明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 

一日  


先日、母に明日から一休を作るといっておきながら結局明日からということに。作り惜しみをして快感を高めようという悪癖を発揮した訳ではなく、蒙古兵の甲冑に、リベットみたいな装飾を加えると、加えるほどにゴツく甲冑らしくなるので、やり過ぎない程度に手を加えていた。しかしそのおかげで弓や矢筒、円形の盾など持たそうと考えていたが、手にした刀と腰の鞘で充分だろう。 常々思っている、人間も草木同様自然物、肝心なものはあらかじめ備わっている。とするなら、天台山も、そこに住う寒山と拾得も、鍵っ子の私の中にはすでに在ったのではないか。そんな仮説を立ててみると、合点の行くことが多々出てくる。とはいうものの、程度の良くない脳ミソにはとっくに愛想を尽かし〝考えるな感じろ”でやって来たので、仮説などとスカしたことをいってないで、一休和尚制作に身を入れるべきである。



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19の時、小学校のクラス会に行ったことがある。帰り際「ただ拡大しただけだな。」と言われた。今思うと小学時代散々遊んだ彼には判ったのだろう。私は無段階で今に至っている。思春期に黙り込んで遠くを見る目になったり、そんな変化がまるでなかった。工芸学校時代の同級生の工房に、卒業以来、数十年ぶりに遊びに行った時、結婚し、子供も持って、長年地元に根付いて工房を営んで来た彼は、私があまりにあの頃のまま現れたので、戸惑って慣れるまで時間がかかった、と後日聞いた。ポール・マッカートニーがビートルズ解散後、ジョン・レノンのアパートにギターを持って尋ねた。ジョンは「195○年じゃないんだから前もって連絡してくれ。」ジョンだからそうしたんで、誰に対してもそうする訳じゃないよな。 昨日のブログに書いた〝鍵っ子の空想世界。あそこに寒山が住う天台山が存在し、その記憶を求めて、ここに至ったような気がした”   寒山拾得を手掛けて以来、薄々気が付いていたことだが確信に変わりつつある。短期間で寒山拾得を百二点も描いた人に、どうだったか聞いてみたいものである。



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いよいよ横尾忠則さんの『寒山百得展』が始まった。完全新作百二点とは驚くべきことである。また関連開催として、寒山拾得図の名品が公開される。図版では殆ど見たものだろうが、特に告知にも使われている道釈人物画の名手、顔輝作の寒山拾得は最重要作である。 展覧会の解説には、寒山拾得の〝世俗を超越した奇行ぶりは「風狂」ととらえられました。中国禅宗では、悟りの境地として「風狂」が重要視されまりしたが、寒山拾得の脱俗の境地は、仏教に通じるものとして、中国や日本で伝統的な画題として数多く描かれて〜。 一昨日11日のブログで私の〝鍵っ子”時代に触れたが、私の考える通り、人間も草木同様自然物、あらかじめ肝心なものは備わっている、としたら〝脱俗”どころか俗に汚されておらず、浮かんだイメージはどこへ消えてしまうのか、と一人悩んだ鍵っ子の空想世界。自我の目覚めの原点といって良いが、ひょっとして、あそこに寒山が住う天台山が存在し、その記憶を求めて、ここに至ったような気がフトよぎった。



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介護ホームの母の顔を見に行く。一目見てふっくらしていて安心するが、10数年前に父は亡くなっているのに忘れてしまったらしく、毎日どうしてるか心配だ、という。手術の後、目を覚さないまま死んで墓に入れたじゃないか、というと思い出して、そうだったボケたね。ずっと心配してた。これで安心した、と笑った。あの父が母なしで生きて行ける訳がない。何年前の何日に亡くなったか覚えていないし、墓参りにも最近行ってない。 私は昔から一人工作する男のイメージにツンと来る所があり、友人の部屋にマッチが井桁に積まれたのを見てさえ、私の知らない彼の孤独を思ってツンと来る。父が亡くなり数ヶ月後に、父がよく通った日曜大工センターに材料を買いに行き、一人工作する男のイメージは父の背中だった、と突然気が付き、葬式でも涙一つ出なかったのが、滂沱の涙で買い物どころでなくなり帰った。私とは正反対の人間だったが、どうやらその背中だけは受け継いでるようである。なので私はただ何か作ってさえいれば、墓に手を合わせずとも構わない、と考えている。 母は一時はボーッとこちらを見たまま黙っていて、これは長くないと覚悟したが、すっかり元気で、良く喋るようになっていた。例によって今何作ってるの?と聞くから、明日からまた一休さん作る、といったら笑っていた。



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一休和尚制作開始せず。私の〝悪癖”の一つが、ご馳走を目の前に、グズグズなかなか取り掛からず、自分を焦らして創作における快感をより高めよう、とすることである。もちろん依頼され期限があるような場合は、この悪癖は発動しない。しかし、もういい加減作らせろ、とヨダレを垂さんばかりに取り掛かれば、集中力がより高まった状態で、ご馳走に齧りつけるのは間違いない。独身者の部屋はノックせずに開けるな、と言うが、一人で何を企んでいるか判ったものではない。 そう考えると、頭に浮かんだイメージはどこへ消えて行ってしまうのだ?なんて考えたのも鍵っ子時代の妄想である。父が脱サラして共働きとなり、一人にしていたらロクなことはない、と託児所がわりに塾に通わされた。仕事から帰ると、まさかテレビを観ていたんじゃないでしょうね?真空管時代のテレビの後ろの温度を確認する母であった。未だにカミさんに、そんな目に合っている友人には、だから俺は友情をもって止めただろ?



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ロクロ台の上にまずは一休禅師の芯を立てる。小学校の図書室で偉人伝、伝記の違いを読みまくったが、小四にもなると、子供向けの挿絵に我慢が出来なくなっていたし、大きな活字にも嫌気がさして来た頃、初めて大人向けの『一休禅師』をねだった訳だが、未だに伝記を読んでいるから、つくづく三子の魂百まで、である。 毛細血管を伸ばすように、枝葉を伸ばし変化して来たが、『青春時代』同様、後からほのぼの想うもの、であり、実際〝胸にトゲ刺すことばかり”だった気もするが、溢れる快感物質のおかげで自打球が当たっても笑っていられたのは幸いだったのか?それでも程度というものはあり、先天的に痛覚がない無痛症の人間は、骨折しようと火傷しようと平気で、身体に不都合あっても気付かず。あまり良い結末は迎えないようである。



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粘土も届き、雲水菅谷の一休禅師の準備に取り掛かりながら、鎌倉の禅師、蘭渓道隆と無学祖元の写真作品への備忘録として。 坐禅姿の蘭渓道隆は、素人の私が調べた限りでは、もっとも実像を伝えているのは、来日時に携えて来たと伝わる、国宝の肖像画である。その迫真の表現は、当時の日本にはない。重文の木像は死後の作といわれ、度重なる修復がなされており、レントゲン写真を見ると、その下には趣きの違う顔がある。建長寺には創建時に蘭渓道隆により植えられたという、中国原産のビャクシンの樹があり、七百数十年経ち、大変な巨木となっている。それを背景にしたい。もう一点は坐禅姿を真正面から無背景で撮る。原画が斜め四十五度の肖像なので、立体を撮って、正面の肖像を明らかにすればそれで充分である。 無学祖元は、重文の木像を元に制作した。それが現存しているので、ただ撮ってもまったく意味がない。来日前、蒙古兵に剣を向けられたエピソード。もう一点制作するとしたら、円覚寺創建時、白鹿が現れ無学祖元の説法を聞いたと伝わる。それにより円覚寺の山号は「瑞鹿山(ずいろくさん)とされることから、白鹿に囲まれる無学祖元も良い。



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寒山拾得から始まり『虎渓三笑図』や『蝦蟇鉄拐図』など道教的モチーフは制作したが、実在した、達磨大師はともかく、臨済宗の宗祖、臨済義玄、一休宗純と続き、日本初の禅寺である、鎌倉は建長寺の開山蘭渓道隆、その後継者である円覚寺の開山無学祖元という鎌倉の禅師二人により、ラインナップが強固に、より充実した。おかげで行き当たりばったり感は薄まって来ただろう。 元寇(蒙古兵)に剣を向けられ微動だにせず、退散させたエピソードのシーンを作った訳だが、その後、北条時致に招かれ来日するが、今度は日本に、、二度に渡り元寇が襲来する。無学祖元は、執権北条時宗に〝莫煩悩”(敵の脅威ばかりを考えて悩む(煩悩)のではなく、今自分にできる限りのことに全力を尽くせ)という言葉を授ける。まるで毎日のように大谷翔平から学んでいるかのような言葉ではある。



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一休に取り掛かるはずが粘土が足りないことに気付きAmazonで。雲水姿は一度松尾芭蕉で作った。現在江東区の芭蕉記念館に収蔵されている。全国のいい加減な枯れたジジイ像のおかげでイメージと違う、といわれてしまうので、門弟の描いた肖像画のみを参考に作った、と表示してもらいたいのだが、いい加減な芭蕉像に気を使って表示してくれない。 その点臨済宗の一休和尚には、弟子でもある初代曽我蛇足(じゃそく)がおそらく本人目の前に描いたと思われる決定版の肖像画がある。それにしても通常斜め四十五度向いて描かれる幾多の肖像画でも、横目でジロリとコチラを伺う作品は私は他に知らない。小四の私にも絶大なインパクトを与えた、これがまた一休という権威を嫌った反骨破戒の風狂像を実に良く表現している。目つきという意味では、鏑木清方の三遊亭圓朝像をつい思い出してしまう。妙な目付きを邪推し、私は圓朝の性格を読み間違えてるかと、評伝、芸談の類を読めるだけ読んだが、芸に対する執念の一瞬を捉えたもの、と気付くまで時間がかかった。

 



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作家シリーズとしては、今のところ最後となっている三島由紀夫は、三島作品、または本人が言及していること等に基づき死んでいるシーンを制作した。三島に関しては、他にやりたいことは何もない。約10年の間に2回の個展は、友人に止められたり、内容にビビったギャラリーに断られたり、またこの人見知りが、すでに引退していた薔薇十字社の元社主、内藤美津子さんを探してお会いしたり、私らしくない行動力であった。亡くなった鈴木邦男さんともご縁が出来た。これ以降、創作上怖いことは何もあろうはずがない。 初めてやり尽くした感を味わい、味をしめた。子供ではないのだから、思いついて、すぐ手を出さず、ラインナップの充実、強化を意識するようになった。目の前の手の届く範囲のことだけでジタバタしている私としては進歩と言えるだろう。いつまでもそんなことでは、寿命が200年は必要だろう。私がやらなければ誰がやる?ということに限りたい。



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臨済  


一休宗純三作目を作る前に、少々部屋を片付ける。 16年に谷中の全生庵の円朝祭りの際、圜朝旧蔵の円山応挙その他の幽霊画や、発見された鏑木清方作品と共に展示頂いたが、帰り際、対応してくれた若い坊様に「いずれ寒山拾得をやります。」と口走っていた。全生庵が臨済宗の寺と知り、これは何かの縁だ、と思ったからだが、臨済宗の寺がそこら中にあるとを知らなかった。 一休宗純も、小4でねだって買ってもらった大人向けの『一休禅師』の曽我蛇足のこちらを横目で見ている挿絵が印象的な肖像画を思い出したら、一休和尚も臨済宗。これも何かに導かれている。なんて思ったのだが、私が参考に人物を制作を可能にするほどリアルな肖像を残すのは、禅宗でも臨済宗の特徴なのを知らなかった。この無知勘違いのまま流れに乗ってしまったが、結果はそれで良かった。ただ、どちらかの坊様に何故臨済宗?と問われたら、多少盛ってしまう可能性はある。



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昨日のブログで書いた堺の街に立つ一休。人形制作者としては、背景として堺の家並みを描くより、人物により表現したくはある。庶民の中で生きることを好んだ一休の横に乞食か夜鷹を並べたいと思ったが、さらに老婆や子供や犬も、なんて考えてしまう。そんな時のために写る所しか作らない、という特技を持つ。その場合、数度の角度も振れないくらい余計な所は作らないが、そうはいってもたった一カットのために、と熟考を要する。 反面、その前日のブログでは〝幸福の度合いは、脳内に溢れる快感物質の量で決まる”なんて書いている。厄介なのはこの物質、立派な作品を作る場合に溢れる訳ではなく、むしろこんなことをやってるのは私だけだろう?なんて時に、より溢れがちなことである。良くも悪くもこの物質が私の作風、モチーフはおろか、人生すら左右してしまったことになる。



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次は一休宗純に決めた。厄介で、ただ祈るだけの頭部はすでにある。今回は汚い雲水姿の予定。展示前提なので全身を作る。手には朱鞘の大刀を持つ。これを持って堺の街を歩き回ったらしい。一昨日、ブログを書きながら思いついたが、展示の際は、朱鞘の大刀より有名なエピソードで、よりインパクトがある竹竿にシャレコウベにしたい。前作はイメージ作品として正装に竹竿を持たせたが、街をシャレコウベ掲げて歩くには、正装は合わない。乱世のことゆえ、シャレコウベはその辺を掘ればいくらでも手に入ったろう。小四で『一休禅師』を読んだ時の印象は、とにかく汚い、というのが残っている。 もしかすると、横に乞食か狡猾な老婆、あるいはしどけない夜鷹の女、汚い子供や犬を配したい気もする。〝及ばざるくらいなら過ぎたる方がマシ”がモットーの私は、いっそ全員を配したいくらいだが、一カットのために、それだけはお辞めください、ともう一人の私が。

 



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今年の夏は茄子をよく食べている。糠漬けも、と思わないではなかったがミョウバンを擦り付けたり面倒だったイメージがあり。茄子は色が悪いと不味そうである。鉄卵というのがあるる、と教わった。ただの鉄の塊のようなので、そういえば鉄釘を入れる話を聞いたことががある。ベーゴマがあったはず、と探したがないのでアマゾンで入手。どのぐらいで鉄分が溶け出すものだろうか。かき混ぜついでに久しぶりに生卵を殻ごと投入。殻はすぐ溶けてしまう。 寒山拾得か一休宗純どちらを作ろうか悩む。悩むとはいうものの、エクレアとモンブランで悩むようなものである。10年くらい食べてないけど。 クリニックの検査結果が良かったこともあり、エクレアとモンブランで悩みながら、酒飲んで寝てしまおうと。 寒山拾得を手掛けて以来、再確認したのは、子供の時に幸福の度合いは、脳内に溢れる快感物質の量で決まる、と決めたと思う。アメリカで毎日ボールを打ったり走ったりしてる男も、当たりめぇじゃねえか、とテレビ画面越しにいうのである。



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次は寒山拾得か一休宗純の二体目にかかる。一休は朱鞘の大太刀(役立たずな権威の象徴)を持って街中に立つ所を作るつもりである。竹竿にシャレコウベを掲げた一休は写真作品にしている。ただ、人形を展示の際は、竹竿にシャレコウベのエピソードの方が有名だし、インパクトもある。そちらに持ち替えさせることにしても良い。い。 本日より「TOKYO 8×10 EXHIBITION 2023」9月1日から7日まで、東京都江東区文化センター1Fが始まった。田村写真の田村さんに、最近思いついた、こんな事をやって、こんな効果が出るものか相談する。 写真は勉強し過ぎると、感じるより考える方に行きがちな危険さがある。かといって非常識に過ぎるのを防ぐために、まず田村さんに相談することにしている。最初の、人形とカメラを手持ちで街で撮り歩く、当時は誰もやっていなかった、私の大リーグボール1号から今の陰影のない大リーグボール3号に至っている。
    



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