明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



猛暑の中、出かけたついでに図書館へ。美術全集など眺めていると、浮世絵、かつての日本画の自由さを取り入れたい、と図書館に通ったものだが、今さらながら、手掛けている作品は、それを通り越して水墨画時代のモチーフである。友人にどうせならモノクロでやったらどうなんだ?といわれるが、確かに作るのが私でなければ私もそういうかもしれない。だがしかし、友人には繰り返し言ってるが、モノクロ写真は、被写体に自分で色を塗らなくて良い人専用の物である。写真が発明された時、最初からカラーであったら、わざわざモノクロにしただろうか?最近、昔の写真をAIだかでカラー化したものを見るが、それがどうした、という感じである。 東洋の山水画はドローン撮影したような縦パノラマみたいなものばかりで、風景が主役ならこれで良いが、私の場合は人物及びその表情のためにあるので、これでは使えない。人をみる角度で山並みも眺めることになるだろう。

 



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仙人には様々な種類があるようだが、物売り、乞食、医者などに紛れていたりするらしい。会える可能性が高いのが町の居酒屋だそうである。仙人は酒好きと相場が決まっている。 30年以上通った煮込み屋の、客の中に仙人が紛れていたとしたら、あれだ、というのが居た。グレーのソフト帽を被り白のワイシャツを着た、70前後の痩せた老人である。仕立て屋だと聞いた。夏の場面しか記憶にないのと、人と話している所、店への出入りするところの記憶もなく、気がつくと静かに飲んでいる。何故覚えているかというと、いつもお銚子に冷やしトマトで飲んでいる。いつの間にか来なくなったのだが、ところが店の人や常連に聞いても誰も知らない、という。仕立て屋というのは誰かに聞いたはずなのだが。むしろ、仕立て屋の幽霊だ、と言った方が話は早いかもしれない。上半身だけ見ると中年のサラリーマンで下はスカート穿いてる生き霊?もあらわれたから。何が現れても不思議ではない。



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背景の山々まで作ることことになったので、さすがに行き当たりばったりでは、全体のバランスが取れない。今回は普段やらない大まかなスケッチを描き、撮影時に迷わないようにしている。『慧可断臂図』の洞窟はおおよそ描いた。雪舟作のような顔に見える奇岩がある訳でもなく、相変わらず〝顔は人形の命です”スタイルである。 問題は『虎渓三笑図』である。山を降りないと誓った廬山は、いかにもな風景であり、その麓に虎渓があり、石橋がある。その石橋を超えないことにしていたのに話に夢中になり超えてしまったことに気付き笑い合う三人、私がしょっちゅう仕出かすことなので、戒めのためにも作って見たかった。私の場合は、粘土にさえ触れていなければ危険はないが。 それにしても1カットにどれだけ費やしているのか?これをこうしないと味わえない快楽を私にもたらさなければ、絶対に許す訳には行かない。それがたとえ俺のお袋でもな。(某レスラーのパクリ)もっとも快楽に限っていうならば元を取りはぐれた事は一度もないけれど。



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雪舟作の国宝『慧可断臂図』は明の画僧が描いたオリジナルが有るのが判ったが、その作品は洞穴の達磨大師に慧可が弟子入り志願しているだけで、手は着いていて、これでは腕を切り落として覚悟を示す、という意味となった『慧可断臂』ではない。断臂は雪舟の加えたアイデアなのだろか?  ネット上で子供時代の遊び習慣についてさまざまな情報が交換され、懐かしく見てるが、参加するには躊躇してしまう。ガキ大将はクリーニング屋の倅で、後で知ったが小学校ではチビの虐められっ子だったそうで、その反作用か、近所ではなかなかリーダーシップを発揮した。副リーダーは一つ下のペンキ屋の倅で何をやっても器用でアイデアマン。リーダーより背が高く、常に「背の順で決めようぜ。」といっては却下されていた。しかし夢中になった数々の遊びだが、ペンキ屋の倅の創作、または改造が加えられていた、という疑念が拭えず。たかが何丁目何番地周辺のことを、これが東京の下町の遊びや習慣でした、などとは、うかつにいえないのである。雪舟とペンキ屋の倅と一緒にしてはいけないけれど。



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国宝、雪舟の『慧可断臂図』にはやはり元の作品があった。明の画僧、戴進(たいしん)の「達磨至慧能六代祖師図」のなかの一点である。洞穴の達磨大師、背後の慧可。いずれも右を向いて、構図も似ている。中国に渡った雪舟が参考にしたのは明らかである。戴進の作は、洞窟内はさらに具体的でリアルである。気にいった点は、現代人の私が、ここで私なりの達磨大師を創作する意味はない、と判断し、通り一遍の達磨大師にしたのだが、明の時代の達磨大師が、どう解釈されていたのか判らないが、太鼓腹でもなく、色は黒いものの、普通の体格の男がフードを被ったように描かれている所である。断臂、つまり腕を切り落とし、覚悟を示す場面のはずだが、慧可は腕を切断していない。切断図としたのが、雪舟の工夫で、以後〝慧可断臂”が覚悟を示す、という意味になったのか?私は、雪舟の慧可が、覚悟、という割に、哀し気なのが納得出来ず表情を変えた。 戴進作は、緊張感において、雪舟作に遠く及ばず、私が興味を抱くこともなかったろう。撮影に入る前に、調べるべきことがあるかもしれない。



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集中していると、昨日のような仕組まれたような偶然が頻繁に起きるので、上の方で客観的存在がシナリオを書いているような気になることがある。しかしバブテスト系幼稚園卒園後、そのまま日曜学校に通わされたが、献金の10円が惜しくてしょうがない。当時駄菓子屋行けば10円で1日楽しめた。園長先生の話は、そんなことある訳ないだろ。とまともに聞いていられない。10円惜しさが、神様嫌いに拍車をかけていた。 奇跡というほどのことは起こらないものの、昨日のカラスの話程度のことは頻繁に起こる。それも私の頭脳に見切りを付け〝考えるな感じろ”で行くようになってから、というのは気が付いていた。 幼い頃『ブーフーウー』という3匹の子豚の着ぐるみ番組が大人気であった。それはお姉さんが、バックから3匹の人形を取り出し、クランクを回すと着ぐるみ芝居が始まったような気がするが、あのお姉さん程度の存在はいそうな気がしている。 中国は黄山の写真集2種到着。仙人が住むには相応しい風景。



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行き当たりばったり、考えずに感じた方が結果は良い、そんなことばかり言ってるので、当ブログの主題のようになってしまっているが、そうして降って来た物は必ず拾うことにしている。 小四になり、母にねだって買ってもらった大人向けの『一休禅師』の〝門松や冥土の旅の一里塚目出度くもあり目出度くもなし”にやたらと感心した私であった。曽我蛇足の一休像もインパクトがあった。昨年もしや、と思ったら一休も臨済宗だったことを知り、竹竿にシャレコウベ掲げた一休を作ってしまった。 当初、ポイントとなる門松も作ろうと思ったが、調べても当時の門松が良く判らない。ある日、縦長画面の上の方の竹竿のシャレコウベに、一匹のカラスがまとわりついていたらどうだろう?そこで、この時期カラスはどうしてる?と調べたら初鴉は正月の季語だという。これでダサいと思っていた門松は要らない。タイトルも『初鴉』としよう。よく出来た偶然である。ところがまだ先がある。1420年(応永27年)のある夜、一休は、カラスの鳴き声を聞いて、悟りを得た、という。出来過ぎにもほどがあろう。個展会場では、来廊者が当ブログを読んでいないな、と思ったら、すべて知った上でこうしたことにしておこう。

 



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『慧可断臂図』は達磨大師が洞窟内で壁に向かって座禅を組んでいるところに慧可が教えを乞う。その覚悟を己の腕を切り落とし示す。後に弟子入りを許され、それにより禅が中国に伝わることになる。 積雪の日に、洞窟の外にいる慧可に陰影がないのは当然として、洞窟内の達磨に松明だか油灯の灯りが当たり、陰影深い達磨と慧可とのコントラストもドラマチックだ、と一瞬考えたが、達磨大師は面壁座禅を九年の後、手足が腐り落ち、例の姿になる。そんな大師が、洞窟内が暗いから、と火を灯すか?と却下。洞窟奥にいる分、暗くするだけにした。 撮影前に、未だ脚本に手を加えているが、人形手持ちの私の大リーグボール1号は、三脚など一切使わず、街を歩きながら手ブレもかまわず、歩行者も画面に入れてしまえ、と撮り歩いたが、3号になり、脚本通りキッチリとアドリブは許さず、という手法に至った。いってみれば深作欣二から小津安二郎くらいの変化だ。変わるなら生きてるうちである。



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巨匠というのはどこまで行っても巨匠だろうが、明治ごろの風景画の巨匠には、人物画になると、私が言うのもなんだが、別人のようにショボくなる画家を散見する。以前、寒山拾得が表紙の墨絵の描き方みたいな本を入手した。著者はシリーズで沢山出しており、東京美術学校現芸大卒で、何人もの巨匠に師事、某大学教授を30年勤め、総理大臣賞、文化功労賞、勲章までもらっている。ところがその表紙の拾得のホウキを待つ手が、反対向きにひっくり返って描かれている。右手をひっくり返して左手につけている。こんな絵は小学校低学年の私でも描かなかった。まったく〝ボーッと生きてんじゃねぇ”と言う話である。編集者も編集者で、ご丁寧に本文にも載せている。仮に気付いたとして、「先生左手がさかさまです。」言いたくない気持ちもわかる?玉堂も何を教えたのだろう? 博物館に行くと、親から子へ、師匠から弟子へと伝わり、良くなって行くはずが、必ずしもそうでもなく、むしろ今では制作法も判らず、なんてこともあり、独学我流でも構わないや、と思ったものである。あのようなボンヤリしたのが歴史の間に挟まり、スムーズな発展を阻害して来たのであろう。うかつに信じてはいけないのは何もSNSやネットの世界だけではなく、手取り足取り、口伝えのアナログだろうと同じ事である。



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風狂  


昔、ジャズ、ブルースシリーズの頃、ある会社の製品に作品がパクられた。弁護士を立ててやめさせたが、その弁護士は「石塚さんの作品が素晴らしいからですよ。」と言った.慰めるつもりだったかもしれないが、それにムカムカしながら絶対違う、と思った。パクってやろう、という気にさせ、作られてしまう物を作った私も悪い。どうせ無くても良い物を作るからにはアンタッチャブルでなければならない。難しいから、大変だから、などではなく、もうパクる気すら起きない。それはバカバカしいから、くだらないからでもかまわない。むしろ望むところである。 風狂という言葉がある。一休宗純が、何故わざわざ戒律を破り、奇行を繰り返したのか?何故、寒山拾得など、禅画の登場人物が、しばしば汚らしい乞食のような姿で描かれて来たのか?喉元から、ちょこっと顔を出しそうな気がしている今日この頃である。単なる寝不足かもしれないけれど。今回寒山拾得と、シャレコウベを竹竿に捧げ持つ一休、そのシャレコウベを枕に酔い潰れる一休、この風狂ラインは大事にしなければならない。



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昨日書いた、オイルプリントについては、頭で止めようと思っているのに好奇心が勝ってしまった。しかし画が出た時点で本当に止めた。その内自分の作品を被写体とし、写真展をするようになり、それならアレがあったではないか、と引っ張りだしたのが、一日だけの99年、翌年2000年のビクトリアリズム展1であった。しかし早すぎた。この絵みたいな物はなんですか?とその出自を理解しないと、目に明かりが灯らない。毎日技法の説明ばかりしていた。そこで技法公開のためにH Pを作った(閉鎖中) それがデジタルの時代と共に反作用で、まさかの古典技法花盛りとなった。そこで実は以前こんなことしてました、と埃をはたいてやったのが、ハスノハナのグループ展であった。周りは女性ばかり、ブロムオイルや雑巾掛けまでいる有様。時代は変わるものである。 オイルプリントが私にもたらせたものは、頭で理解できなくても、やりたければやれ。つまり〝考えるな感じろ”である。それと私の大リーグボール三号たる、現在の陰影を排除した石塚式ビクトリアリズムの遠因となっている。役割は終えた。改良はしたが、私が考えた技法ではないし。 石塚式ピクトリアリズムの何が痛快か、というと、陰影を出さないで撮影し、切り抜いて配するだけなので首のかしげようがなく、やり方を聞かれることもない。オイルプリント初披露時のトラウマを自ら解消させた。



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写真の素人にもかかわらず、野島康三のブロムオイルに一目惚れした私は熱に浮かされたように神田の古書街に通い詰め、明治、大正期の油性顔料を用いる絵画主義、(ピクトリアリズム写真)を調べ、ブロムオイルの一つ手前のオイルプリントを独習した。発表するつもりもなく、人形を放っておいて、ただやってみたいだけでやっていたので、画が出れば止めよう、とハラハラしながらやっていた。友人等は私が写真、カメラ音痴なのを知っていたし、そんな私が、廃れてしまった技法をなどと、何を血迷ってる、と心配する始末。 昔はプロアマの感覚が今と違い、新しい技術は、富裕なアマチュア層が最新情報を取り入れていた。中には画家に対するコンプレックス丸出しの作家もおり、私はそんな作家をはじの方から倒すつもりでやっていた。そのぐらいの気概がないと罪悪感に耐えられなかった。大正時代、人物像を自ら作って、なんて作家はいなかったし、さらにパソコンで処理した印刷用フイルムをネガにし、連中はこんなことは出来なかった、ザマアミロ、と。 ところで撮影に向かうに際し、私の『慧可断臂図』は、雪舟のイメージの中には存在しなかったであろう、広角レンズ的画面にしようと考えている。浮世絵、日本画の、西洋画、写真にない自由を手に入れようと思ったが、何も昔の絵師のように平面的、何でも斜め45度にする必要はないのだ、とオイルプリントに孤軍奮闘していた頃を思い出した。今回違うことといえば、国宝を倒そうなどとは、爪の先程も考えていないことである。



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背景用の材料が届かない、と思ったら初めてのショップで、先払いとなっていた。 小川の流れなどはまだ策が思い付かないが、滝は墨汁を使い、反転して瀑布としたい。行燈の蝋燭の火、幽霊の人魂は墨汁の筆描きであった。墨汁というのは黒地に白絵の具より白地に百円ショップの墨汁の方が安上がりだ、というだけの理由である。それを撮影して反転する。陰影がないということは、それぞれのオブジェが影響をし合わないので、パズルのように配していけば良いはずである。 鯉に乗った琴高仙人は、空中高くジャンプさせようと思っていたが、それよりも、半分水中に没した様子の方がやり甲斐があり面白そうである。どうせ水飛沫は墨汁でやるぐらいしか策が浮かばない。これで高いハードルであった水も何とかなるかもしれない。 『虎渓三笑図』は手前から奥に、左から右へ慧遠 (えおん)、陸修静、陶淵明に。初めから複数人を想定して作ったことは案外ない。陶淵明も勝手に作りたかったが、小四に上がる時に、私があまりにも伝記の類いを読み続けているので、転校される先生に内緒で世界偉人伝をいただき、その記憶があった。もっとも李白と区別付かず。中国では詩人や武人は目と眉が吊り上がっている。先生にいただいたあの本をいつかは見つけ出したい。

 



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陰影のない作品では、瞳をデータで描くことにしている。手描きでは小さくて綺麗に描けないからだが、さらに茶色にしている。これは現実ではなく私の頭の中の住人である、と表明したくもあり。今回は灰色にしようかとも思っている。 仙人が住むような山といえば中国は安徽省の花崗岩が隆起した奇岩の景勝地、黄山だろう。最終的に作ることにしたのは、このイメージのためである。様々な施設に実物大の人工岩を樹脂で作る人に、包丁のような物で、岩のディテールを作る、と聞いたことがある。カッターでやってみよう。かつての日本画の空気遠近法も使ってみるが、さらに黄山といえば奇岩にまとわりつく雲である。仙人はかすみを食うというし。私も空気で腹を満たせないか、と昔何度となく練習したが、ゲップと共に終わった。 また厄介な親知らずのように斜めに生えた松。人工の風景には盆栽の松が似合うはずである。最初は職人が崖に斜めに生えてるような松を採取してくると聞いた。 画像は大谷崎には文部大臣賞クラスの盆栽が相応しい、と、やってみた作品である。

 



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寒山と拾得は、素人絵師の禅僧が描いたものから職業絵師まで様々生み出されて来たが、その中でも寒山拾得を特異な存在にしているのは中国の顔輝が由来(おそらく)の顔輝派と称され、いわゆる不気味な笑みを浮かべた寒山拾得を描いた連中である。顔輝作の蝦蟇鉄拐仙人も中国、日本の絵師に多くの追随者を生んだ。 代表的な絵師が天與清啓(てんよ せいけい)室町時代の禅僧。 建仁寺191世。 遣明使として二度渡明。 二度目は遣明正史として雪舟らを引き連れ明に渡った。)や狩野山雪で、これらがまた相当な不気味さである。曾我蕭白も含めても良いが、蕭白の場合は寒山拾得に限らず、すべからく気持ち悪いから、一緒くたには出来ないかもしれない。寒山拾得としては極一部で思いのほか少数である。しかしその笑みに惹かれながら、何派でもない私は、一味違う寒山拾得を作った。2人が寄り添い仲が良い様子も代表的なモチーフで、山雪、天與いずれも描いている。それ用のバストアップの寒山の身体を作る。

 



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