わら帽子、一人は鉢巻である。麦藁帽子は使いたおした物を借りていて、おかげで取り出した時点で、一部破れ傘のようにりリアに破けた。私が鉢巻用の手拭を忘れてしまい、念のため持参してもらっていたフンドシ用の白いサラシを裂いてもらった。二人のうちどちらが帽子で、どちらが鉢巻でも良かったので任せたが、一方の彼の使用感の出たフンドシを鉢巻にするのを、もう一人が「俺は嫌だよ!」と拒否。隣りの部屋で彼等の笑い声を聞いていて、弥次郎兵衛と喜多八コンビのような二人をイメージしていたので、今日の撮影は上手くいくだろうと確信した。 小雨がパラつく中撮影が終わり、撮影場所のマンションの駐車場から引き上げる途中、1カット思いついてしまい、急遽上半身だけ裸になってもらった。 今回、出演者全員、顔で選んでいる。彼等も当然そうだが、大きな魚を担ぐだけに、全身をとらえたカットが多い。そこで彼らの顔を生かそうと、とっさに思い付いたのは、突然出合った河童に驚いて二人は一旦は逃げてしまう。恐る々、イシナギを放りだしたままの神社の石段の下に戻ってみると河童はもういない。河童が登っていったであろう石段を呆然と眺める二人。この場面は、石段を見上げる後姿を想定して撮影していたが、せっかくの顔を生かしたい。脚立の上から、見上げる彼らを撮影した。10カットほど撮り終了。後でチェックすると、まさに河童を見た直後の若者二人にしか見えない。目がそういっている。アップにしたら、二人の瞳に河童の後姿が写っていそうである。最後に急遽思い付いたカットが本日のハイライトとなった。 素人の皆さんの意外な演技力に撮影のたびに驚いている。もちろん私が運が良いのであろう。ここに河童がいて、とか大きな魚が上から落ちてきて、といって、ちゃんと頭の中にイメージできる人でなければこうはいかない。また、むしろより肝心なのは、楽しんでやってもらえている、ということであろう。

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