明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



先日、三島由起夫は初の 書き下ろし小説『仮面の告白』ですでに全部書いてしまっている。と書いた。三島の死後、同性愛やその死についてあの作品をまったくの創作だと思いこんでいるかのように論じている人達が、不思議でしょうがなかった。三島の事件の決行日11月25日については様々論ぜられ、陰暦で換算すると吉田松陰が刑死した10月27日にあたる、という説もある。 大蔵省を9ヶ月で止めて、編集者に宛てた手紙に、初の私小説で、ボードレールのいわゆる死刑囚にして死刑執行人たらんとするものです。11月25日を起筆と予定し、題は『仮面の告白』というのです。と書いていたのに今さら気がついた。新たに作家として生まれ変わりを期した『仮面の告白』の起筆日を死ぬ日に決めていた、とすると、吉田松陰云々という少々回りくどい話に比べるとすっきり解りやすく三島らしくもあるのではないか。 三島が変名で会員制同性愛雑誌に書いた『愛の処刑』(昭和35年)は三島とおぼしき毛深い体育教師が生徒である少年に見守られながら切腹して死ぬ、という、この時点でこうやって死にたい、と書いてしまっている、と驚いたが、これを読んで盾の会会員はショックではないのだろうか、と鈴木邦男さんにお聞きしたことがある。すると「連中は本なんか読みませんから」。と笑っておられた。確かに三島は文学青年なんか嫌いだったけれども。

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石塚公昭幻想写真展-生き続ける作家たち 7月25日~9月2日

『タウン誌深川』“明日できること今日はせず”連載8回『昭和残侠伝“唐獅子牡丹”三島由紀夫』

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北斎  


昨年4月から始めた陰影を無くした写真作品は、とりあえず成果はあった。今後もこのシリーズは続けて行きたい。ただせっかく自分で立体作品として陰影を作ったのをあえて消す行為なので、その陰影をさらに強調した作品を作って気分的バランスをとって行きたい。となると、新作にも関わらす、まだ陰影のない作品しか制作していない葛飾北斎の、以前から考えていた画室での北斎を制作してみたい。厄介な頭部はすでにある。 北斎と娘のお栄の画室での様子は弟子の一人、露木孔彰が「北斎お栄居宅図」を描き残しており、北斎美術館でもそれを元に再現した実物大の像がある。しかし身長180センチの感じは出ていないし、うつむいていて顔が見えない。 北斎という人は自分をキヤラクター化し、時に自虐的に演出するユーモアの持ち主である。掛け布団を身体に巻き付けるようにくるまり、傍らに陶製の尿瓶を配した戯画も描いている。こんな物を見せられると、私を挑発しているとしか思えないのである。晩年は北斎、お栄ともに西洋の陰影法を研究していた。そんな所をリアルに描いてみたい。 この世界的な巨匠、海外で北斎像を作るようなおっちょこちょいは出て来ないとは思うが、世界は広い。北斎自身をテーマに描くアーテイストも出て来ないとも限らない。生まれも近い出身であるし、日本人を作って幾年月、後塵を拝する訳にはいかない。もうここまで来ると何作ろうと、アンドレ・ザ・ジャイアントを前に、「やっていいんですか?」と周囲に訪ねた前田日明のように、遠慮することは何一つない。もっとも先日、頭山満や杉山茂丸なんて、依頼されたという“体”でなければ作りませんよ、と某氏に話したばかりであるが。

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トークショーは7月と8月の2回に決まった。7月の方はお二人にやっていただけるようだが、私もそんな日に顔を出さない訳にはいかないだろうし、状況によっては多少は参加しないとならないだろう。しかし、先日書いた針のムシロ的な、ネットで配信までされた過酷なトークショーを体験しているし、リコービルは円筒形なので、人がすべて目の前というわけでもないだろう。 人前といえば、高1の時に何校か集まり、江戸川公会堂でコンサートがあり、中学時代の仲間と出場することになった。当時のことだから、CSN&Yやフリー等のコピーバンドが多かったが、我々のバンドは私の提案のせいで、上達が妨げられてしまっていた。というのは当初はビートルズなどを齧っていたところに私が、オリジナルをやろう、オリジナルならビートルズより上手い。この辺の発想は今と全く変わらないが、加えて子供であったから始末が悪い。コピーをしてこそ上達がある。しかも中に惚れた腫れたのという軟派な曲ばかり作る奴がいて、こんなの恥ずかしくて歌えるか、と自分で作った曲は自分で歌う、という決まりが出来てしまった。とここまで書いて、この流れだと私がどんな曲を作り歌ったか触れない訳にいかなそうなので、人前の話に戻すと。今日はきっと緊張するだろう。台所にあった瓶からコップ1杯注いで、目をつぶって飲み干し出かけた。しかしどういう訳だかなんの変化も起きず。結局は照明で客席がまったく見えないので、どうということはなかったが、反動でリラックスし過ぎ、後で録音を聴いたら、ヘタクソな我々がチューニングの時間だけは一番長かった。

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フェイスブックを見ていたら、ご近所ネタの投稿で、川のウナギの写真を見た。『ホントだった?』 何年か前の話であるが、カラオケ帰りの明け方、近所の川で極太のウナギを川鵜が丸呑みしているのを見た、という話を聞いた。何しろ私の知っている範囲で、たちの悪い酔っ払いワースト2と3のコンビだったからはなから信じられない。そもそも一人は、その親父を含めて家族自体が大蛇を見たとか、河童を見たとかいう有様であったから、二人が飲みながら気炎を上げれば上げるほど眉唾臭くなる。 もともとは近所の小名木川の名はウナギから来ていると聞いたことがあるし、昔は獲れたことは知っていたが。私が30年前に深川方面に越して来た時、ルアー釣を始めた頃で、夜中に40センチくらいのフッコ(小型のスズキ)を釣って、歩いていた酔っ払いに記念に撮って貰った写真がどこかにあるはずだが、キャッチアンドリリースなど性に合わず、食べようとしたが東京湾ならまだしも、川に入り込んだ魚は臭くて食べられたものではなかった。食えない魚は釣る気にはなれない。それでもハゼを釣る人はいたものだが、産卵場所不足とかで最近は釣れないらしく、めっきり減った。昭和30年代の隅田川の匂いがまだ鼻の奥に残っている私からするとはるかにマシではあるのだが。 一人の酔っ払いは、それなら釣ってやる、といきまいていたが、釣れたという話は聞いていない。しかし写真を見てしまうと、連中の話は本当だったのかもしれない。一人はすでに郷里に帰ってしまっているし、本当だとしても、普段の不行跡で信用されないあんたらが悪い、ということにしておく。
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個展会期中のトークショーは、どうやら私の出番は2回目のようで、つまり出るのは一回で良い、ということである。あと数年で最初の個展から40年経とうとしている。最近は毎日駄文を書いているから何か話すことはあるだろう。しかし昨日も書いたが、初期の作品について書き残していないので定かではない。人形とカメラを両手に街で撮り出したのは永井荷風が最初ではなかったか、と思うのだが。初期の人形が小さめだったから、重量的にも有利だった。鏡花を持って金沢に行った時は、胴体を二種持って行き、首をすげ替え撮影した。友人二人と夜行バスで行ったのだが、あそこは男二人で行くようなところではなかった。 当時は主にモノクロで撮影していたが、高感度フィルムに増感による粗粒子が良かった。カラーで撮影すると人形の着彩感がどうにもならなかった。今はその嘘くささが良いと感じるから味覚と同様、見え方も変わるものである。蛸に絡まれる葛飾北斎に至っては、モノクロで制作する意味がまったくない。 私はそう見えるよう自分でやっておきながら、騙すつもりでやっていないものだから、勘違いされると、なんで判ってもらえないのだ、と思ってしまうところがある。江戸川乱歩が気球にぶら下がっている写真でさえ、あれほど粘土感丸出しで、乱歩本人があんなことをする訳ないだろ、と思っても本人の実写だ、と思いこんでしまう人はいる。だったら、一度、できるだけリアルにやってみよう、と思ったのが、いきつけの店で撮らせてもらった古今亭志ん生である。結果、志ん生が火焔太鼓を担ぐわけがないが、志ん生の実写に思われてしまう。となると、私は志ん生を撮影した、ただの写真家になってしまう。やはり投げるのも打つのも私が全部やっている、といいたい。ついでにいえば、蛸を瀬戸内海から取り寄せたのも私だし、撮影直後に喰ってしまったのも私だ、なんてブログに書いている訳である。

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新たに作っているページに樋口一葉、森鴎外、夏目漱石を加える。いずれジャズ/ブルースシリーズも加えていくつもりだが、アナログ時代の作品は、大半がデータ化していないのでどうしていこうか、というところである。 身辺雑記やブログを読めば、確かに私はそんなことを考え企んだな、と思い出すが、昔のこともどんどん忘れHPを立ち上げる以前の記憶が薄れてきている。7月25日からの個展は、当時の作品が多くなる予定である。最初に手がけたのは乱歩だったか澁澤だったか、3体目は谷崎だった。どんな心持で作っていたか、などすでに朦朧とした霧の彼方であるが、浅草の土蔵をを改造中の開業前のギャラリーに訪ねて行き個展を決めた。ちょうどサントリーのTVCFの仕事をした頃で、初披露の割に告知も十分であった。乱歩の御子息の平井隆太郎先生にこんなことをやりたいのですが、個展タイトルも乱歩の『夜の夢こそまこと』を使いたい旨お手紙を差し上げたのを覚えている。来ていただいたが、乱歩のご子息を前に乱歩と呼び捨てにしてよいのか、先生というのも、さん付けもへんだ、と焦った記憶がある。人形を片手にカメラを片手に都内や金沢を背景に撮り歩いたが、今ではスマホ片手に人形やぬいぐるみなど誰でもやっているが、この名月赤城山撮法を、何時どうって始めたかなど、まったく思い出せない。高感度フィルムを使い、28ミリレンズに15分の1秒が私の腕の長さ、人形のサイズとベストであった。これはいつの撮影だったか、寺山はボクシングなどやったことなどないくせに、と元奥さんの九条さんに伺ったことがある。そういえば、寺山のファイテイングポーズはぎこちない。モハメド・アリに醜い熊などとののしられタイトルをもぎ取られたソニー・リストンが刑務所を出所した際、線路伝い走って帰ったというエピソードから着想した。リストンも寺山も共に単線こそ似合うだろう。


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『三島由起夫へのオマージュ 男の死』展は止めるべき、だと説得してくれる友人もいた、当時ブログにも書いたが、私にはその説得も妙なる音楽に聴こえてしまう有様であった。私は結婚するという友人は友情を持って止めるよう説得することに決めている。何も自ら牢獄に入るような道を選ぶことはない。そう思うと私のそんな説得も、あの時の私のように聴こえてしまうものなのであろう。つまり正常な心理状態ではなかった、ということである。私はすでに居もしない三島にウケることしか頭になかった。『男の死』は三島が最後にしたかったこと、これが事件に対して二の矢となるはずで、そこで完結するはずであったろう三島の無念を想った。もちろん三島本人がやることに意味があり、私の作品によって三島が浮かばれるとは思わなかったが、三島に関しては男の死以外私がやってみたいことは、未だに一つもない。おそらく友人は、街宣車がどうのと開催を渋ったいくつかのギャラリーとは別な心配をしていたに違いなく、作品は1点も売れなかった。作り物とはいえ、人が死んでいるところは普通売れないであろう。 数々しでかして来た私だが、この石塚版『男の死』に対する思い入れは強い。制作に入る前、出版人として引退状態であった薔薇十字社の元社主、『男の死』の企画者であった内藤三津子さんを探し、最初にご相談させていただいたが、会場で「今三島さんここに来てるわよ」。といっていただいたのは望外の喜びであった。 私は東京は下町育ちで、小学生の頃から「男は諦めが肝心」なんていいながら育ち、あっさりしているのが男だという見栄をもって来たが、こと制作に関してはマムシにタコ足の如くの執念深さであり、いつかサーカスを観に行く機会があったら、三島が墜落死する場面を作るに違いない。今はオンデマンドで安価で写真集制作も可能のようである。表紙は燃える金閣寺だろうか。 ところで話は違うが七月からの個展期間中、二度に及ぶトークショーが決まったという連絡が着た。ご協力いただく方々は、どうも私の初の出版披露会のおり、私が頭を下げただけで、一言も発しなかったのを最前の招待席で御覧になっていた方達ばかりのようである。

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昨日の肥え桶転がして死んでいる三島由紀夫は今見ると良くやったな、と旧くからの友人からメールが着たが、なんのことはない。『仮面の告白』で三島は書いている。『坂を下りて來たのは一人の若者だつた。肥桶を前後に荷ひ、汚れた手拭で鉢巻をし、血色のよい美しい頬と輝く目をもち、足で重みを踏みわけながら坂を下りて來た。それは―汚穢屋―糞尿汲取人―であつた。彼は地下足袋を穿き、紺の股引きを穿いてゐた。五歳の私は異常な注視でこの姿を見た。』『私はこの世にひりつくやうな或る種の欲望があるのを豫感した。汚れた若者の姿を見上げながら、『私が彼になりたい』といふ欲求、『私が彼でありたい』という欲求が私をしめつけた。』了解しました。お望みどおりいたしましょう。ただそれだけの話である。 『希臘の兵士や、アラビヤの白人奴隷や、蛮族の王子や、ホテルのエレヴェーター・ボオイや、給仕や、与太者や、士官や、サーカスの若者などが、私の空想の凶器で殺戮された。私は愛する方法を知らないので誤って愛する者を殺してしまふ・あの蛮族の劫掠者のやうであった。地に倒れてまだぴくぴく動いてゐる彼らの唇に私は接吻した。』『そこで私はいつになっても、理智に犯されぬ肉の所有者、つまり与太者・水夫・兵士・漁夫などを、彼らと言葉を交はさないやうに要心しながら、熱烈な冷淡さで、遠くはなれてしげしげと見てゐる他はなかつた。』 後に文学などとは縁がない、そんな若者に囲まれ嬉々として死んでいった三島である。仮面と銘打ってはいるものの、『仮面の告白』ですでに全部書いてしまっている。果たして三島以外の方法で、若者に囲まれ、腹を切り介錯までしてもらい死ぬ方法は他にあるだろうか?“君それをいっちゃお終いだぞガハハハ笑” 三島が最後にやりたかった、篠山紀信に撮らせていた写真集『男の死』は、まさに与太者・水夫・兵士・漁夫などに扮して死んでいる自分であった。私はその存在を知らず石塚版『男の死』考えたが。知った時ビンゴ!と思った。三島は死後、あらゆる人達がその写真集を観ている様子を想像して恍惚としたに違いない。奥さんの反対にあい出版されることはなかった。 『仮面の告白』は私からすればイメージの宝庫、ご馳走がうずたかく溢れ返っているように見えた。当時実現しなかった『唐獅子牡丹』は実現したし、イメージしただけで終わったのはサーカスの若者の転落死と、生前週刊誌の企画で“私のなりたいもの”で三島は白バイ警官に扮していたので、道端で横転し、縁石かなにかに激突死しているところであった。ちなみに私のなりたいもの、で植村直己が扮したのはコジキであった。

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7月25日からの個展は9月2日まで続くのだが、トークショーが行われる可能性がでてきた。いちおう私の個展であるし、どなたかに出ていただくにしても、私が人事みたいな顔をしている訳にいかないだろう。2005年、私の処女出版の発表会が、渋谷のJZ・Bratという立派なライブハウスで行われた。講談から義太夫、マジック、ピアノ演奏に朗読などが行われ、私には過分な披露宴であった。よきところで紹介された私であったが、ただ頭を下げるにとどまり一言も発せず終わった。あれ?というさざめきが会場で起こった。まったく失礼な話であるが、なにしろ人見知りで目立ちたくないし、注目されることにも耐えられない。 小学生の時に、最初で最後となったが、父が父兄参観にきた。たまたまお父様方のご意見を伺おうということになったのだが、我が父は自分の番が来る前に姿を消していた。猫舌とともに、私はその遺伝子を受け継いだのであろう。 期間が長いだけに、下手したら二回も行われる恐れさえ出てきた。もし了承いただける方がいるとしたら、JZ・Bratの轍を踏むわけにいかない。やります。といった。一つにはJZ・Bratのような広い場所ではないことと、一度経験した出来事があったからである。 昨日も書いた『三島由起夫へのオマージュ 男の死』の時である。これは三島がさまざまな状況で死んでいるという個展で、すでに二箇所のギャラリーに断られていたが、恐れはなかった。未刊ではあるが、三島本人が魚をぶち撒けながら出刃包丁を腹に刺して死んでいる魚屋に扮している所その他を篠山紀信に撮影させ、あの激烈な死を遂げた直後に、出版されることを切望していたことを知っていたからである。それに比べたら、三島が汚穢屋の青年に扮し、汚穢代わりに血液をぶちまけて死んでいようとたいしたことはない?と私は思う。クレームが来るどころか鈴木邦男さんに来ていただき、雑誌で対談までさせていただいた。問題はその後である。トークライブがあるので人形持って来るように鈴木さんに言われた。まあ人形を披露するだけなら、と出かけたら、あの佐川君が登壇していた。吉田茂はいつも人を食ってます。といったが所詮比喩である。次にこちらと上がっていただきます、と紹介されたのが、オームの村井を刺殺した徐弘之氏であった。客は人形制作者の話などより徐氏の話を聞きたいのは明らかなので、壇の横のスペースに行きたかったが、徐氏の礼儀正しさと腰の低さに負けて私が壇上の端に陣取るはめになった。この日の状況に比べれば、人前で自作について語るなど、たいしたことではない、と思うのは当然であろう。


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改めて制作中のHPではすでにアップしていた作品も、以前より高画質で見ていただけているだろう。 井伏鱒二だったか自作に手を入れ続けた作家がいるが、私も作品によれば完成から何年経とうが手を加える場合がある。たとえば三島の潮騒の初江である。モデルは牡丹灯籠のお露の姉さんで、近所の店の娘であり、母親にも牡丹灯籠のお米、拙著『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)にも母娘で出てもらっている。この一家にはまったく足を向けて寝られないわけだが、屋外のシーンでは店の屋上でお米に娘の初江にひしゃくで水をかけてもらいながら撮影した。観的哨の「火を飛び越して来い」。のシーンであるが、ライトを一つを焚き火の炎に見立て店内で撮影したのだが、外に飲みにでも出かけてくれりゃいいのに、親父がカウンターの中にいる。かといって現場を観る訳ではなく、撮影している私の方を向いている。昭和らしくズロースにシュミーズでずぶ濡れの娘を撮影しているのを親父が私の方を向いている。こんなやりにくいことはない。おかげでカメラを落としてレンズが壊れた。親父は認めないが、後で考えると、私の背後の入り口のガラス戸に写る様子を眺めていたに違いがない。それにしても、別に撮影した他の海女はほとんど半裸なのにかかわらず、主役の初江がブラジャーをしている。さすがにブラジャーなしで、と実家で、両親の前で言う訳にもいかない。 完成した後、親父と飲んでいたら、初栄に電話して「お前、海女がブラジャーしてるなんておかしいだろ」なんていっている。終わったと思って。だったら撮影している時にいってくれ、という話である。 三島が様々な状況で死んでいる『三島由起夫へのオマージュ 男の死』の個展で発表後、数年経って眺めていたら、やはりブラジャーに違和感がある。すでに結婚し、子供もいる初江に許可をもらった上でブラジャーを取り外した。今回HPを作るにあたり久しぶりに見たが、どうやったのか思い出せない。私の制作上の秘訣はひたすら祈ることではある。

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とりあえず作家シリーズのカラー作品はたいした数ではないけれど、なんとなく近作はHPに収めた。考えてみれば、一カットに何日もかけていれば作品数は多くない。この調子だと制作可能な作品はたかがしれているだろう。 それにしても。誰がやっても簡単だ、といわれて自分で始めてみたHPだが、私には難しい。今のところたいしたことはできていない。SEO対策などといわれてもよく判らないので、まだ検索してもでてこないだろう。そもそも周囲に聞こうにも、スマホを持っているなら良いほうで、発信すべきことなど何もない、とHPを持っている人間など珍しい。誰でもやってるし簡単だとは、いったいどこの誰がいってるんだ、と文句をいったら、それは我々の孫の世代だ、といわれた。そんな状態ではあるが、当ブログに訪問いただいた方に こちらを。HP 7月25日からの個展用に作品を選ばなければならない。合成していなかったころのモノクローム作品が多くなるから、いずれその時代の作品もアップしていきたい。昔を振り返って思い出してきたのは、1999年のオイルプリントの1日だけの初披露の時に、8×10インチのカメラによるネガと、イメージセッターによる製版フィルムを使っていたことで、翌年のピクトリアリズム展の時は、合成により制作したネガをすでに使っていた。写真家になるつもりもないド素人の私が人形制作を放ったらかしにして、ただやってみたいだけでチャレンジしていたものだから、その罪悪感に耐えるためには昔のピクトリアリズム作家を倒すくらいの気概をもってやっていた。同じことをしていても連中に勝てないことは明白であったが、昔の作家で人形を被写体としてきた作家もいなかったが、さらに野島康三もフォトショップなど使えなかったのだ、ザマアミロと思っていた。身の程知らずも甚だしいが、考えてみると、私は常に身の程や分別を知る前にしでかしてきた。 架空の人物を作っていたころは、かたくなに人体の実際を知ろうとしなかったし、オイルプリントの制作を成功して以降は写真から学ぶことは一切止めた。身の程や分別を知ってしまってからでは何もできない。情報過多の時代、そこから身を守ることも大事だと考えてきた。一度入った物は出て行かない。ウイルス対策は大事である。

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私がいう“外側にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想”について友人と話す。 明治時代の御船千鶴子の千里眼実験じゃないけど、四方をコンクリートに囲まれた刑務所に閉じ込められ、粘土や絵の具などの材料に、カメラ、パソコン(不正防止のためネットには接続せず)を持ち込ませて貰ったら、いつもとたいしてクオリテイーの変わらない作品を持って出て来るぜ。ただし実在した人物を扱うなら写真資料、空や海その他のデータが入ったメモリー1つ、田村写真の田村政実氏との面会が条件。 環境はどうでも良いけど、外光が入る窓が、できれば隣り合った二面の壁にそれぞれあればベストだが、まあ一つあれば良い。ただ所内の作業は免除と願いたいね。そもそも念写実験の為に入ってるんで、罪を犯したわけじゃないし、溶接で一つ140円でベランダの物干を作っていた頃、いずれ160円になるはずだったのに、刑務所が同じ物を作っていたせいで4年間、最後まで140円のままだった。20円の恨みは深いぜ。出所の翌週には、出所祝いを兼ねた実験結果披露の個展をやるというのもいいね。

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HPを自分で作らなくても、といわれるが、18年前にも自分で作っている。できなくはないだろう。テキストやサムネールから画像が開いたりとかできれば良いのだろうが、今のところ一切できず、ダラダラとただ画像が並んでいるような、愛想のない物になっているだろう。それでも昔と違って高画質な画像を並べられるので気分は良い。良い悪いを別にすれば他所では見られない物であることには違いないだろう。 個展の最中に、友人が何か作っている若者を連れてきたが、人がやっていない物を作ろうと志した場合、それは要らないから無いのだ、ということに、思い至らないのがコツである。という私の創作上のとっておきのコツを教えてしまった。これは馬鹿なら可能だが、残念ながらそうでない場合、雑念を払うには火もまた涼しいくらいの集中力が必要である。私の場合、子供の時は難聴を疑われたくらい好きなことをやっていると集中したものだが、あの頃より知ってはいけないことを知ってしまっているので、その雑念を払うために、集中力はむしろ高まっている。人によっては、それは単に現実からの逃避だ、などと私を笑わそうとして面白いことをいう人がいるが。何がどうだろうと、作品さえ良くなっていけばそれで良いだろう。

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結局、クリックすると画像が大きくなる訳でもなく、愛想も何もないが、とりあえず最近作をただ並べただけのHPはできた。それにしても新たな常識に自分を合わせるというのは大変である。一日やってまるで進展せず。テキストも何もなく。とりあえずは何が何してどうなったという類のものは極力載せない方向で、と考えている。御託を並べるのは当ブログで十分であろう。いずれ仕組みを理解したら作り変えれば良い。どうせまた旧くなってしまうものであろうし。ただスマホで見やすいのと高画質が良い。公開はしたが、まだ検索には反映させていない。 以前サンディエゴ写真美術館館長デボラ・クラチコさんに作品を見てもらった時に、私の作った日本人作家でご存知だったのは三島由紀夫だけだった気がする。三島作品は随分在るのでまずは三島を、とアップしていたら、こんな作品が出て来た。三島由紀夫へのオマージュ展男の死に唐獅子牡丹とともに間に合わずにその後制作した作品である。それは三島の作中に出て来る死の場面や、言及していることがらから様々に状況で三島に死んで貰っているのだが。例えば中井英夫は三島が一番好きだったのはエレベーターボーイの金釦が並んだ白い制服で、それにひきかえ楯の会の制服は、と嫌っていた。そういわれればかなり反映していた気もする。そこでエレベーターボーイになって、エレベーター内で射殺されてもらった。このシリーズは三島にウケることしか考えていない。久しぶりに出て来たのは、祭りの死である。若者の中で神輿を担ぎながら恍惚として死んでいる。最近は肖像権に対してうるさく、スナップ写真家は大変だろう。この作品は半纏に町名が入っているし、こんなにアップで、と思われるだろうが、全員、目鼻を入れ替えている。つまり俺風だけどお前みたいでもあり、いかにも居そうだが、存在していない連中なのである。ホントのことなどどうでも良い私である。ついでにいえば、エレベーターも事実とは大分違う。いかにも警官あがりのガードマンに二回も叱られたせいで一応気を使った。


鴨沢祐仁とイナガキタルホの世界:5月19日(土)~6月3日(日)12時~19時/月曜休み
場所:ビリケンギャラリー 東京都港区南青山5-17-6-101
TEL 03-3400-2214

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ようやくコツが判って来て画像も最近作を中心に大分アップ出来た。やはり出来てみれば私の理解不足であり、昔の経験があったので何とか耐えた。こんな高画質で表示できるなんていうのは、今さらながら隔世の感がある。ただせっかく高画像を使っていても、今の状態ではスマホで拡大が出来ない状態らしい。まだまだ判らないことだらけだが、最初から完成させるなんて考えない方が良いことも前回の経験で判っている。2000年にHPを立ち上げた時オイルプリントの技法公開が目的であったし、すでに作家シリーズ時代であったから、それ以前のジャズ、ブルースシリーズは写真こそアップしたが、終わったことだと、結構ないがしろにしてしまっている。合成していない時代のモノクロシリーズの個展があるので、終了後に、それもアップしたいとは思っている。それにしても過去の作品に対して私は冷たい。もっともそれで良いので、いつまでも昔の作品を撫でさすっているようでは仕方がない。人生というものは、夏休みのアルバイトと同じで、慣れた頃に夏休みは終わる、と常に考えているが、慣れて良いことと悪いことがあるだろう。夏休みを長引かせるのは自分が変化し続けることしかない。HPなど作っていると客観的になれるものである。

鴨沢祐仁とイナガキタルホの世界:5月19日(土)~6月3日(日)12時~19時/月曜休み
場所:ビリケンギャラリー 東京都港区南青山5-17-6-101
TEL 03-3400-2214

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