明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



写真を始めて以来、まことを写すという意味の写真に抗い続け来た。写真、西洋画になく、浮世絵、日本画にある自由さを写真に取り入れられないか、その自由を阻害しているのは陰影ではないか?と考え被写体から陰影を排除する手法を始めて10年ほどになる。最初のカットは三遊亭圓朝であった。蘭渓道隆の制作により、ゴールが近い気がしている。相変わらず表層の脳ミソは性能が悪い。何故そう思うのかは理解していないが、ヘソ下三寸に居るもう一人の私は確実にそう考えているのが判る。 一昨年の寒山拾得展の流れから、昨年、急遽ハンドルを切り、名前も知らなかった無学祖元、蘭渓道隆を制作することになり、その結果、高僧を描いた頂相絵画、頂相彫刻は、肖像画、肖像写真、人形、彫刻、私のイメージする人像表現の究極と思うようになった。幼い頃、百科事典ブームでウチに着た中井英夫が編纂していた百科事典の別巻の東洋美術で、鍵っ子だった私は、それらのリアルさに、畳に寝転がって飽きずに眺めていたのを思い出す。あそこから始まっていたのは間違いない。七百数十年前に描かれた斜め45度を向いた蘭渓道隆像に正面を向かせ、人間大に拡大して観たい。これがもっか一番の望みである。
三遊亭圓朝 鏑木清方へのオマージュ

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大覚禅師こと蘭渓道隆の頭部、最終仕上げ。今まで肖像画しか残っていない人物を作ったのは松尾芭蕉と葛飾北斎、臨済義玄。松尾芭蕉は門弟の描いた作品、臨済義玄は中国で創作され、伝来した肖像画、北斎は自画像を元にした。いずれも線描で描かれており、立体感など、こちらの解釈で作れることもあり楽だったが、国宝でもある蘭渓道隆の肖像画は、迫真の描写で描かれている。とはいえ陰影はないから立体感を想像して作らなければならない。場合によって、鼻毛や耳毛まで描かれる頂相画は、その存在理由、役割を考えると、単なる肖像画とは違う。それを実感しながらの制作で、時間もかかった。 写真を始めた当初から、まことを写す、という写真というものに、抗い続けて来た。何故そこまで、と頭では思わないでもながったが、へそ下三寸のもう一人の私が収まらなかった。蘭渓道隆の肖像画は、法衣や手にする物など地位を表す物はあるものの、背景には何もなく、陰影(ライティング)による創意工夫の余地もない。まさに人物そのもの。 陰影を排除する手法を始めて、原点の人形制作に戻った心持ちになったが。完成直前の蘭渓道隆を前に、私の写真に対する抗いも最終局面を迎えている気がした。

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昨日は朝から食欲がなく、胃の調子が良くなかった。いくらか寒気もする。風邪など何年もひいてないのだが。早めに寝ていたら突然胃液が上がって来て目が覚めた。出してしまったら、朝には治っていた。なんだったのか。仏罰という言葉がつい浮かぶ。着彩の続き。達磨大師の赤が、どちらかというと腰巻きの赤そのもので、これで良いのかどうか。蒙古兵完了。一休宗純は、残るは草鞋の紐。無学祖元の膝上の鳩は、円覚寺の木像の椅子の背もたれには2匹刻まれているので、それにならって一匹増やすことにする。無学祖元と蘭渓道隆は今週中に着彩まで、と思ったが、僧衣というものは、好き勝手に塗れるものではない。地位により使う色が決まっている。蘭渓道隆は肖像画に使われている色を使いたいが、図版により色が違う。無学祖元は、参考にした円覚寺の木像は真っ黒で、そもそも不明である。とりあえず頭部と手だけ着彩し、衣の着彩は後日ということにする。

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着彩を開始する。達磨大師は『慧可断臂図』で白い法衣を着せたので今度は赤にしようと思ったが、月下の達磨大師ということで、白のほうが映えるか、と思ったが、同じようなモチーフで月岡芳年の達磨図『月百姿 破窓月』がある。これも旧来の達磨大師とは趣きを変えた赤い達磨大師で、対抗心が湧いて高崎のダルマぐらい赤くした。雲水姿の一休宗純は、肩に酒の入った瓢箪を肩に、網代笠と髑髏を掲げた竹竿を持つ姿をようやく見た。写真作品としては、正装ではあったが、すでに竹竿に髑髏は一度作ったので、写真作品としては朱鞘の大太刀 を持たせる予定である。臨済義玄を塗り直した。 無学祖元が来日前、寺が元寇に襲われ、一人坐禅中に、喉元に剣を向けられながら、動ぜず。漢詩を詠んで退散させた、という故事から。名場面の割に視覚化されていないようなので、蒙古兵も作った。

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予定としては、次も寒山拾得を推し進めるつもりでいたはずが、本格的禅を日本に伝えるために来日した渡来僧を2人作ることになった。大覚禅師こと蘭渓道隆の立体像は、私の知る限り建長寺に2体、他2体ある。いずれも亡くなった後に作られているが、建長寺の2体を含め、いずれも顔が別人のように違う。数百年間に及ぶ伝言ゲームのようである。まさにドラマ『ミステリと言う勿れ』で菅田将暉の久能整君がいっていた、人は主観でしか物事を見ることは出来ず〝真実は人の数だけある“である。そう思うと、生前描かれ、本人が賛を書いている、本人お墨付きといえる国宝の肖像画が最も〝事実“に近いはずだと思えた。だとすると、それを立体化し、正面を向かせることが出来れば、蘭渓道隆の死後七百数十年ぶりに、真正面の顔を見られるのではないか?もちろんこれも私の真実に過ぎないけれど。そうこうしていたら、昨年、横尾忠則さんが、まさかの『寒山百得展』で風狂の精神を実践され。私の寒山拾得の続きはまたいずれ、ということに。


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私が死の床でアレを作れば良かった、コレを作るんだった、と後悔に苦しむのをことさら恐れた理由が、死にそうだった父が退院して来たら、スポーツ新聞広げて水戸黄門を観ていてショックを受けたのが原因だと昨日書いたが、これは間違いないだろう。年齢と共に気になって来た。私の場合、作りたい物がまったく途切れずに常にある。ということは、死の床で、作れなくなった時も、何かはある訳で、それを想像してはウンザリしていた。父はどうだったのだろう。 しかし考えてみると、ほとんど外に出ず作ってばかりいる私は、人には退屈な生き方に見えているかもしれない。頭に浮かんだイメージが形となって目の前に現れる快感がどれほどのものか、これは私にしか判らないことであろう。大谷がパスタに塩のみと聞いて「人生つまんなくね?」 といった選手がいたらしいが、わかんねえだろうなあ、と大谷は思ったろう。 父と共通の話題はプロレスだけであった。ありがちなことだが、保守的な父はジャイアント馬場を嫌い大の猪木ファンだった。これもありがちなことだが、私は好き勝手な猪木を嫌ったのだが、父はそれを知らずに死んでいった。

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ペーパーをかけながら、きっと来年の今ごろも、まさかこんなものを作るとは思わなかった、といっているんだろうな、と思った。行き当たりばったりの、とんだ風船野郎であるが、長い予定など立てず、目の前の、今作るべき物を作る。これこそが死の床で、アレを作りたかった、コレを作るんだった、と後悔に身をよじる可能性を低めるコツである。何故これほど恐怖を感じるのか。理由に気が付いた。 亡くなった父が、何度目かの入退院を繰り返していた時、今回も危なかったが、ガリガリになりながらも、なんとか退院をして来た。夕方、実家に帰ると、父はスポーツ新聞を読みながら、水戸黄門を観ていた。その姿にショックを受けた。この期に及んで他にすることないのか?! しかしそのおかげかどうか、本日が人生上の最突端だと思えている。何が良いといって、過去のあらゆる失敗、間違っていたであろう決断も、今に至る一要素であると思えることである。制作することにより湧き出る、例の快感物質に単に酔っているのであろうか?

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大谷翔平、手術後の経過も良く、新天地での活躍が楽しみである。私は普通の人と視点がちょっと違っていて、野球をすることによって湧き出る快感物質に取り憑かれた男の躍動する姿、笑顔を見たいのである。こんなあからさまな人間を始めて見た。 かつて、一時の性欲や手料理如きに胃袋捕まれ、結婚していく友人らに、友情を持って止めることを常としていた。それというのも、全ての人が、あの快感物質が湧き出ていると思い込んでいたからである。私にとって家庭生活=快感物質の湧き出るのを阻害するものでしかない。 学生時代の昼休み、小説を読んでいる間中、映像が浮かび続ける私は、他の連中がそうではない、と知って、びっくりしたのを覚えているが、そんな訳で〝お前ら頭おかしいんじゃないか?“と言わんばかりに説得していたことを、今では反省している。アレが湧き出ないなら、火中に身を投じる虫の如き行動も判らないではない。もっとも、全員アレに取り憑かれたら、人類の滅亡は間違いない。酒場でぐずぐず、なかなか家に帰ろうとしない男達は自業自得と思っていたが、滅亡を防いでいるのはああいった男達であろう。

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一日  


一休の竹竿にシャレコウベは、やはり正装より雲水姿の方が似合うだろう。網代笠に酒器の瓢箪を肩に。本当は、野良犬を足元に、と思うのだが、室町時代の野良犬がどうだったか判らない。当時描かれた犬はいるが、描くとなると、どうしても毛並みが良い犬で、乱世の時代に喰われもせず、うろちょろしているような、洋犬の血があまり混ざっていないような犬はさっぱり判らず。もっとも陰影を排除すること手法は、他のオブジェには影響を与えないので、後で付け加えることは可能である。また展示場所によるが、当初イメージしていた、胸をはだけムシロを手にした夜鷹や乞食を付け加えても良い。乞食、夜鷹、犬、洟垂れ小僧など並べてみるのも良いだろう。来週には、着彩に取り掛かれるだろう。 陰影を排除する手法は、光やレンズの味に頼ることは出来ず、被写体の出来が成否を決める。写真を始めていなかった頃の、原点である人形制作を思い出させてくれる。

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小学4年で母にねだって買ってもらった「一休禅師」で見た横目でこちらを見る一休像は、門松は目出度くもあり目出たくもなし、の言葉と共に記憶に残った。後小松天皇の落胤として生まれ、二年後に南北朝が合一。様々な事情から寺に預けられる。一歩間違えば殺されていてもおかしくない。あの表情は、そんな出自により作られたものだろう。 小学一年で図書室と出会い、伝記の類いを読みまくった私だが、掲載される肖像が現代のイラストレーターが描いたものでなく、当時描かれた物であると説得力が増した。人間模様への興味から犯罪ドキュメント関連の本もずいぶん読んで来たが、最近めっきり興味が湧かない。その原因は、ニュースにおける犯人が皆マスクをして印象に残らないせいもあるだろう。 建長寺開山、大覚禅師こと蘭渓道隆も、その個性的な国宝の肖像画にまず興味を持った。この顔を正面から見てみたい。仕上げをしているとブラタモリで建長寺が映り、元SMAPのナレーションでランケイドウリュウと発音されるのを聴き妙な感じする。

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坐禅での手の置き方にも左右決まりがあることさえ知らず、作り直したような人間には、知るべきことが多い。初個展で私の作ったピアノの鍵盤の数を数える女の子がいた。鍵盤の数などどうでも良かった私だが、後に実在の人物を作るようになり、やれることはやっておかないと、鍵盤の数を知っている人には台無しだろう。 頂相彫刻は大抵椅子に座って描かれている。中国由来の形式だろう。なので蘭渓道隆と無学祖元は坐禅姿にしたのだが、そこまで作っておいて、壁を背にし、袈裟を着けない臨済宗の座禅も、七百年前はどうだったのか?しばらく制作が止まった。近所の臨済宗の寺で聞いてみるのも。町工場の社長が本社の創業時のことまで知っているとは限らない。人づてに建長寺の関係者に聞いていただいた。残された物をただ写すならともかく、違うものを作るのであれば、せめて鍵盤の数は正確にしないと坐禅姿が台無しである。 本日は久しぶりに臨済義玄の気になる部分を修正した。この時点で人物像は、達磨大師、臨済義玄、蘭渓道隆、無学祖元、蒙古兵、一休宗純。このラインナップがどっち方向に伸びて行くかは全く不明である。 午後一遍上人の資料届く。パラパラと速読調にて眺める。



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昨日、死の床で一遍上人を作れば良かったと後悔するのはまっぴら、と書いたのは、だから作るのは止めた、という意味ではなく、むしろ逆である。早速一遍上人の資料を注文した。ただし今は熟読は止めろと、肝に銘じつつ。そう簡単に収まるのであれば、妙な施設で検査させたり母は苦労しなかったろう。中川家の漫才で、弟の礼二が小学2年の時「日曜になったら、朝から晩まで裏のドア開けて出発進行出発進行」頭がおかしいと大学病院に連れて行かれた。「全部ホンマの話やないか!」に笑った。私が連れて行かれたのは病院ではなかったと思うけれど。 40有余年、中年〜老人の男専門に作って来た私とすれば、異様な表情、ギクシャクしたポーズの老人に、これは私の出番だ、と思うのは当然であり、作る言い訳が見つからなかった、という、単に渡世上の事情にすぎない。私を支配しているのはへそ下三寸、丹田辺りのもう一人の私である。こいつが出発進行出発進行とやかましい。ただ、渡世上の事情や空気が読めることについては、せめてもの、母の教育的成果であろう。

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昨日、死の床で一遍上人を作れば良かったと後悔するのはまっぴら、と書いたのは、だから作るのは止めた、という意味ではなく、むしろ逆である。早速一遍上人の資料を注文した。ただし今は熟読は止めろと、肝に銘じつつ。そう簡単に収まるのであれば、妙な施設で検査させたり母は苦労しなかったろう。中川家の漫才で、弟の礼二が小学2年の時「日曜になったら、朝から晩まで裏のドア開けて出発進行出発進行」頭がおかしいと大学病院に連れて行かれた。「全部ホンマの話やないか!」に笑った。私が連れて行かれたのは病院ではなかったと思うけれど。 40有余年、中年〜老人の男専門に作って来た私とすれば、異様な表情、ギクシャクしたポーズの老人に、これは私の出番だ、と思うのは当然であり、作る言い訳が見つからなかった、という、単に渡世上の事情にすぎない。私を支配しているのはへそ下三寸、丹田辺りのもう一人の私である。こいつが出発進行出発進行とやかましい。ただ、渡世上の事情や空気が読めることについては、せめてもの、母の教育的成果であろう。

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先月末、40年来の知人宅で、初個展前後の、架空のブルースマンの作品をアルバムにした物を見せられた。そこにはそれ以外の作品も写っていた。1つ140円で、団地のベランダにぶら下がっている物干しを溶接しながら作っていた。いずれ160円になる、と聞いていたが、刑務所でも同じ物を作っていたからかなわず。そうこうして、溜まって来たので初個展となった。当時、朝ドラで『おしん』をやっていて、その直前のニュースで個展情報が流れたものだから、初個展の割に人が来て、翌年の2回目も決まった。ところがプレッシャーになり、一度はキャンセルを申し出にギャラリーに向かったほどで、これは酒など飲んでいられない、と約一年禁酒をした。この頃一番好きだった噺家が志ん生の息子、志ん朝の兄、金原亭馬生で、どんな俳優がドラマの中で飲酒をしようと平気なのに、馬生がだんだん酔っていく様は耐え難く、顔を見るとチャンネル変えていた。遊びに来た友人だけに「どう?いいだろ?」なんて生きて行けたらどれだけ良いか、と思ったものである。 今は実在した人物を作っている。やりたいようにやるなら架空の人物を作れば良い。一遍上人は鎌倉に入ることはなかったようだが、蘭渓道隆が鎌倉から出て、一遍上人に会いに行った説を家が時宗だという方から聞いたが、確証のある話ではないようである。実在した人物を作る場合、七百年前の人物だからといっても、このハードルを意識してこそ、実在した人物である。ラインナップの中には、よほど縁がなければ南無阿弥陀を唱え踊る老人は並べられない、と断念。かといって、死の床で一遍上人を作るんだった、と後悔に苦しむなど真平である。

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仕上げも進み、一休宗純以外は後は完全に乾燥させ、着彩を済ませれば。と完成が見えて来た。錚々たる高僧を並べて眺めてみると、私のような、とびきりの不信心者が、と数年前の私が見たら、事情がまったく飲み込めないだろう。何しろ何年も父の墓参りもしていない。いくら出不精とはいえ、墓はたかだか新宿区である。いい訳するとすれば、私の場合、父の姿などは、3D映像のようにイメージの中でリアルに動きまわる。なのでいつかヒットした歌ではないが、ここに父は居るのに、石の下にある骨片に手を合わせに出かけなくても、というのが正直なところである。それは渡世上の主要な私の武器でもあるのだが、それがアダとなることもある。 本日は朝から頭の中で、一遍上人が南無阿弥陀佛、と踊り続け、何か作る理由がないか調べるのだが、どうしても鎌倉入り直前に、武士に阻止され叶わず、というのが真相らしい。こうなると子供の頃から抑えが効かない。母がもっとも危険視したのが、私のこういうところだが、さすがにハナを垂らした小学生ではないのだから、作りたいから作っちゃいました、という訳にはいかない。と一日苦しんだ本日の誕生日であった。

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