明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



大覚禅師(蘭渓道隆)部屋に放っておいても乾燥が進む、🌩️台から切り離して大まかな仕上げをし、退院後に仕上げを済ませ、着色すれば、すでに構図は決まっているので、撮影して切り抜いて合成すれば、一休和尚に次いで新たなシリーズの二作目が完成する。立つべき岩山は、手持ちの刺々しい石を使う。新シリーズは、鎌倉時代の人物を、デジカメで撮りました、という感じでかえって良いので、和紙プリントじゃない方が良さそうである。どの口がいってる?という話しだが、制作していて面白ければ良いので、前言撤回どころか、踏み絵ので上でツイストを踊りかねない私なのであった。



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大覚禅師(蘭渓道隆)立像は広い空を背景に、長辺150センチのプリントにする予定だが、それでも主役をできるだけ大きく、と考えてしまい、広角撮影の背景を随分トリミングすることになった。見せたい所を大きくというのは人情である。いったん乾燥に入る。 予定では上野動物園に鹿を撮りに行き、円覚寺開山、無学祖元師の周りに白鹿を配そうと考えていたが、母が亡くなったり、私も入院を控えていたりで予定通りには行かず。しかも共演がコントロール不可の生き物なので、主役を先に撮っておいて、とはいかない。 前回虎を撮りに行ったが、小学校低学年の頃『ジャングルブック』に猛獣が人間の目を恐れる、と書いてあったのを真に受け、上野動物園で虎やライオンを睨んで回った時は、ぐうたらしているイメージであったが、ずっと落ち着きなく歩きっぱなしで、仕方ないので帰ってからバラバラにして寝転がした。ネコ科にはいつも苦労する。

四睡図

 



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写真制作を始めて、そのほとんどをまことを写す、という意味の写真に争い続けて来た気がするが、一回りして、また元の世界に戻ってきた。といっても戻る条件が、写真どころ陰影を与えられたことのない時代の人物である。変わることこそ生きている証ではあるが、鎌倉、室町時代の人物に、陰翳を与えるというテーマにたどり着くために年月を費やして来たということなのだろうか。考えても仕方のないことだが、只今制作中の最新作の完成が、もっとも楽しみである。作っている本人は過去の作品の方が良いと思ったことは一度もない。新作は目が慣れていないからだ、という可能性は大いにあるけれど。 今後、実景や陰翳を撮影しようと、デジタルやAIが盛んになろうと、主役は相変わらず粘土感丸出しの自作の人物である。これを変える気はないし、いずれ効いてくるだろう。



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ここ十年弱、陰翳を排した手法の制作中は、実物の空や水の輝きなどとずっと無縁であったので、大げさにいうとパラレルワールドから久しぶりに帰ってきた感がある。帰ったといっても設定は鎌倉時代だが。蘭渓道隆の背景は雲に劇的な表情がある青空にしたい。私の場合、全てが主役の表情のためにあるので、モノクロ時代は定かではないが、逆光で沈む夕日を使った記憶がない。尖った岩山に立たせることを考えると、つい強風に法衣をなびかせたくなるが、荒天の中、帆柱の先端に立ち法力を発揮する半僧坊と違って、蘭渓道隆の強く落ち着いた内面を強調するため、背景の雲には表情があるが、それに対して法衣はピクリとも風の影響は与えないことにした。

半僧坊



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新たに始めることになった“写真どころか陰影が与えられたことがない時代の人物に陰翳を与えるシリーズ“(仮)1作目の一休禅師に次ぐ2作目の大覚禅師こと蘭渓道隆の背景は、禅師に光を与えるため順光の青空を予定している。どの口がいってる?というこの切り替えの早さは自分でも呆れるほどだが、こちらが面白いとなれば構うことはない。ただし小学生の時『巨人の星』を観ていて、一人に打たれたからといっても、各大リーグボールを投げ分ければ良いではないか?と思ったように、使い分けようと考えている。例えば陰影のない手法だと、スーパーのチラシ調にならずに無背景が使える。これは捨て難い。 いずれ葛飾北斎、松尾芭蕉も陰翳たっぷりに撮影するつもりでいる。特に北斎は是非『蛸と海女』用の海女を深夜、行燈やひょそくの灯りでスケッチさせたい。



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○○からすべてを学んだ的ないい方があるが、その例えでいえば、私の場合、作って来た人物に学んだ、といってもいい過ぎではない。小学校で図書室と出会って以来の人物伝好き。始業のチャイムが鳴っても出て来ず騒ぎになった。見て来たように書いてあるから、現場を見ていた人が書いている、と思い込んでいた。昭和30年代の木造の図書室には戦前教育の残り香があり、大分騙されたが、そこらを歩いているような大人とは違うキャラクターに夢中になった。    長らく続けた作家シリーズでは、この世にいない人物ばかりだったが、本人に見せてウケたい、と思って制作していた。創作とはいえ失礼があってはならず〝対話“が不可欠であった。このおかげで単に制作上のモチーフとはならなかったように思う。 禅宗関連の人物を手掛けるようになり、〝自分とは何か“をダイレクトに問われる機会が増えた。特に一休和尚には。

 

 



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蘭渓道隆の立ち姿を制作している。作りながらどういう画にするか考えるのだが空を背景に、中国の山の頂上と思しき鋭角的岩の先端に立ち、遠くを見つめる姿を思い付いた。日本は文化は発展してはいるが、未だ本格的禅が伝わっていないことを日本からの留学僧に教えられ、日本へ禅を伝える意を固め遠い国に思いを馳せている。あるいは真理について。そんなイメージである。 陰翳を排除するようになってから、どうしても長焦点レンズ的画面になっていたが、陰翳を与える、と決めた途端、カメラを手にして七百数十年前の高僧を撮影したなら?という去年の年末まで考えもしなかった単純にして明快なことに。 巳年というのは新たに脱皮するという意味があるそうだが、それにしたって脱皮し過ぎな気がしないでもないが“考えるな感じろ“で行くことに決めているので、臍下三寸辺りの私に従うだけである。



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ついこの間まで、かつての日本人は、何故陰翳を描かなかったのか、と考え“光源が一灯の世界と違い、日本には便所にまで神様がいる多光源の国である。その数八百万といわれ、これでは陰翳のできるはずがない“といっていたはずだったが、今は七百数十年前に、宗時代の中国より日本に初めて本格的禅を伝えた人物に、陰翳を与えようとしている。 人間、変化してこそ生きている証となる。とは思うものの、長い旅路の果てにようやく目的地にたどり着いた。と思うと砂漠の逃げ水のように遠ざかる。これはどうも私がずっと恐れてきた、死の床で、あれを作りたかった、これも作れば良かった、と後悔に身を捩って苦しむことは避けられない、ということらしい。江戸時代の長命だった某絵師も、あと十年生きられたら、と未練を抱えて死んでいった。

 

 



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大覚禅師こと蘭渓道隆は、生前描かれた国宝の坐像を見ると華奢なようで肩幅が広い。そのバランスで全身を作ると、すらっとした人物に作りたくなる。建長寺には『径行図』という立ち姿が残されている。それを見ると背は低い。頭部の感じから、私同様、国宝の頂相をもとに後年描かれた物だろう。しかし頂相が描かれ七百数十年経っている私と違い、容姿、背の高さなどについて伝わっていただろう。つまり背の高さのわりに肩幅が広い人物と判断し、芯材を大きくカットした。 ジャズ、ブルースシリーズから作家シリーズに転向した時、長らく黒人のバランスに馴染んできたので、澁澤龍彦を作りながら、これは昭和3年生まれの日本人なのだ、といい聞かせながら、脚を3回ほど切断したのを思い出した。



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昨年暮れに母が亡くなって予定より遅れてしまったが、蘭渓道隆師の立像、法然上人の頭部を同時に制作を始めている。蘭渓道隆は何気なく立っている図であるが、写真作品として陰翳(立体感)を与えることで充分であり、極シンプルに行きたい。 法然上人はおそらく座像にすると思うが『二祖対面図』というものが残されている。善導大師と法然上人の夢の中での出会いの場面で、法然上人が念仏往生の教えを継承した証を描いている。昨晩、これを立体で描けないか、とよぎってしまった。前触れもなく棚から落ちるボタ餅のように、イメージが頭上から降るのを防ぐ、雨傘のようなものがあるなら私は四六時中さしたままで生活するだろう。



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肝心なことは後回し、ぐずぐずしている私だが、作ることになると決断は早く、先週まで、ほとんど考えもしなかった人物を今週は作る気になっていたりする。一休和尚が尊敬した人物に大徳寺の開山、大燈国師がいる。一休の横目でこちらを見ている肖像画は、おそらく大燈国師の横目の頂相をミーハー的に真似たのではないか?さらに悟りを開いた後に20年間、五条橋あたりで乞食の中で暮らしたという。それを知った時点で大人物の予感にその気になる。〝衣類や食物のために修行するな、理屈ではない。ひたすらに打ち込め。たった一人、ボロ小屋で野菜を煮て一日を過ごしたとしても、自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である“ 私はずっと他人ばかり作って来たが、その原動力は自分とは何か?であったことにようやく気付いた。



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正月も何もないのは相変わらずである。しかし世界情勢や景気がどうの、外側の世界がどうあろうと、体内に自分で快感物質を醸成することができるおかげで笑っていられる。子供の頃も、鉛筆やクレヨンを与えておけば大人しい、といわれていた。反面、温かい家族に囲まれた団欒を想像すると、ひどい孤独感に苛まれ続けることになっただろう。人は実にそれぞれである。 中学校の休み時間、小説を読んでいる間中映像が浮かび続ける私は、誰しもそうでないことを知って非常に驚いた。人間が頭に浮かんだ物を作るように出来ている、とするならば、浮かばなければ、作り残しで後悔することを恐れる必要はなくなる。2時間ぐらいその感覚を味わってみたい気もするが、ひきかえに件の快感物質も醸成されなくなるとなれば、まっぴらということになる。



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暮れから浄土宗の開祖法然上人を作っていて思った。紙幣に選ばれる人物の条件は詳細な写真が残っていることだそうだが、私もそう思って選んだ人物は、迫真の肖像を残す臨済宗の人物ということになった。しかし葛飾北斎、松尾芭蕉を作った時に思ったのは、線描画の方が、ディテールが描かれていない分、作る側の想像力を発揮する余地がある面白さがある。法然上人も同様である。となれば臨済宗に限ることもないような気がしてくる。 残された時間、いかに作るべき物を絞るべきか、と心がけているのに、新年早々、一体何を考えているのか。結局、私が恐れてきた、あれも作りたかった、これも、と後悔に苦しむのは仕方がない、ということなのだろうか。



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毎年大晦日はやれることをやったか?と確認する日にしている。死の床であれを作るんだった、これも作るんだった、と後悔するのを恐れたからだが、その原因が小四で読んだ『一休禅師』の〝門松は〜“だと気付き、陰影が描かれなかった鎌倉、室町時代の人間には逆に陰影を与えるべきだ、と気付かされたのも一休であった。その大人向け『一休禅師』を読んだって判る訳ないといいながら買ってくれた母が数日前に亡くなった。 また坐骨神経痛で寝込んだり、7年ぶりに風邪をひき、来月には冠動脈の手術。いい加減にしろ、という警告だろう。しかし私は他の事をせず、一つのことに集中してようやくこの程度である。 途中挫折を避けるため先の予定は3体まで、という名案も、一休和尚のせいで台無しとなり、制作すべきものが頭の中で渋滞している。そして来年も“人間頭に浮かんだものを作るようにできている。“という某脳科学者のいう仕組みに翻弄されることになるだろう。法然上人の“法然頭“を作りながらの年越しである。ホームの母は、長居すると”もう良いから帰って作りなさい“といった。



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以前作った臨済宗の開祖臨済義玄だが、この怒目憤拳の姿は中国で創作され、日本に伝えられ相当流布したらしく、様々な絵師が手がけている。私が作った時は調べても実像が判らなかったが、大徳寺に残されているものが実像とされているなら、全く別人で穏やかな表情である。蘭渓道隆、無学祖元、一休宗純を作ってみると、怒目墳拳版は並べるには違和感がある。並べるなら大徳寺版を立体化するべきだろう。来年の課題である。だいたい頂像というものは、無背景で記念写真のように斜め45度向いて座っているのが定型である。なので開祖臨済義玄も陰翳を与え、誰も見たことがない正面を向いてもらいたい。正面を向いたり立ち上がってもらいたい人物はいくらでもいる。



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