明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



蜂窩織炎で入退院を繰り返している母は、今回は、熱を伴い、入金先を探し、北千住の病院に入院した。本来激痛を伴う場合が多いと聞くが、今回も痛みはほとんどなく、抗生物質も効いている。上から下までレントゲンを撮り、頭は問題ないが内臓が上に上がっており、小腸と肺が重なって見えるほどで、若ければ手術するところだが、92ともなれば負担も大きく、このままで、ということである。リハビリ室で顔を合わせ開口一番「ホントに良い所に来たわ」。何処へ行ってもそんなことをいっている。息子のいうことは信じないし聞かないくせに他人のいうことは聞く。テレビショッピング、訪問販売は危険なタイプである。渦中ではこんな腹立つことはなかったが、離れている今となれば、実に気が楽である。脱サラの父に付き合わされ、父の死後も一人働き続け、元々社交的性格。新たな人との出会いをせいぜい満喫して欲しい。リハビリ室があるのも機嫌が良い理由である。未だに歩いて何処かに出掛ける気でいる。以前はホームのヘアカットが、ザンギリ頭で我慢が出来ず、「植木屋の小僧がアルバイトでカットしてるんだろ?」と会うたび私がカットしていたが、コロナ禍の間に自分でカットしているうちに上手くなっていた。 今回確信したが、部屋で二人で会うより、職員に囲まれ賑やかな状態だと、実に聞き分けの良い母親となるので、できるだけそういうシチュエーションで会うに越したことがなさそうである。



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江東区のは芭蕉記念館に行くと、最寄りの森下駅の、様々な絵師の芭蕉像のパネルを見ることになる。これにしても、芭蕉の門弟の描き残した芭蕉像とは無縁の物ばかり。垂れ目の好々爺がほとんどである。芭蕉は吊り目で、がっしりしていたんだ、とか、夏目漱石の鼻は鍵鼻で、あれは修正していたんだ、と私がいくらいったところで、多勢に無勢である。いや、ただ私が気にしてるのは、何を勝手に鍵鼻にしたり吊り目にしているんだ、と思われるのが嫌なだけで、もう勝手にしてくれ、という感じである。 『寒山拾得』の二人は痩せている、と書かれているのに、何故ほとんど唐子のようなぽっちやり童子風に描かれてきたのであろうか。昔からの土産物の定番、中国の寒山寺の土産物の寒山と拾得でさえ相撲取りのようである。伊集院光が、あまりに自分にそっくりなので、ヤフオクで落札したというくらいである。 そう思うと曾我蕭白が描く寒山と拾得こそが忠実に描かれていると思え、イカレタ野郎だと思っていたのが、作品はともかく、案外まともで、その面立ちまで、案外すっきりとした人物だったつたのではないか。なんて思えてきたりする。私の場合は、というと何しろそう書いてあるのだから、例によってその通りに描く。今回の場合は、「いや、そう書いてあるので」などと説明することもなく、なんで寒山と拾得が、痩せているのか?などという質問も出ること自体がないだろう。



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一日  



芭蕉記念館に行き、芭蕉庵に燕の巣、文机、煙草盆、ヒヨウタン、燭台を配してきた。開館中は作業出来ないので、少々手を加える部分は後日。

星の数ほど描かれてきた『寒山拾得』だが、どれほど描かれて来ようが、中国が何千年だろうが私のようなアプローチは初めてであろう。ただそれだけで毎度お馴染みの、何物にも代え難い快感がこみ上げて来る。この渡世も私くらい長いと、“要らないから誰もやらないのだ”ということは、頭の隅にもよぎらせないことが可能である。 ”人は頭に浮かんだ物を作るように出来ている”確か養老孟司がそんなことをいっていたが、実に恐ろしい仕組みである。恐ろしいけれども、その仕組みのせいだとしたら、仕組みの問題であって私には何の責任もない。責任が無い割に幼い頃から薄いガス室に閉じ込められているような、そこそこのバチが当たり続けている心持ちがしないでもないが、プラマイゼロということで良しとしておこう。ここまで来るとプラスもマイナスも判然としないが、何もかも得ようとしてもそうは行かず、何かを得るためには、何かを捨てなければならない。誰に教えられずとも、そのことについては私の動物的勘が、あらかじめ知っていたことは何よりであろう。 昨日芭蕉記念館にスマホを忘れ、今アップしている。スマホを忘れるのは今月2度目である。そろそろ危ない。



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寒山拾得に策がない、といいながら、結局は、ただそのまま描けば良いのではないか。まずは、かつて泉鏡花の『貝の穴に河童の居る事』で、やったように、森鴎外がほぼそのまま書いた『寒山詩集』の序文に描かれた寒山と拾得のストーリーを人形を持って制作する。そしてその間に、古来から中国、また日本で連綿と描かれ続けた名場面を差し挟んでいく。 そもそも私如き者が、禅の何某かを感得し、後に事を起こそう、ということ自体が大いに間違っている。日々金魚を眺めながら悩んでいても進展することなどあろうはずがない。寒山拾得をモチーフにしてきた星の数ほどの絵師達も、描く事自体で何某かを得ようとしていたに違いがない。 泉鏡花の『貝の穴に河童の居る事』の時にまずは河童を作ったと同様、主役の寒山と拾得を作る。さらに河童と同様、いくつかの表情のバリエーションを作る。 そもそも貝の穴の時は、人間ばかり作って来て、人間にあらざる者を、つまり妖怪の類いを手掛けてみたかったことが発端だったが、私は元々、中年男、または爺さん専門の人形制作者といっても良く、さらに、約四十年前、個展デビューからずっと架空の人物専門であった。写真資料を集めて誰かに似せる必要がない分、作るのは早い。今回まず決めているのは、河童でそうしたように、髪は人形用の髪を使う。 正月は水槽内には紅白の金魚が舞い踊り、それを眺めながら、正月が明けた頃には、登場人物の頭部がいくつか出来上がっていることであろう。



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母がまた膝下の蜂窩織炎で入院。もう何度目であろうか。ケアマネージャーによると、完全に治りきらずにいたのかもしれないと。確かに前回の退院から間がない。今回は熱もあり、時勢柄、入院先が見つからず、ようやく北千住の病院へ。食欲はあるようだし、二人部屋に居るから、心配するほどのことはないようである。病院からの電話では、母が英語の教則本を持ってくるよう、言ってます。といわれた。92にまでなって、まだそんなことをいっている。私の諦めの悪さは、どう考えても母譲りである。そのせいで、芭蕉庵の納品日直前に急遽板葺き屋根を藁葺きに作り変え、おかげで旧友の個展に顔を出すことも出来なかった。また間に合わなかった燕の巣、文机、ヒヨウタン、燭台を持って出たが、結局芭蕉記念館の閉館時間に間に合わず後日に。 何度か書いたが、私自身の諦めの悪さから、死の床で、あれを作りたかった、こうすれば良かった、と、どうせやり切ることなどないだろうから、みっともなく、ジタバタと苦しみもがくのは決まっている。最後にそんな苦痛が確実に待っているのだ、と想像しては日頃ゾッとしていた。しかし最近はそうでもない。 2年ほど前だろうか、三島のオマージュ展に向け、ここで何かあったら死んでも死に切れない、と交通事故に気を付け、クリニックにもサボらず通おう、と誓ったが、やり終えて見て、そこから次は寒山拾得だ、と。どうも目標を2年程度に限ればなんとかなりそうである。そう思ってから怖くなくなった。 だがしかし、私の場合、次に何をやろうか、と考えたことは一度もない。その代わり上空からボタモチのように突然降って来る。それがコントロール出来ないだけに怖いとえいば怖いが、三島を手掛けて判った。余裕をかましてボンヤリしている隙にボタモチは降って来るので、余裕をかましていられないモチーフに関わっている間はボタモチは降って来ることはない。つまり寒山拾得が終わるまでは安全ということになる。逆にいえば、どうやってやり遂げるのだ?という問題が立ちはだかっているということではある。



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三島由紀夫の命日である。5月に『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』を三島に捧げ、私の役目?は果たした。という気分である。これはブログにも書かなかったが、三島が神輿を担ぎながら空を見上げているカットを制作している時であったが、数年前に撮影した深川の祭りの風景を元に制作したのだったが、水かけ祭りの水の匂いに混じって、鼻の奥に三島の体臭を感じた。さらに、三島が最後に見た風景、市ヶ谷の事件現場、その窓外に、例のバルコニーの先に、青く広がる海原を配している時にも鼻の奥に再び体臭を感じた。

将門の首塚が改修工事をしているそうである。つい余計な期待をしてしまいそうである。今から三十年前くらいに、友人の好き者集めて、都内の刑場跡など探索に出掛けたことがある。私はその方面は信じていない割に好奇心と期待だけは大きい。カメラを手に出掛けた。その日は一人先客がいた。小雨降る中傘もささず、ボストンバックを抱えたまま、ワンカップを供え、一心に何事か祈っている。物見遊山の我々は睨まれてしまい、人に見られると効力がない、といわれる藁人形に釘を打っているところを見てしまったかのような気分になり、先客の”用事“が済むまで近づくことが出来なかった。男の雨に濡れて上気したのぼせたような表情は未だに覚えている。



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芭蕉庵用に、追加で燕の巣、大ヒヨウタン、文机等作る。 芭蕉庵納品の数日前から眠気覚ましにアニメの『新巨人の星』『新巨人の星2』をスマホで飛ばし飛ばし観ていた。大リーグボール3号が破れ、左腕が崩壊。うろ覚えであったが、数年後に右腕投手として再起していた。最後は右でも歴代大リーグボールすべてを投げ、星一徹は亡くなり、江川の入団と入れ替わるように大リーグに挑戦に向かう所で終わったようである。そういえば知り合いに主題歌の「思いこんだら♪」を「重いコンダラ」だと思っていたバカがいる。 冗談で石塚式ピクトリアリズムを私の大リーグボール3号だ、といっていた。1号は、今ではスマホ片手に誰でもやっている、人形片手にカメラ片手で街なかで撮る、人形を国定忠治の刀のように捧げ持つことから”名月赤城山撮影法“と呼んでいた方法。そしてフリーペーパーの表紙で“日本橋でチヤップリンと歩く”“大手町を坂本龍馬と歩く”などという、無茶振りに対処するには1号では無理、と苦し紛れに編み出した、背景を先に撮影しておいて、その背景に合わせて人物を造形し、合成したのが2号である。廃れていた古典技法オイルプリントを蘇らせたのは、ハードルを低く改良したものの、私の発明ではないのでノーカウント。 思えば遠くに来たもんだが、ちゃんと順番を経ているのが自分でも面白い。これが最後だろう、という意味もあり大リーグボール3号だ、などと称していたが、右1号まであったとは知らなかった。背景を逆遠近法であらかじめ作り撮影する手法は、おそらく成功したとしても2、3球投げ、その役目を果たし終えることだろう。



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一日  


芭蕉記念館に納めた芭蕉庵は、奥の細道に旅立つた直後をイメージしたのだが、会場で確認すると、庵の出入り口を閉めてしまうと室内が暗すぎるので、少し開けておくよう戸を直している。さらに旅に持って行かれない文机と門弟達が芭蕉のために米を持ち寄ったヒヨウタン、煙草盆、を追加しようと考えている。燕の巣は一応持って行って着けるかどうか考えることにする。 我が家の寒山拾得に見立てた金魚は、いつの間にか定員過剰になり、数からいえば、二軍の寒山拾得劇団が結成出来るだろう。一軍では一番大きい青文魚が豊干禅師、桜東錦二匹が寒山と拾得のコンビ。というのは相変わらず決っている。二軍を選ぶとすれば、肌色したシルク東錦が豊干で、飯田産琉金と金魚坂で入手した中国産ショートテール琉金で寒山拾得としたいところてわある。 昨日のブログで書いたが、ヘソ下三寸辺りから聞こえて来る声はともかく、表層の脳は、いくらなんでも寒山拾得は無茶ではないか、と未だに思っているのだが、理由は判らずとも衝動に任せた方が、結果は必ず良くなる。今回もいつものように任せるしかない。そして二年後の個展会場では“始めから計画通り。こうなるこのは判っていたのです”という顔が出来れば、結果オーライということになろう。



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被写体から陰影を排除することになったきっかけは、九代目市川團十郎を作った時である。様々な役者絵を見ることになる。何でみんな同じ顔に描くのだろう、なのに当時の日本人は、ブロマイドのように贔屓の役者の絵を買い求めた。そうこうして、現代の目で見ると、皆同じように見える絵が、実はそれぞれの役者の特徴を表現していることが判って来た。そこを庶民は味わっていたのだ、と思った時、当時の日本人の文化度の高さ、という物に感心した。 また日本人にも陰影は見えているはずなのに何故描かなかったのか。葛飾北斎のドラマで北斎が西洋画を見て「見たまんま描いていやがる。」西洋人ていうのは想像力に欠け、見たまんま描くとは、なんて野暮で野蛮な連中なんだ、といっているようであった。残念ながらその北斎自身も、娘共々野暮で野蛮な西洋的リアリズム方向に向かって行くのだが。そう思うと、私が、真を描く、という写真という言葉をことさら蛇蝎の如く嫌い、フレームの中に真など描いてたまるか、と悪戦苦闘し続けてきた理由が見えてきた。”ホントの事などどうでも良い“これも私が常々口にしていたが、目で見える事などどうでも良い、イメージ優先だ、と言い換えることが出来よう。小学校の図画工作の時間、写生となるとガッカリし、石膏デッサンほど馬鹿馬鹿しい物はない、と数える程しかしやったことがない。今から約三十年前、あるミュージシャンをビデオ、写真資料を見ながら作ったつもりが、頭の中にある、かつてのミュージシャンになってしまい、人に指摘されるまで私は気付かなかったた事がある。私の頭に浮かんだイメージは何処へ消えて行ってしまうのだろう。と悩んだ幼い頃から、ここへ来て、私の中には、西洋的リアリズムに犯される以前の日本人の記憶が残されているのだ、と思うようになった。そう思えば古典技法を用いたり、真を写す写真にあらがい続けてきた理由が解る。随分時間がかかったが、首をかしげながら死ぬよりよっぽとマシであろう。一挙にかつての記憶を蘇らせるには『寒山拾得』ぐらいを手掛けて丁度良い、と私の何かが判断したのであろう。


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10月にニューヨークで出版された三島由紀夫『男の死』は、国内では50万の大型本が出るそうである。今の所、内容に関しての論評が聞こえて来ない。何しろマニアの三島が、自分にとって嬉し楽しい死に方を考え、それを篠山紀信に撮らせている。数カットしか見ていないが、嬉しそうに演じているだろうことは、想像に難くない。あんな嬉しそうな三島を見たことがないと企画者である内藤三津子さんの証言もある。 篠山紀信は、三島の主導で、ただ撮らされつまらなかったといっているが、今回は三島のいうとおりに従った、次は細江栄江の『薔薇刑』のように、こちら主導で被写体に徹して貰うぞ、と内心リベンジに燃えており、おそらく構想もすでにあっただろう。直後に死ぬことは予想外の事だったようだが、そのショックには次回予定の作品を撮り損なったショックもあっただろう。いやそればかりではなかったか。被写体がないと撮れないというのが写真の欠点である。 それにしても内容について聞こえて来ないのは、文学的にも、政治的にも解釈、論評のしようがないからであろう。あれだけあだこうだいっていた連中も、つい下を向いて黙ってしまうことであろう。であるからこそ、これを事件直後に二の矢として放ち、ザマアミロ!とするつもりでいたのに、と三島の無念を思うのである。この件になると繰り返しでばかりになるが、私は男の死というモチーフを通し、妄想上個人的に対話をし、その褒美として出版の5ヶ月前に個展で発表出来た、ということで満足である。作家をモチーフに長らく制作してきたが、これ以上歯応えのあるテーマはもうないだろう。 といいながら実をいうと、脱いでくれる三十代の女性さえいたら谷崎潤一郎だけは最後に手掛けておきたいのたが。


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ジャズシリーズの頃から搬出入をお願いしている運送屋さんは信頼できる仕事ぶりなのだが、欠点といえば江戸っ子で何をしても早い。よってそれを計算して時間を指定するのだが、それでも若干早めに到着。屋根と本体分けたままなので、搬入は楽であつたが、急遽乗せた藁葺きの水分のせいか歪みが生じ若干隙間があり、接着したかったが、設置場所の都合もあり、後日に。正面は全開、窓も一つ開いているが、江戸時代は暗かったといっても、会場の煌々とした照明の下では暗い。担当者と相談の上、半開きにすることに、戸板は持って帰る。 奥の細道に出かけた直後、という設定なのだが、やはり文机、米を入れたヒヨウタン、煙草盆は用意することにした。最後にペンペン草を屋根に植えて帰宅。 建物を作ると人形と違ってこうなるの?とはけっしてならず、いかにもあの芭蕉の作者が作るとこうなる、という結果になった。担当者と、こうなるとやはり芭蕉の樹は欲しくなるね、と。私としては、窓を一つ開けたのは、そこから古池を眺める設定なので古池も、といきたいところである。



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当初、私の芭蕉像が収まるサイズの芭蕉庵を考えていたことを思うとゾッとする。今使っているのは、模型工作レベルの材料で、1番太い柱でも2センチだが、当初の構想通りだったら、それこそ材木のレベルで、外に出すのもベランダから降ろすことになったろう。しかも芭蕉の樹や古池まで作ろうと考えていた。しかしそれでは芭蕉記念館の何処に置けばよいのか、という話である。 多く残されている芭蕉庵図は、ほとんどが後世に描かれた物だが、先日書いた通地べたに直接設置している図が案外多い。ただてさえ、埋め立てられた湿地である当時の深川の潮臭い場所で床下がないのはあり得ない。と先日も書いた。しかし実のところ床下の空間がほとんど無いような部屋に住んだ経験が私にはある。朝起きると床はナメクジの這った跡だらけで、とても床に布団を敷く気にはなれない。ナメクジ長屋に住んだ古今亭志ん生の心持ちが私には多少解る。 私がいいたいのはそんな話しではない。床が高い分、履き物を脱ぐ敷石が必要であろう。何に入っていたのか。荷物に入っていた発砲スチロールの欠片ほがあり、私が寝転がっていたせいで押しつぶされており、それが何とも良い感じの平らな岩に見え、ちよっとちぎっただけでそのまま色を塗って使うことにした。何しろまったくら作為のない、まさに自然石の趣である。 それにしても今回の芭蕉庵は、私の屋根裏、またはナメクジ部屋に住んだ経験が十二分に生かされている。

 



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凝ったつもりで制作した板葺き屋根を納期直前に草葺き屋根に変更するという暴挙。昔の芭蕉庵図を見ると、いずれも今の藁葺き屋根のように、刈り上げ部分か露出しておらずただ茅や藁を覆い被せたような簡素な屋根である。大昔は、そんな草葺き屋根もあったのであろう。これなら可能だと急遽仕事を増やした。直線を切ったり貼ったりの木工と違い、粘土やパテやドロドロの素材となれば通常業務範囲であり、こちらのテリトリーとなる。屋根は夕方近くにおおよそ乾燥を終え、最終的着彩を待つばかりである。明日は苔の緑も入れたい。ペンペン草は運搬を考えると搬入当日、現場で植えた方が良さそうである。 本体の仕上げにかかる。木部の下地の着彩をおおよそ終え、明日はひさしの組み立て、着彩の仕上げ等々。芭蕉庵を横にしたり逆さにしたり出来るのは本日で最後である。



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昨晩のうちに仕込んでおいた茅葺き用材料。なじませるため一晩熟成。思い付いた物をぶち込んだが、主に三つの材料を練ってドロドロに。塗料を混ぜたせいで摺った山芋にしか見えない。主成分は書かないでおく。記念館で、あの茅葺き屋根はアレらしいぜ、と来場者にいちいちいわれては芭蕉庵が可哀想な気がする。それにしても急に思い付いた割に上手くいき、これは今後応用できそうである。最終的にはペンペン草を生やすつもりである。ペンペン草が何かは知らないが、適当な雑草らしき物は用意してある。その際気を付けなければならないのは、あっちちにもこっちにも、とペンペン草だらけにして屋根の上でペンペン草を栽培しているかのようにしてしまうことである。昔、白骨を制作していて、着色に凝りすぎ、煮染めたようになって白骨ではなくなってしまった。朝から始めて扇風機を回しっ放しで日が落ちた頃には9割は固まった。一日暖かかったから良いものの。

 



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芭蕉庵のパブリックイメージなどと私がいうと可笑しいと笑う人がいるが、芭蕉の場合は門弟達が師匠はこういう顔だ、と間違いなく描き残しているから、全国の芭蕉像があまりに好き勝手なのに呆れて、嫌味なくらいそれに従ったが、芭蕉庵に関しては、それがない。ならばそこでは確証のない解釈は抑え、パブリックイメージに準ずるべきであろう。作家を長く制作してきたが、人によって、自分の解釈を表現して面白い人と、世間の抱くイメージにあえて準じてこそ、という人がいた。 茅葺きといっても都合良く縮尺があう材料もないので、粘土にガサガサと茅葺調の跡を着けることにした。中村不折の描いた芭蕉庵は、ボロボロの廃墟のように描かれている。住んだのは十数年だつたと思うが、うち捨てられた設定なのか。確かかわず飛び込むの句が作られた句会には芭蕉庵に40人集ったという。学生時代、たまたま私の六畳のアパートに人が集まってしまい、数えたら三十人前後はいただろう。制作中の庵はそれよりも広いと思うのでその点は楽勝ではある。 学生時代、試験が迫り一夜漬けでこなすしかない。だが眠い。今日寝てしまったら、明日の私は間違いなく勉強せざるを得ない。では明日の私に任せて今日の私は寝ることにしよう。それは結果私の成績が悪くなるだけで済んだが、芭蕉庵はそうはいかない。数年前からせっかく飲めるようになったブラックコーヒー、私にはカフェインがまったく効かず眠気覚ましにならない。



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