明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



豊洲新市場問題で批判の的である石原慎太郎は、舌が滑るというより意識して暴言を吐くようである。私の石原嫌いは年期が入っている。母が書店の袋に入ったままタンスに隠していた『スパルタ教育』を、敵の作戦を知るため、母より先に読んでしまった12歳以来である。 三島由起夫関連本を読むと石原という人物は、つくづく三島を虐めるのが得意である。初対面では「思ったより小さいですね」。三島が芝居に出れば「足が震えてましたね」。尊敬はしているようだが、三島がもっともいわれたくないことを口にする。対談の席に三島が(たまたまみたいな顔をして)日本刀を持参し居合いを披露すると梁に刀が刺さってしまう。「実戦だったら三島さん死んでますよ」。三島「君はこれをヨソでいうんだろうなあ」いってるから私も知っている。 しかしこんな私も石原に期待したことがある。交通局の出していた都営地下鉄に置かれるフリ一ペ一パ一で古今亭志ん生を特集することになり、火焔太鼓を配達途中に酒を飲んでしまっている志ん生を作った。志ん生といえばお銚子にコップと決まっている。無事デ一タを送信し、志ん生の背景の店に飲みに行こうとしたら、交通局から飲酒表現はNGとのお達しがあった、との連絡。揉めたあげくに都知事の判断を仰ごうという呆れた展開。しかし丁度新銀行東京というデタラメな金融機関の件でそれどころではない、と秘書の返答であった。あの時は「バカヤロ一そんなものお銚子とコップでいいじゃねえか!」というのを期待した。 結局湯飲みに替えたのだが、おかげで志ん生が“水カステラ”を飲んでいるように見える。

アートスケープ 展評『深川の人形作家 石塚公昭の世界』

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昨日書いたような出来事があると、雲の上でシナリオを書いている存在があるのではないか?と思いたくもなるが、有頂天にさせておいてあまりなオチである。 その後信じがたいことだが、街宣車に来られても困る、と他のギャラリ一に断られたりした。しかし私にはそもそも三島本人が死ぬ直前に腹に包丁を刺し、魚ぶちまけて死んでいる魚屋に扮し、篠山紀信に撮らせていた、という“後ろ盾”があった。発表を急いだが、それはある筋からの情報で、薔薇十字社版『男の死』が発表される、という情報があったからである。NYでの三島が扮した『聖セバスチャンの殉教』の未公開バ一ジョン発見も私を焦らせた。(しかし出版は誤情報で、出版されない理由を後で知った。)1日でも先に発表しないとただのバッタもんである。 企画者の内藤三津子さんに、出版契約を済ませた帰りの車中、三島は「右翼の奴ら今に見ていろ」といったと伺った。内藤さんは『三島さんは右翼じゃないの?』と思ったそうである。(ちなみに私は三島を右翼だと思ったことは一度もない)それは数日後の自決のことをいっているようだが、私は二の矢となるはずだった『男の死』の出版のことを指している、と考えており、それは自決直後だからこそ“効果”があった。私は「ザマアミロ!ガハハハ」と笑いそびれた三島の無念を思うのである。

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HPの三島由紀夫へのオマ一ジュ『男の死』のペ一ジを作り替えている。画像も少し大きめにした。三島が様々なシチュ一エションで死んでいるという物で、私を止める人はすでにいなくなっていたが、久しぶりに知人にそれは止めておいた方が、と止められたテ一マであった。しかしすでに制作を進めていた私の耳にはそんな声は入らない。 先日のブログに集中して制作をしていると引きが強くなる話を書いたが。これが一番の出来事であった。『男の死』の個展会場をそろそろ決めなくては、と考えていた時、ある会場を紹介された。ビルの一室であるその会場は場所は良かったが受付などおらず、自分で鍵を閉めて帰るというような場所であった。それはさすがに、と思っていたが、ある日、三島が市ヶ谷に突入する時に持参し、介錯に用いられた名刀『関の孫六』を三島に譲ったのは、そのビルの先代の社長で、現社長は居合いをやっており、三島に“作法”を教授したと知った。三島が私を呼んでいる。ところが。何をしても良いが三島だけは止めて欲しいといわれた。当時刀を譲った人物としてインタビュ一を受け、残念だといったら三島先生に対して名誉ならともかく残念だとは何事か、等々。孫六のおかげで様々なことがあったらしい。

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三島由紀夫のペ一ジを作り替えている。少々手直した作品があるし、未発表の作品もある。三島に関しては『男の死』以外やりたいことはないのでまとめておきたい。 少し慣れて来たこともあるし、初めてHPを作った当時のようにマニュアル本を壁に向かって叩き付けたようには腹は立たない。なぜなら後から考えたら、すべて私が悪かったからである。それはしかたがない。PCを入手して一年経つか経たないかであり、要る物と要らない物の区別が付かず、PCから色々削除していて動かなくなったりしていた。 それにしてもつくづく不思議なのは写真やカメラ、デジタルなど、興味がないどころか嫌っていたことに限って重要な物に転じている。精神科医の友人がいっていた“嫌っていることには必ず自分の要素がある”ということなのであろうか。なので私はこうだ、などと自分のことは判っている、みたいな顔をしないことにしている。一寸先は判らない。しかし写真の素人なのに、突然廃れていたオイルプリントの制作に熱中する、なんてことはもう止めてくれよ。と自分に。

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合間を見ては三遊亭圓朝の伝記など数冊を同時に読んでいる。商家に奉公に出るも向かず、噺家を目指すも家庭の事情で止め、画工を目指し弟子入り後、再び噺家に戻る。弟子や師匠に裏切られたり禅に打ち込んだりしながら名人となり、明治天皇の前で口演。衰退した三遊派を柳派にならぶ一大派閥にまで再興し、酒に溺れた不行跡な息子を弟子達の前で縁を切り、弟子にも随分先立たれる。晩年は神経性の病を患い惚け状態に陥る。花火を見たいというので弟子が庭で上げると、目をつぶり顔を上げることなくうつむいたまま「面白いね 面白いね」とつぶやく。なにしろここまで圓朝に付き合っていると、まるで実際見て来たような気分になっているから「面白いね 面白いね」は今書いていても泣けてしょうがない。 そういえば古今亭志ん生を作っている時。引退して隠居している所に小沢昭一がインタビュ一に訪れる。すると志ん生は読んでいた落語本をコタツだか座布団の下に隠したという。これを読んだ時も志ん生の芸人魂に触れたような気がして泣けてしまったが、志ん生が隠したのは圓朝の速記本ではなかったろうか。

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3年間まったく手を付けていなかったHPの更新を、ようやく再開した。古臭くなったので大幅なリニューアルを、と考えていたが、何しろ2000年に始めて以来のデータが多く、当時できるだけ軽く、といわれていた画像も改めてスキャンする気にもなれない。よって木に竹を継ぐようになってしまうが、まずはここ数年の穴埋めから始めたい。何をしていたかは自分のブログを確認するしかないが、これはがそうとう苦痛なことであるがしかたがない。 今はインスタグラムだワ一ドプレスだとか訊くが、知らない事は無いと同じ。というわけで、マニュアルを放り投げながら作った素人臭いHPのまま、とりあえず続行することにした。HPソフトを再び購入しての再開だが、すっかり要領を忘れ、アップしてはリンクがはずれ、とやたら時間がかかってしまった。まずはデ一タも少ない渡辺温のペ一ジとエドガ・アラン・ポ一のペ一ジを作った。あまりに愛想がないので、いずれ制作ノ一トなどアップしてみたい。

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模様  


圓朝は座布団と着物に模様をいれようか考えたが、やはり止めた。今まで何体作ってきたか判らないが、着衣に模様を入れたのは、ただ一度きりである。このストライプはさすがにしょうがない。不器用なので線がヨレヨレであるが。 せっかく立体で作っても、模様が入ると目がそちらへいってしまう。何度か書いたことだが、九代目團十郎を隔月のフリ一ペ一パ一の表紙用に作った時、それ以前、歌舞伎座で海老蔵丈の目玉に照明が反射してピカ一ッと光ったのを見ていた。昔から團十郎に睨まれると風邪をひかないといわれている。当時インフルエンザがはやっていたし、歌舞伎座も改修するというので進言して決まった。歌舞伎座の上に巨大な鎌倉権五郎景政の『暫』が乗っかり東京中を睨み倒す予定であったが、せっかく作った顔の造形があの隈取りに隠れると思うと耐えられず、初志貫徹はならなかった。 海老蔵丈の目玉が光ったとき、お家の芸のためには目の小さな嫁さんは貰いにくいだろうな、と思ったものだが、無事な快癒を願いたい。海老蔵に睨まれると癌も治る、という新たな伝説はどうか。 

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集中して制作していると妙な偶然を引き寄せることがある。『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)を制作中に、みみずくのカットがどうしても必要になり、いったい何処へいって撮影すればいいんだと検索していたら、まさか、という極近所に猛禽類だらけの『鳥のいるカフェ』ができてしまった。集中していないとこうはいかない。今回はというと10月1日より早稲田大学演劇博物館の企画展『落語とメディア』がある。体験的展示だそうで『幕末から明治にかけて、寄席は庶民娯楽の王道でした。どの町内にも寄席があり、近所の人々が気軽に足を運んだのです。その当時の小規模で親密な寄席を再現することによって、当時の寄席がどのような空間であったのかを体験していただきます。』私のためにお手数おかけして申し訳ない。タイトルからして圓朝の速記本が重要な展示となるのは間違いないであろう。

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噺家が高座で使う湯飲みは、寄席側が用意した物を使うのが通例らしいが圓朝は自前の湯飲みを用意した。単に衛生面を考慮した、という説もあるが、圓朝の名声に対する同業者の妬みから、水銀を混入されるのを避けたともいう。たしかに場合によって男の嫉妬は、むしろ女より凄まじい物がありそうである。 そもそも圓朝が創作を始めたのは、鳴り物道具仕立ての芝居噺で人気を得ていた時に、師匠の二代目三遊亭円生にスケ(助演)を頼んだ所、その日の圓朝の演目を先にやられてしまった。用意した道具などが使えない。これが連日続き、たまりかねた圓朝が、先にやりようがないオリジナル作品を創作したのがきっかけであった。師匠の嫉妬からの嫌がらせが創作者圓朝を生んだというわけである。これにより二代目圓生は圓朝を語る時、必ず登場するセコイ男として残ってしまった訳である。

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4時にトイレに起きると、母がすでに出かけるカタチになっている。本日白内障の手術の検査に出かけるのが楽しみらしい。私は構わず寝ると、病院に行くのは今日じゃなく、明日じゃないか、と言い出した。今日だよ。書類を引っ張り出し見せる。もうこれで目が覚めてしまった。9時になるのを待って二人でT屋で朝定食。今日はもう寝不足だ、と母のお喋りの相手をT屋のかみさんにまかせてビ一ルにチュ一ハイ。肝硬変にて溜まった腹水を抜きに入院する主人のHさんを見送る。ちょっと早かったがタクシ一で近所の某医大病院へ。話には訊いていたが広くて新しくてガランとしていて気持ちが良い。さらに女性職員が全員美人に見える。これはいけない。家に閉じこもって怪談噺なんぞ創作する男とずっと向かい合っていたせいであろう。 そういえば処女出版の写真原稿の入稿を終えた日もこうだったし、4キロ四方誰も住まない廃村で男3人焼き物をやっていて、たまに東京に帰ってくると同じ現象が起こった。いやその前の二十歳で岐阜の山に居た時は、同じ工場で働く金歯むき出したオバさんが次第に可愛く見えて来る、という怪奇現象を経験した。たまには粘土ベラ捨て街へ出よう。

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和蠟燭も良いが植物油に灯心よる灯りがまた風情がある。撮影用にいくつか骨董市やヤフオクで灯火器を入手してみたが、いずれも素朴で単純な物である。未だに茶事に使われているようであるから、作家物もあるだろうが、多くは蠟燭が贅沢であった庶民が使っていた物であるから、陶芸作家などという存在が登場する以前の物が多いだろう。これなら私にも作れるような気がする。 私はもともと陶芸作家を目指していたがロクロをやったのは学生時代の二年だけで、その後二年間岐阜と茨城で陶芸には携わっていたが、岐阜は量産工場でロクロなどなかったし、茨城は下働き専門であった。その後は東京で自分の窯を持つべく溶接で物干を作っていたが器には関心がなくなっていた。地元には陶芸をやっている先輩がいたが、遊びに行っても、冗談でさえロクロどころか陶土に触れることもなかった。 それが、そういえば近所に陶芸教室があったな、と調べてみたりして。しかし何が迷惑といって、趣味で陶芸をやっているから使って、と手渡されることである。それが判っている分私はマシであろう。

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解読  


三遊亭圓朝を作るにあたり、鏑木清方の圓朝像の存在のおかげで対象をとらえる、また表現する、ということに関して随分考えさせられ勉強になった。ただし、清方作品を直接参考にしたかというと、横に配された燭台を含めた高座の様子、これから塗る予定の着物の色くらいである。なぜなら清方のイメ一ジの圓朝であり、造形的には残された写真と少々違うからである。それにしても圓朝にこう苦労させられたとなると、今後の制作において、よほど楽しませてもらわないとならない。

私は色紙、短冊、掛け軸の類いをいくつか持っているが、昔の人物がそれに触れ、筆をふるったと思うとシミジミするだけであって何が書いてあるのかサッパリ読めない。同じ日本人のたかだか百年二百年前の文章を読めないというのは実に情けないが、英語を解さない洋楽好きでもあるし諦めている。ところが今年知り合った若い女性が見かけによらず実は古文書の研究者で、幕末明治あたりなら楽勝らしい。そこで早速、先日骨董商のMさんから預かった某歌舞伎役者の掛け軸と一緒に入っていた手紙をメ一ルで送って解読してもらった。曰くありげに収まっていたが、掛け軸とは全然関係ねエじゃねエか。見てるかMさん?

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表現  


圓朝の残された写真は知っているだけで四種ある。うち一つはネット上で見つけた写真か画か判然としない物。もう一つは画質が悪くて、晩年の禿げ具合がかろうじて判る物。残りの二つは比較的高画質な、チョンマゲを切って間がなさそうな物。もう一つが伝えられる圓朝の風格その他がもっとも現れている物である。 画でいうと、その写真を参考にしたのは間違いない、寄宿していた画学生に圓朝が描かせた物。何故か顔の長さが表現されていない。全く似ていない河鍋暁斎作品は、角川の全集別巻の解題によると、酒興にとんだ奇人暁斎が圓朝を揶揄した画という説得力に欠ける解説がなされている。問題は肖像画の傑作、鏑木清方の圓朝である。これは『後世残されてある写真をもとに描いたのではなく、あくまでも「瞼の人・圓朝」を永遠に残そうとし、清方の目に残っている圓朝の俤(おもかげ)のみを追求した』そうである。リアルに描かれる画ほど、写真を写さざるを得ないが、圓朝はそうでないことを示すかのように、写真で残されていない角度で描いている。私も立体作品であることのメリットを生かすためにあえて違う角度から撮影するが、今回私が圓朝作品の完成に手間取っているのは、清方に“瞼の人”を残されてしまったせいである。表現とは。表現することとは。

タウン誌深川 常連席にて日が暮れる

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昔は蠟燭は高価だったので植物油、さらに安い魚の油を使ったらしいが、試しに植物油で有明行灯という寝所に置かれる色っぽい行灯で試したら、まあ暗い。これはいわゆるベッドサイドランプ的な物で、寝ている間も点けっ放しなのだが、昔の人には、これでも眩しいのか光量を調節するために木製の覆いを被せる。 以前書いたが、昔の春本の贅沢な物になると、レリ一フ、エンボス効果を出すためだけの版があった。初めて見た時気が付いたが、これは現代のような真上からの室内光ではなく、寝床で、低い行灯の光で見てこそ効果的にできている。残念ながらそんな春本を所有していないので試すことはできない。いや例え持っていても、8日ぶりにショ一トステイから母が帰って来た日に試すこともないだろう。 先日介護ホ一ムに送って行き、帰りに昼間からサイゼリアで一人祝杯を上げたばかりだというのに。その間、あれしようあそこ行こうと思っていたが、母が留守なのに出かけるなんて勿体ない、と結局写真展に一度行ったきりである。母がトンカツを食べたいというので近所で“出所祝い”。そういえば祖母も亡くなる直前まで天丼、鰻丼を食べていたな、と母を眺めた。

タウン誌深川 常連席にて日が暮れる

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圓朝には影絵という物が残されている。人物の横顔をシルエットの状態で描いた物で、歌舞伎役者などもあるが、役者絵が浮世絵調にデフォルメされているのに対し、影絵は障子に映った物を正確にトレ一スしたようにリアルである。正面を作っていれば横はどうなってるかおおよそ判る。残された二種類のうちの一つが、どうみても圓朝ではない。圓朝でない、といえば“画鬼”河鍋暁斎の描いた圓朝像が、これまた圓朝に見えない。圓朝が長顔なのに丸顔であるし、眉が薄いのに老人の眉毛のように長く伸びている。合点がいかない。 先日圓朝の“あの感じ”が出ていないと気付いたのは、山手線の車中で圓朝の首を眺めた時であった。“あの感じ”とは何か。自分でも良く判らない。写真の中にはあるが、私が作った圓朝の中に無い何か。としかいいようがない。そこから粘って一押し。

 

タウン誌深川 常連席にて日が暮れる

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