明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



まずは蘭渓道隆と、水石による背景の制作だが、前回はほとんどが遠景だったが、今回は違う。チェックしてみると、虎溪三笑図で使えた庭園の岩も、そうなると使えそうにない。なのでまずは蘭渓道隆の、天童山と想定する背景と、面壁坐禅する巌窟の奥の壁から外に向かう背景を作った方が良さそうである。陰影があったら巌窟の奥で、面壁していたら真っ暗で表情どころではないだろう。 背景を先に用意して、それに主役を合わせるというのは、見るべき場所が少ない都営地下鉄周辺を表紙にするために、都営地下鉄のフリーペーパーで編み出した私の大リーグボール2号である。おかげで、軍医総監姿の森本鴎外を、年齢を逆サバ読んで入学した東京医科大学の前に立たせたし、天童山の巌窟で蘭渓道隆師に面壁坐禅をしていただくことも、おそらく可能だろう。上空には法の雨を降らす龍を。


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今月中に撮影を開始することが出来そうである。被写体である人形の制作体数の割に時間がかかったが、それは何より、肖像画である頂相、あるいは頂相彫刻が、それ自体が師、また師の教えそのものである、として作られて来たことに対する重さによる。人形や彫刻などの人像表現の究極である、という思いを改めて強く持った。 鍵っ子だった私は、当時の百科事典ブームのおかげて中井英夫が編纂の百科事典の、別巻の日本の美術のなかの頂相や頂相彫刻のリアルさに飽きずに眺めたのは、幼い私にも何か感じる物があったのは間違いがない。何故ならギリシャ彫刻などでは、見向きもせず。しいていうならシュールレアリズム絵画に、世に生まれ出でて間がないクセに、明らかに郷愁としかいいようのない物を感じたことだろうか。 半ズボンで畳に腹ばいで眺めた頂相彫刻あの時の私を思い出すと、様々な局面で、その度選択してここまで来たつもりでいるが、果たしてそうなのか?と思わないでもない。

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『蘭渓道隆天童山坐禅図』は背景に岩壁が迫る予定だが、そこを瀑布が縦に流れ落ちる。いずれ使うこともあるだろう、と一応滝のデータがあるのだが。長年〝夜の夢こそまこと”なんてやって来たものだから、そのおかげでホントのことが土俵から追い出されていき、ホントのことが合わなくてなって来た。まさに自業自得。イヤそれで良いのだが。 滝が流れ落ちる山も、手のひらに乗る石ころを使う。久しぶりに庭園の岩のデータを見たら、それも合わなくなっており、もう中国の深山風景は石ころでないとダメになってしまったかもしれない。ホンモノの石ころを〝まことを写す“写真機を使って撮る。絵のように見えるけれど、輪郭線だけはない。

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まだ出来てはいないが、出品作は決まったので、キャプションを考える。歴史上のことや人物の敬称など、最終的にお寺のどなたかに、チェックしていただく必要があるだろう。そういえば97年、作家シリーズ初個展の時、江戸川乱歩のご長男、平井隆太郎先生に来ていただいたが、先生の前で、父乱歩のことを、何と呼べば良いのか、口にしてからコンマ何秒悩んだのを思い出す。先生には個展タイトルに〝夜の夢こそまこと”を使う許可を事前にいただいたが、初出版も『乱歩 夜の夢こそまこと』だったし、結局私に一生ついて回ることになりそうである。それは頭に浮かんだイメージはどこへ行ってしまうんだろう、と思い悩んだ鍵っ子時代に始まっている。今回も、私の頭の中に確かに在った。と確認することになるだろう。

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蘭渓道隆像は、生前に描かれ、本人の賛まで書かれているものが残されているのなら、それが実像に近いだろう、私は素直にそう思うが、様々な時代に作られた像は、顔もそれぞれである。しかし私とは解釈の違いがあり気が付かなかったのだが、私と同じ試みをしている先達に気がついた。 あの人の顔は◯◯だ、という時、意見の相違が生じるのは、その人物のどこを見ているかによるだろう。陰影のない肖像画は、解釈の幅がある。 浮世絵の役者絵や美人画は、陰影のある肖像を見慣れた現代人からすると、皆んな同じような顔に見える。しかし陰影のない肖像が当たり前の時代には、人物の個性がちゃんと描かれているように見え、ファンはこぞって買い求めた。 先達といっても、ご本人にお会いしたことがない、という意味においては私と条件は一緒である。私も平面の画像からずっと人物を立体化して来た。譲る気はない。よって、あの像の作者の正体は調べないでおきたい。

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帆柱  


『半憎坊荒海祈祷図』の半憎坊が雷鳴轟くシナ海において、刀印を結び呪文を唱え、すっくと立つ帆柱を作る。嵐の中、帆は下ろしているだろうから、滑車の付いたただの円柱だが。荒天の背景はこう作ろう、と構想だけは頭にあるが、果たして上手く行くかどうか。いずれにしても昭和30年代東映痛快時代劇調で行きたい。白馬童子は鉄砲の弾を刀で避けていた。大川橋蔵だとばかり思っていたのだが。 続いて蘭渓道隆の合掌する腕の仕上げ。人間大あるいはそれ以上になるので、初めて指の関節部分の皺を作る。次からはそう作ることになるか。40数年、こうして、ほんの少しづつ変化して来た。蘭渓道隆は中国から持ち込み、自ら植えたビャクシンの樹が、建長寺で今や大樹となった。その七百数十年を想い合掌している。歴史の再現ではなく、今だからこそ可能なイメージ作品となる予定。

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母のホームに行く前に、お菓子でも買って行こうと思って家を出たが、人が出歩く気温ではない。買わずにタクシーに乗ってしまった。次に展示を予定している寺に行ったことがあるといっていたので、和尚様のサインを頂いた本を持って行った。96歳。大分ボケて来たが、幸せだというから何よりである。終わり良ければ全て良しである。 禅師2人の法衣は現在の物とは一部違っていて、どうなっているのか判らず着彩に入れずにいたが、鎌倉時代の彫刻にその部分が写っている写真を見つけた。初個展で私が作ったピアノの鍵盤を数えている少女がとんだトラウマになったが、以来、薮の中で息を潜めている一匹の豹のような目が、お前判ってないな?と見ている気がしてならない。そんな目を、そこまでやったか、と呆れさせたら私の勝ちだと思っている。

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制作中の作品は、今まで制作して来た物とは趣の違いを感じるが、数百年間手付かずのモチーフを1人手がけている孤独感は格別である。先日、酔っ払いに自己満足だといわれたが、自分が満足していないものを人に見せるほど図々しくなく、ツラの皮も厚くない。実に楽しそうに見えるかもしれないが、私は飼っていた金魚が死んだり糠味噌がダメになったことはいちいち書かない。 21の時、この決断を後悔としないためにあと何十年かかるものか。見上げた岐阜の製陶工場の天井を未だ覚えているが、後悔にしなかった、間違いなくこれで良かったのだ、と自己満足を感じたのは、ついこの間のことである。簡単に自己満足というが、簡単に満足行くなら話は早い。人生は一回限りだし。

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『東アジアのなかの建長寺』村井章介編(勉誠出版)の中に各地に残る蘭渓道隆像、絵画が11点立体像が18点が掲載されている。初めて宗より本格的禅を日本にもたらせた人物だけある。 そのうち絵画は、おおよそ私も参考にした、生前に描かれた頂相を元にしていると思われ、地方から建長寺を訪れ写している。しかし立体像となるとそうはならず、参考に制作されたのは一点もないように見える。これはいったい何故なのだろう。建長寺で木を刻んだり、模刻が許されなかったとしても、絵画を写すことが出来たのなら、それを元に制作すれば良かったと思うのだが。 私が松尾芭蕉を作った時、門弟が描いた肖像画が無視されて来たので、門弟の作品のみを元に制作したが、建長寺の木像さえも、生前描かれた肖像画を元に制作していないように見えたので、斜め45度向いた肖像画の立体化を試みた。一番見たかった正面の顔だが、どうせなら面壁坐禅図にするつもりでいる。

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蘭渓道隆師3カット目は、手植えした建長寺のビャクシンの樹が大樹となった七百数十年を想い、合掌する予定である。この場合数珠を手にするべきかどうか。数珠の持ち方も宗派によって違う。幸い質問させていただける方のお陰で、この場合、数珠は不要とのこと。 3カットは、それぞれ個人的にテーマを担わせている。『天童山坐禅図』は長辺2メートル超のサイズで天童山山中の風景の中に描く。2 『面壁坐禅図』斜め45度の肖像画から立体化した。正面を向かせ、面壁坐禅を壁側から描く。3 『ビャクシンの樹』参考にした肖像画とほぼ同じ向きにして、肖像画を参考にしたことを示し、さらに腰から上のアップとし、人間大あるいはそれ以上に拡大する。

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臨済宗中興の祖といわれる江戸中期の白隠禅師、曰く。〝私達は本来仏なのである。それは水と氷の関係のようなもので水がないと氷ができないように私達以外に仏はあり得ないのである。ところが、私達が仏であるにもかかわらず自分の外に仏があると思ってあちこち探し回っている。それは水の中にいて喉が渇いたと叫んでいるようなものである。” 私が外側にレンズを向ける写真という手法に、長らく興味が持てなかった理由と、自分で作った物を撮ることにより眉間にレンズを当てる念写が可能になり、なくてはならないものに変じた理由もここに書かれている。そして何よりその挙句に、よりによって、このようなことを説く人達をモチーフに念写を試みている私。なんともはや。

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スケッチブックに描くと、うっかり描いた物が越えられないことが多く、すぐイメージが決まって良いようだけれど、もっと良い物が出来る可能性が失われるような気がして、一切描かないことにしていた。しかし今回は同時に、背景を作ることも考えるとスケッチが必要となった。さすがに簡単には決まらず2転3転、4転。必要な背景用水石を入手したり。そう考えると、今までやって来たことを、すべて投入することになりそうである。それはともかく。 この面倒臭がりが、2年近くかけてようやく撮影に入れる。一般の写真家が、明日は撮影に出かけよう、という状態になって来た訳で、出所後の、一杯のビールのためにム所に入っていた高倉健のような状態である。

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そろそろお馴染みの現象が起き始めた。夢の中でも制作のことを考えている。寝る前に出品作を書き出していた。蘭渓道隆は3作のうち2作が坐禅姿である。真正面を向いてる方は、見る人側が壁という設定の面壁坐禅図である。なのであえて示しておこう、と〝面壁“を入れることにした。もう一作は、背景は見上げる山が迫っている予定である。坐禅図として寝たが、寝てもそれを考えていたようである。 2作とも来日前という設定である。目が覚め、続きを考えたが、思い切って蘭街道流が修行し、日本からやって来た栄西や道元も修行をした天童山ということにしよう。『蘭渓道隆天童山坐禅図』とすることにした。夢の中で悩んだせいか、ここで天童山とは私としては随分思い切った。思い切りついでに長辺2メートル32センチのプリントに。

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ヤフオクで落札した水石届く。ためつすがめつ、蘭渓道隆が岩山の中腹の坐禅窟、後ろには切り立った見上げる山並み。月下達磨図の巌窟、蘭渓道隆面壁坐禅図の座禅窟。それらの遠景近景、二種の石質ですべてカバー出来るだろう。盆栽、水石ともに自然をコンパクトに表現した物を、水で戻すかのように大自然化。確かに昔からどんな手でも使うぜ、とはいっていた私ではあった。 いずれ手掛けるであろう山中の寒山拾得は、曽我蕭白の奇岩を思うと水石を使わず、作るべきだろう。蕭白に対抗意識を燃やす必要はないけれど、あの結晶のような奇岩自体が寒山拾得そのもののようである。背景に人物の想い、イメージその他を託すことを日本人は良く使う。

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達磨大師の坐禅図を随分見たが、ほとんどの達磨大師は面壁しておらず、していても、せいぜい雪舟同様真横を向いている。今のところ面壁坐禅を、壁側から描いた坐禅図は見つからない。ない訳はない。誰が考えたって面壁する坐禅姿を真正面から描くにはこれしかない。何時代の誰が描いた物かは知らないけれど、探し出して「あんたの気持ちは判る、それしかやりようないよな。」と、肩を叩きたいだけだが。 英一蝶が『朝暾曳馬図(ちょうとんえいばず)」』で川面に映る影を描いたのが、日本人が始めて描いた陰影という説がある。小学校低学年の私も川面に映るボートの影を描いたくらいだから、記録に残る中で、という意味だろうが。私は以来〝子供の絵じゃない“といわれ続けロクな目に合わなかった。あんたも、遊びが過ぎたか島流しにあったり大変だったな。

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