明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



目が覚めると、まずすることはエンゼルスの番組予約である。一人でいると、独り言はまったくいわないし、笑うこともほとんどないが、大谷29号にはつい声に出して笑ってしまった。梶原一騎が生きていたら『大リーグの星』はどんなストーリーを書いたろう。すでに星だし。『巨人の星』は主人公が小さく体重が軽く、故に球質が軽い、というのが物語の根底にあったが、子供の頃から、指から離れた球に体重が乗るなんてことがあるのか?とずっと思っていたが、ないことが科学的に証明されたのではなかったか。今では物語がなりたたない。 それはともかく。こう暑いと、無学祖元や蘭渓道隆の、なんというのか細かい法衣の吊り輪みたいな部品など作る気にはなれない。蘭渓道隆を膝の上に乗せたまましばらく寝てしまった。



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作るつもりでいた昇龍図に〝私が手掛けるからには”というものが不足している気がしているのだが、英一蝶の戯画『不動明王図』の濡れないよう背中の火焔を傍に置いて滝に打たれる不動明王、そのユーモアは〝お前なら写真でどうする?”と私を挑発する。同じく一蝶には、酔っ払って道端に寝ている『一休和尚酔臥図』があり、ならば、と竹竿にシャレコウべ掲げた一休が、その晩酔っ払い、シャレコウべ枕に酔い潰れている酔臥図を作った。昇龍図は大きなプリント以外にこうした面白味が浮かばない。 来月房総に撮影に行くので滝を撮って来ようと思うのだが、問題は水の処理である。下ろした火焔は三遊亭圓朝や、牡丹燈篭の人魂や蝋燭でやったように炎は筆描きするつもりなのだが、問題は水の表現である。特撮監督円谷英二同様火と水が悩みの元である。今の所岩場も滝も作る可能性が高い。その滝にはむしろ妖しい女、国産馬、猿、蝙蝠をあしらって、泉鏡花の『高野聖』の一場面を決めてみたい。主人公の若き僧に関しては、幸い最近、坊様づいており。



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小四の時ねだって買ってもらった大人向け『一休禅師』の〝門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”の目出度たいけど目出度くない。初めて聞く言葉は、曽我蛇足描く、当時活躍した左卜全そっくりの挿絵と共に印象に残った。そこでシヤレコウべを竹竿に掲げた一休を作ったのだが、実は生きることはその分死に近付くことだ、ということが以来頭の隅に棲み付いていたことに最近気付いた。おかげで死の床で、あれをこれを作れば良かった、と後悔に身を捩りながら死ぬに決まっている、と長年嫌な気分であった。最近、長い予定など立てず、すぐ目の前の、手が届くパンだけに齧りついていれば、途中挫折の可能性は低くなると気付いた。夢を持ち続けてステキ!なんてことは夢に届きそうにない老人にいう言葉である。〝あすなろ”なんていっていられる程一生は長くない。あの時『一休禅師』をねだっておいて良かった。



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一日  


市川猿之助、母親の自殺幇助で逮捕だそうだが、自分が死ぬならともかく、両親を道連れにするなど理解出来ない。澤瀉屋は、初代が〝劇聖”九代目團十郎に無断で勧進帳の弁慶を演じ破門になった。顔を見てもいかにも利かん気な顔をしており二十年後に許され初代猿之助となる。二代、三代の猿之助を見ても九代目による破門からすべてが始まり、今に至っている気がする。 蘭渓道隆制作の参考にした肖像画の完成度の高さは当時の日本にはなかった物だろう。もちろん陰影は描かれていないが、立体になれば陰影を与えることも可能になったことになる。760年前の人物に、たまには陰影を与えてみるのも一興かもしれない。     前回の『寒山拾得展』では、怪獣好きの子供時代に戻るようで躊躇した『昇龍図』だが、そろそろと思わなくはないが、今時、2メートルの写真による昇龍図は私のモットー〝感心されるくらいなら呆れられた方がマシ”には充分だが、私が手掛けるからには、という手応えが見出せないでいる。



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無学祖元が蒙古兵に刃を向けられながら退散させた、という来日前のエピソードは、今のところ描かれたものは確認していない。円覚寺という特定の寺の開山のエピソードだからだろうか。蘭渓道隆は、残されたいくつかの像に、国立の機関が、X線を当てたり年代測定などしたようだが、生前に制作されたのは、国宝である肖像画だけかもしれない。だとすれば立体化も意味があるような気がする。 例によって、今こんな物を作ってあるのは私だけだろう、と夜中に一人想う時、えもいわれぬ快感が溢れてくる。特に七百数十年の間ともなれば格別である。これを七百数十年、必要とされなかった、と考えてしまうようでは、件の快楽とは無縁ということになる。〝需要など考えるな感じろ”という話である。この辺の心の待ちようは私の得意とするところである。

 



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エンゼルスは球団新の大勝だし、ベランダの大覚禅師は良く乾いた。 人形制作を始めてからは、行き当たりばったり〝考えるな感じろ”でやって来たが、大掛かりなことをする訳ではなく、限られた道具で限られた材料ならば足腰立たなくなろうと続けられるだろう、と。そしてあの頃想定したことで、もっともその通りになったことは、堅気の人達やスポーツ選手が全盛期を過ぎて引退、廃業の年頃に、今作っている物が、人生上の最突端だと、今なおいっていることである。月一でクリニックに通おうと、急な階段は手摺りに捕まって上がろうと、自分の唾でむせてしまっても〝でも今日もあんな物が作れてる”とほくそ笑んでいる。実に幸せな渡世である。渡世の問題でなく、単に私がオメデタイという声は長年の修行の賜物で、私の耳には入らないような仕組みになっている。小学校の図書室でも、始業のチャイム聴こえてなかったけど。

 



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いずれ建長寺の蘭渓道隆手植えの巨樹、760年を経た中国原産のビャクシンを撮影して、その前に立たせたい。蘭渓道隆生前の建長寺創建当時の物といえば、ビャクシン以外は日本初の禅寺であることが判る、国宝の鐘だけである。もう一つは背景のシチュエーションは決めていないが、真正面を向いたカットも必ず。  先日飲んだ知人が仏教に行くとは、といっていたが、根が不信心者。特にそういう意識はなく、あくまで人間としての興味で描くことしか考えていない。なので仏像は作る気はない。ただ英一蝶の、濡れないように背中の火焔を傍に置いて滝に打たれる不動明王は、ただ面白いという理由で作ってみたくはある。さすが英一蝶、太鼓持ちと絵師の二刀流である。 今日も晴れて大分乾いた。最新作が一番良く見えるのは、単に目が慣れておらず新鮮だからだろう。そのうち過去の作品の中の一つとして紛れて行くのだろう。



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一カットのために被写体を作るのは大変だし画は決まっているので写らない部分は作らないことが多かったが、展示が出来ないし、何より一度作ってしまえば、どこからでも撮れる立体のメリットを失うことになる。制作中の蘭渓道隆と無学祖元は展示も考え全体を作っている。 ジャズ、ブルースシリーズの頃、肖像写真が一カットしか残されていない、ブラインド・レモン・ジェファーソンとトミー・ジョンソンを作ったことがあるが、斜め45度の肖像画一枚で作った蘭渓道隆は、以来数十年ぶりである。被写体制作と撮影の二刀流を、ブツブツ言いながら続けて来たが、今までの様々な企てを、集積したような試みといえそうである。これが上手く行けば、今後新たに制作可能なモチーフが見えてくるはずで、程なく何で私はこの人物を作っているのだろう?と首を傾げ、実はシナリオ通りに導かれて来たことに気付くというパターンだろう。明日には乾燥に入る予定。

 



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一日  


蘭渓道隆は死後初の禅師号『大覚禅師』を送られたという。完成するまでは大谷のアドバイス通り、あまり気にせず行こう。ついでに海底の5人のことも。私の嫌な死に方ワースト3に潜水艦内の窒息死がある。海底に沈んだ人間魚雷回天の話は怖かった。ワースト1は動物、特に熊に喰われることである。以前ロシアだったか親子が釣りに行って父親が早々に喰われ、娘は熊の親子に喰われながら母親に3度も携帯で連絡し、その咀嚼音に本当だと気付いた母親は慌てて救助を求めたが。最後はもう痛くないと母親に別れを告げた。無惨な話である。私が初めて女子と2人で観に行った映画はライオンに観光客が襲われるドキュメント『グレートハンティング』であったけれど。 午後クリニックへ。前回、待合室で名前を呼ばれたタイミングで高校時代の友人から電話があり、切ったつもりが繋がっており、最恐のH先生に職員室に呼び出された如しの女医先生との、やり取りをすっかり聴かれてしまった。気を付けよう。



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大覚禅師こと蘭渓道隆師の法衣姿の制作。無学祖元を作ったばかりなので、返す刀で行こう、と無学祖元に刃を向ける蒙古兵の制作を後回しにした。建長寺には開山である蘭渓道隆の有名な木像がホームページにも載っているが、本人が南宗時代の中国から携えて来た肖像画こそ実像に近いと判断し、そちらを立体化している。肩幅広く趣きも異なるが、700年誰もやらなかっただろうから、私がやらなければ千年経っても誰もやらないだろう。と私しか知らない正面の顔を眺めては、一人悦にいっているところに、工芸学校の、18からの付き合いの金工家の友人より、究極の2択というLINEが。『例の◯◯の旦那、週4日のペースで若い娘集めて朝5時まで飲んでるらしい。仕事してないし後は寝てりゃいいんだからな。なんと寂しい人生か。その対極に、金は無いかもしれないが〜』オイ待て。勝手に私をその対極に置くんじゃない!

 



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昨日のブログを書いていて、小4で知った一休の〝門松は冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”にずっと支配され続けて来たのではないか?と気が付いた。作りたい物が途切れずある分、死の床で、あれもこれも作れば良かった、と悶え苦しむに決まっている、と長年嫌で仕方がなかった。最近、先の目標を持たずに目の前のことだけに集中することで途中挫折を防ぐということに気がついたばかりだが。一休像を描いた弟子の曽我蛇足の描いた臨済宗開祖、臨済義玄の激しい表情が面白く作ってしまった。   やはり上の方でシナリオ書いている何者かは在るらしい。核心に向かって導かれている実感がある。それもこれも〝考えるな感じろ”で行かないとこうは行かないのも判っている。そして個展会場では後付の解釈なのに考えて作りました。という顔をしてしまう私である。明日から鎌倉は建長寺開山、大覚禅師、蘭渓道隆師の胴体部分に着手する。



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いちいち理由をあげる気にもなれないが、こんな時代に、この歳だから良いようなものの、もし10代だったら、辛かろうと思う。子供の頃の私は、年寄りは、あとちょっとで死んじゃうのに、なんで平気な顔して買い物カゴぶら下げたりして歩いているんだろう?なんて思ったものである。〝明日出来ること今日はせず”と行き当たりばったり、ではあるが、そのつど様々選択して来た訳で、どう転ぶか判ったものではなく、実際はスリル満点であり、無学祖元を乾かす前の先週に戻りたくないし、寒山拾得を作る前には戻りたくないし、三島由紀夫を作る前にも戻りたくはない。 昔は良かった、あの頃に戻りたい、などと思わないで済むように変化して来た訳で、毎日死に近付いて行く恐怖に打ち勝つにはこれしかない。 と書いて、フト寒気がしたのだが、小四の時にねだって買ってもらった大人向けの『一休禅師』その中の〝門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし”にいたく感心し、寒山拾得展でシャレコウベを掲げた一休を作って2メートルにプリントした訳だが、もしかすると小四以来この一休の一言が、私をずっと支配し続けて来たのではないのか?

 



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謎といえば、身の内から湧いてくるものを、何の根拠もないのに信じ、独学我流のまま、ここまで来たことである。工芸学校で「洗練されていない個性は癖に過ぎない。」と聞いた覚えがあるが、そう思うと私の作品は癖だけを煮固めたようでもある。こんな事も、40年以上続けていると洗練の一つもしたのだろうか? 基礎を学んでいないのに、その分を補おうともせず、むしろ欲しないことは知る必要はなく、身に付くことをひたすら恐れた。 人間も自然物なら草木同様肝心な物は備わっている、なんていうのも、外側に目を向けようとしない、横着者の屁理屈のようでもある。何を根拠に、そこまで自分を信じたのか?実に不可解である。ただそのおかげかどうか、作るべき物は間断なく現れ続けているし、意外な事をやらされるので常に新鮮でもある。特に不満もないので〝これで良いのだ”ということにしてはいるけれど、謎は謎のままである。



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エンジェルスの大谷を観て、無学祖元師を乾燥させ、いったんはずした組んだ手や、蒙古兵の首を修正していると、そこへ頂き物のブラジルのスピリッツ、カシヤッサが届く。ゴールデンウィークに入る頃にも送って頂いたが、蘭渓道隆師の首を作る直前で、明らかにカンフル剤になると思ったが、その通りの結果となった。そして2本目。元寇、つまり蒙古兵の制作に入るつもりでいたが、何処の馬の骨だか判らない蒙古兵より、蘭渓道隆師を作って、無学祖元師と並べて眺めてみたい、と気が変わった。 フットボールの試合を見た後は赤色が違って見える。と寺山修司が言っていた気がするが検索しても出て来ないけれど、だとしたら大リーグを観てカシャッサが届けば、予定が変わって当然である。



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無学祖元師、法衣を作り、一旦乾燥に入る。法衣の皺を今回は初めて指で作った。今後、法衣はこれで行くことに。それにしても何で私は坊様作っているのだろう?しかも明日はあろうことか蒙古兵を作ろうとしている。 陶芸から人形制作に転向以来、考えずに感じるままに来た。独学我流のくせに、一度入ると出ていかないことを恐れ、知る必要ないと思えば頑なであった。その根拠はどこにあったのか不明で〝ただそう思ったから。とダウジングロッド、のロッドと化して、その指した方向に行き当たりばったり。挙句に禅宗の坊様を作っているのは偶然でなく、むしろ出来過ぎた話と言えるだろう。 さらに先のことを考えないことが、途中挫折の可能性を低めることだ、と気付いて以来、死の床で、あれを作るんだった、という後悔に身を捩る恐れが消えた。乾燥機を使わず、無学祖元師をベランダの洗濯機の上に置いて乾かす。この余裕?が嬉しい。



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