明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



仙人をあと二人ぐらいは、と思うのだが、これぞというターゲットが見つからない。その間、出来ている頭部の仕上げを進める。禅宗には、高僧を絵画や像として残す習慣があったようで、そのため後年想像を交え描かれた物と違いリアルな肖像が残されている。一休宗純もその一人で、有名な、ジロリとこちらを見る肖像画は、肖像画の傑作鏑木清方の『三遊亭圓朝像』に匹敵するだろう。同時にもう少し後年を描いているのか、いくらか歳を経たような木像があり、現在は痕跡しかないが、髭や髪など、本人の物を植えていたそうである。私も当然この二点を参考にする訳だが、年齢も違い、その違い見比べながら落としどころを模索している。 この一休は、竹竿にシヤレコウベ掲げて立つ姿しか予定していない。日本画のような無背景を考えているが、余裕があれば京都の街を背景に、というのも考えても良いだろう。小学4年頃、伝記を読んで私の頭に浮かんだ一休が目の前に現れる訳である。「あの時頭の中に在ったのはこれだよな?」



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古来より星の数ほど描かれて来た寒山拾得であるが、ほとんどが無邪気な笑顔で、不気味な笑いを浮かべているのは極僅かで、日本の絵師に影響を与えた顔輝作が元祖だろうか。岸田劉生の『麗子像』などにも影響を与えたといわれる。 急遽ラインナップに加えることになった一休禅師は、小学生の時、伝記を読み感心した”門松や、冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし“が急に想い出されたからであったが、そう思うと寒山と拾得の謎の笑いも目出度くもあり目出度くもなし、といえるのではないか。それこそが禅的であるのかは知らないが、私が惹かれた理由であり、無邪気な笑顔の寒山拾得など面白くも可笑しくもない。 陶芸家を志していた頃、最も好きだった陶芸家、河井寛次郎の詩に“鳥が選んだ枝 枝が待っていた鳥”というのがあり、これも十代終わり頃の私をいたく感心させた。 レスラーの巨人アンドレ・ザ・ジャイアントは普通の人間より歯の数が多かったそうだが、顔輝はニッと笑う寒山と拾得の歯を異様に多く並べる、という演出をしている、顔輝のどんな手でも使うぜ、とほくそ笑む様が浮かぶようである。



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中村不折の『虎渓三笑図』の隣に鉄拐仙人図を飾る。顔輝作に影響を受けた横顔で、分身を口から吐き出している場面である。盛り上がって参りました。縁もゆかりもない昔の絵師と同じモチーフを手掛ける同士のような親近感を感じたりして。鯉に乗った琴高仙人も飾りたい所だが、幅が一メートルを超えるサイズで、並べることが出来ないので、琴高仙人制作の際に掛け替えることにしよう。活け締めされた鯉にポーズを付けて撮影する際に見守って貰いたい。“今地球上でこんな事をしているのは私だけだろう“”私は何をバカバカしい事をしているのだ”と想う時、お馴染みの快感物質が脳内に溢れ出てくるが、決して素晴らしい事を成した時に湧き出る訳ではないところに私の人生上の問題がある。まあ蛸や鯉にポーズを付ける程度で喜んでいるのだから、不幸中の幸いといって良いのではないか。

 



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連休に備え、食料、粘土準備万端。部屋に閉じ籠もり、仙人など作り、社会人にはあるまじき生活を送ろうと企んでいたところ母の居るホームにクラスターが発生。職員含め七十人超、約三分の一だそうである。おかげでケアマネジャーはたった一人だそうで、電話の対応もアタフタしている。母も陽性となった。受け入れ病院もないままだが、幸い今の所平熱で無症状だそうである。昨年末に脚の炎症で入院し大晦日に退院したが、元旦に病院からクラスターが発生したと連絡があった。90過ぎて、まだ自力で歩く気でいて、その病院のリハビリが気に入って、勝手に退院を引き延ばしてそんなことになった。私の諦めの悪さは、間違いなく母譲りであろう。今回も悪運の強さを発揮してくれるのでは、と期待しているのだが。戦中も隅田川の近くで壊滅状態の中、聖路加病院の極近くだったおかげで、爆撃を免れている。良くも悪くも母のパーソナリティには戦中うずたかい戦死者の山を目にしている事が影響していることは間違いない。私に、少なくとも社会人のフリぐらい出来るよう、苦労したのだと最近つくづく思うのだが、ここに至ればもう良いだろう。仙人作っていても母は全く驚かないだろう。母だけは私の正体を知っている。その点父は、プロレスが唯一の共通話題だったが、猪木派の父は私が実は馬場派だった事も知らずに死んでいった。



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私も蛙如きに何をびびってるという話だが、気持ち悪いのは仕方がない。中国の故事に登場する三本脚のカエルの詳細が判明するにつけさらに悩む。 拙著『貝の穴に河童の居る事』で原作者の泉鏡花の独特の表現にビジュアル化に手こずり、極端な潔癖症でばい菌恐怖症である鏡花にお返ししてやろうと、河童の三郎に鏡花が恐れる蠅を三匹止まらせ、ついでに鼻水まで垂らしてやった。 それはともかく。舞台となった神社が勝浦にあったこともあり、親戚の南房総市の別荘を拠点に背景を撮影した。海辺と山深い雰囲気が極近場で撮影が出来ると踏んだ訳だが、ある滝で撮影していて、一匹のガマガエルを見付けた。私と違って子供の頃蛙に悪さしなかったのか、一緒に行った友人は平気で触っていたが、そのガマガエルが、身体の両サイドに、毒々しい太い朱色のラインがあった。しかし今、ガマガエルだヒキガエルだ、と検索しても、そんなカエルがまったく出て来ないのが不思議である。またある時。「カワウソだ!」の声にベランダを見ると、1メートくらいの物がパッと現れ消えた。ベランダにはアマガエルが沢山いたから、それでも食べようとしていたのか。私が見たのは1秒も無かったろう。確かに黒っぽい姿はカワウソそのものであったが、東京に帰って一週間程で、ニホンカワウソ絶滅の報を耳にした。まあそんなこともあるだろう、という程度の話ではある。



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写真の素人であった私が廃れた技法オイルプリントを独学で始めた頃、大正時代のピクトリアリズム作家、その多くが富裕なアマチュア層であったが、昔の連中は面白いことをしていやがる、と嫉妬し、さらに連中を倒す気概で挑んだ。写真の素人が人形制作を放って何をしている、という罪悪感に耐えるためである。 今手掛けているモチーフは、あまりに古典的だが、それにかこつけ、利用し、好き勝手な物を作ろうという企みである。しかしそれを令和の時代に、しかも写真でやろうというのだから、どんな卑怯な手を使おうと、何某か一矢報いたいところではある。とはいうものの、結局は今地球上でこんなことをしているのは私だけであろう、と一人夜中に想うとき、溢れ出す快感物質に浸りたいのである。 乱歩はいった”猟奇の徒よ、君等は 余りに猟奇者であり過ぎてはならない。何を言ってる。”煙草のパッケージの吸い過ぎに注意しましょうか?



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列仙伝・神仙伝を読んでいるところだが、モチーフとして日中の絵師に選ばれてきた話は、選りすぐりの話であることが判る。読んで面白くても、絵にして面白くなければ意味がない。というのは先達も私も、何世紀経とうが同じなんだな、という気がした。虎渓三笑図などは、特に名作というのは見覚えはないが、話を読んだだけで作る気になった。せいぜい今ある頭部の精度を上げながらモチーフを選んで行こう。 豊干禅師の乗る虎は本物を使ったり、作るにしてもリアルにしたくないが、だったらガマガエルも作るか? ホントとウソ、乱歩チルドレン?としてはあくまで面白い方を取るべきであろう。



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鉄拐仙人は、かなり古く登場した仙人である。老師に会いに行くに際し、口から分身である魂を吐き出し向かう。弟子に、七日経って帰らなければ抜け殻である身体を焼くように言い置いて行く、しかし弟子の母親が危篤になり、六日目に焼いて母親のもとに帰ってしまう。しかたなく鉄拐は傍らの脚の悪い乞食の死体に乗り移り蘇る。今日調べていたら、その後、結局脚の悪い乞食として、その後の渡世を生きたらしい。術など使い、横着するからだ、という話である。今のところ鉄拐仙人を最初に完成させたいと考えている。脚が悪いので鉄の杖をついているから鉄拐という。なのに木の杖をつくいい加減な鉄拐仙人像も多い。 いい加減ではない、といえば蝦蟇仙人に本物のガマガエルを使う件だが、幼なじみに金魚のことをメールするついでに、撮影中、蛙を押さえていてくれ、と頼んでみたが、ゴム手袋使っても良いから、といっても断られた。お互い、カエル、ザリガニ、虫達から見れば,アウシユビッツの極悪コンビに見えたことであろう。通称首切りバッタというのがいて,女の子の服の背中に噛みつかせ、引っ張ると、首だけが背中に。バカなバッタといったのは私だが、一匹じゃつまらない、といったのはお前だったはずだ。

 



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仙人を作るとなると道教は無視できないことになりそうだが、人形制作として面白く、撮影が面白いことが肝心なので、由来、出自にあまりこだわるべきではないだろう。そもそも仙人ともなると、由来も出自もすでに不明な事や物が多く、何故この老人が、こんな物を持ってこんなことをしているか、今となっては誰も知らないことが多く、かまうことはない。寒山拾得にしても、日本では年号ができたができないかくらいの話らしいし責任の持ちようがない。一つだけ気になり、消化不良気味なのは、寒山拾得詩の序に痩せていると書かれているのに多くは肥満体型として描かれ継がれてきたことである。寒山はたまに寺に現れては、拾得が竹筒に詰めた残飯を岩窟に持って帰る。肥りようがないと思うが、何を食っているから肥った痩せた、と生真面目に思うような対象ではない。一つ思うのは、あのアルカイックスマイルは、確かに肥満調であってこそではある。 



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江戸時代の絵草紙に、虎に乗った仙人を見つけた。豊干禅師と紛らわしい。その仙人は東照宮の陽明門にもいる。夫婦の虎に二匹の子虎がいたが、母親は殺され、不憫に思った鄭思遠(ていしえん)は二匹の子虎を飼うことにし、それを見た父虎は鄭思遠のもとに現れ以来、鄭思遠を乗せ、子虎は仙薬や衣服を運んだ。鄭思遠に拾われた二匹の子虎が寒山と拾得に見えなくもなく紛らわしい。 食料がほぼ尽きたので砂町銀座へ買い出し。帰宅すると粘土が届いていた。食料があり、粘土もある。他に何がいるというのか。これさえあれば問題はない。明日からもう一段ギアを入れ、明日中に次のターゲットも決めたい。 我が家の水槽は寒山拾得の出演メンバーを模した連中を集めるつもりが予定を外れ、カオス状態。まさか仙人だらけになるとは思わず。飼い主の状態を反映するらしい。



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虎と豊干と寒山と拾得が寄り添うように寝ている四睡図は星の数ほど描かれて来た。私の場合、今のところ寄り添うというより、絡み合った蛇が作る蛇玉のようにひとかたまりに絡み合うような状態をイメージしている。私は常にやり過ぎてしまうことは自覚しているが、最近手掛けるモチーフは何の遠慮も必要ない。そこも私を有頂天にしている。 豊干は貫禄を付けようと加工しているうちに、まぶたが重く垂れ下がった。それが好都合に、ちょっと、うつ向かせるだけで眼をつぶっているように見える。このように、首を様々傾け、効果的な表情を見付け、身体部分のポーズを決める。さらには写真作品の構図も決まることになる。何を置いても人物の表情が私の作品世界の中心である。人形を被写体として以来、ずっとそうしている。そのために背景の左右を反転させることくらいどうということはない。私が作った物ではないので、かまうことはないのである。 真を写すという意味の写真という言葉に抗い続けた旅路の果てにここに至る?



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数年前に猫を撮影し、耳と額と頰の部分に虎の模様を貼り付け、それ以外は猫を使い、虎を見たことがなかった時代の絵師の味を出そうと考えた『月に虎図』だが、竹も区内のささやかな竹林を撮影し、竹の子は季節を待って、八百屋の店先を撮影した。つまり寒山拾得以前に豊干の乗る虎を作っていた、ということで、その時の個展とは無関係であったが、我慢が出来ず作って出品した。しかし正直いうと、猫はマタタビの力を借りてもまったく思った通りにはなってくれず、これから豊干、寒山と拾得と寝ている『四睡図』など作る必要があることを考えると、作った方が良いのかな、と少々ウンザリではある。子供の頃、『ジャングルブック』の猛獣が人間の眼を畏れる場面を真に受け、上野動物園で、虎やライオンと睨めっこした私であるから、虎は知っている。それを知らないフリして作るのは面倒である。



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昨日の豊干禅師、虎を乗りこなす禅師というには少々貫禄不足、一日かけて貫禄を加えた。 首が貯まってきたので、この辺りで一体ぐらい完成させても良いか。作るなら鉄拐仙人だろう。 しかし一方で、一歩も外へ出ず、高田馬場の堀部安兵衛の如く、一ぺんに何体も作りまくってみたい気もする。こんなに首が貯まったことなどないので、そんなことはやったことがない。私の場合、一番楽しく盛り上がるのは、すでに首があり、ポーズを考え、撮影の仕方を考えながら…一挙に身体を作る時である。もう一人くらい首を作ってからでも良いかもしれない。



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仙人の一人に呂洞賓(りょどうひん)というのがいる。仙人としてはスターの一人である。雪村の龍の頭に乗る絵がすぐ浮かぶが、惹かれたのはむしろそれにかこつけ龍が作れるからではないか?それに手を染めたら、小学生の時に学芸会用なら堂々と学校で、キングギドラの頭みたいな物を作れる、という理由から八岐大蛇の人形劇をやった時と変わらないではないか?と鯉に乗る琴高仙人にしたのだが。三つ子の魂という奴である。 学生の時に、角徳利の口が龍になっているのを作り、使う前に同級生にあげてしまったが、使い勝手など考えていないから、酒が龍のヨダレのようにダラダラと、使い物にはならなかったようである。その次が王子様の三島由紀夫を噛み砕く西洋調の龍。 最初に作るはずであった豊干禅師の頭部をようやく作り始める。こちらは龍のライバル虎に乗っている。それがこんな顔で良いのか?だから良いのか?まあ、とりあえず。何度でも作れば良い。



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一日  


午前中、ようやく豊干禅師を作り始める。洗濯するなら今日らしいので洗濯も。本日は木場にあった煮込みの河本の常連仲間のMさんと会う。今年二回目。木場のサイゼリヤへ。ここでは以前、女将さんを偲んで二人でマグナム二本以上飲んで涙した。 河本には、制作も佳境に入った人形の頭部をポケットにいれて、手に粘土付けたまま飲みに出かけたものである。というわけで、貯まった頭部をすべて持って行った。慧遠法師、陶淵明、陸修静、鉄拐仙人、蝦蟇仙人、琴高仙人、一休宗純。二ヶ月前にはまさかのラインナップである。私もまだまだ何をしでかすか判らない。何よりである。ブルース・リーいうところの”考えるな感じろ“は、いわれなくとも知っていた。という訳で、やはり氷無しのホッピーで締めなくては、と二軒目へ。

 



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