明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ふげん社での人形展示は、三島由紀夫、太宰治、松尾芭蕉、葛飾北斎になりそうである。すべて新作となるかどうか。椿説男の死によって、三島由紀夫に関してはやり残したことはない、としたいが、三島にウケることしか考えていないという、私の作品の中でも特殊で、だからの安全策ではないが、ここ数年来の陰影をなくした日本画調の石塚式ピクトリアリズムの中から選んだ作品で2本柱としたい。 場合によっては2メートル超の、燃える金閣寺を前に革ジャンにピストルと刀の三島を展示するのも良いだろう。インパクト充分で、私の感心されるくらいなら呆れられたい願望を満足させてくれるだろう。 私の作品は、ご覧になった方はお判りだろうが、粘土感丸出しで、必要以上には詳細に作り込んではいないのだが、いくら拡大しても印象が変わらず、むしろリアル感が増す。拡大された人物と見つめ合う時の作者の私は、ここまで作った覚えはないのだが、と不思議になる。最初に人形を撮るようになった時、増感された荒い粒子でプリントしていたが、かえってリアルに見えたのは、粒子と粒子の間を想像力が補完するせいだといったのは、その手法を勧めてくれたプリンターの田村政実氏だったろうか。我田引水になるが、もしかすると私の粘土感丸出しのタッチが粗粒子同様、何か作用しているのかもしれない。ディテールを詳細に表現した作品が、拡大したからといってリアル感が増すとは限らないだろう。 とかなんとか、例によって考えてやっているようにぬかしているが、実は行き当たりばったり、何も考えていないので、実物を会場で見た方々が、ああだこうだいっていただきたいものである。

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ポール・シユレイダーの『MISHIMA』を久しぶりに観た。よく出来ていて改めて感心した。私が作ったとしても仮面の告白、金閣寺、豊穣の海を柱にするだろう。市ヶ谷の総監室が実によく再現されていた。 実在した人物の場合、出来れば似た役者を使って欲しいものだが、そういう意味では三島役は筧利夫しかいない。あの顔、背格好。緒方拳は名優ではあるけれども、私がバルコニーの場を演出するとしたら、自衛隊員の野次を含め、悲劇のクライマックス、もはやこれまで。踵を返し割腹。それが三島のシナリオだったと考えている。その点緒方拳はただ本気で自衛隊員を説得しているだけであった。 三島が最後に目にした光景。私の眉間にレンズを向けた念写の結果である。私は長らく真を写すという、写真という言葉に反発し、真など写してなるものか、とファイトを燃やして来たが、昨今はそう肩に力を入れずとも、そんな私が手掛けたならば、ご覧の結果となる。現実感が希薄でいかにも私の頭の中である。 窓外に広がる水平線の上に日輪が上り完成となるのだが、竜に目を入れるのは勿体ぶって後日とする。モニターのスマホ画像だが。





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椿説弓張月、武藤太の責場だが、浮世絵調に配する馬琴の文章を大幅にカットした。あまり多いと読本の一ページのようだし、馬琴の文章はあくまで彩りである。 武藤太を後ろ手に縛り、十本の指を一本一本切り落とす。白縫姫とすれば、夫、為朝を売った憎い仇をできるだけ苦しめたい。鮮血こんこんと流れ出て、赤い色の泉のようで、指はまるで梅酢に漬けた生姜のよう。と表現が面白いが、三島は前を向いている予定だし、その後に打ち込まれる竹釘により悶絶している所であるから、断指の下りはカットすることにした。こう書いていると、私がいかにも残虐趣味を嬉しそうにしているようだが、いや確かに面白くはあるが、一般庶民は、浮世絵、歌舞伎のこんな仇討ち場面に溜飲を下げ、拍手喝采した訳で、私としても、陰影をなくす手法のお陰で、ことさら残虐な有様にしないで済むのだ、というわけなのである。三島歌舞伎では、本来赤い布を使うところを血糊を使い、飛び散る血糊のせいで毎日装置を塗り直すことになった。 ふげん社に行き展示方法の打ち合わせ。もちろんポケットには太宰の首。完成してから時間が経つとさすがにあれっ?ということはなくなるが、寺山修司が、フットボールを観たあとは赤い色が違って見える、みたいなことをいっていたような?つまりお菊人形じゃあるまいし、髪が伸びたり太宰の顔が変化する訳ではないが、自分が変われば世界も変わる。持っていないと気が来てはないのである。制作上、ちょっとした変化があった時、振り返ったら、棚に並んだ人形の顔が一斉に違って見えたことが実際にある。展示作品など大分決まる。

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足腰立たなくなる頃に備え、あらゆる物を部品として撮影しておこう、と考えた事がある。それこそ空から地面から壁から樹木から。まあキリがないし、保存したハードディスクが壊れたりしたが、それでも多少は役に立っている。 私の場合、写真の特質でもある時代を記録するということが眼中になく、外側の世界にレンズを向けず、眉間にレンズを当てる念写が理想であるから、そのために備えておきたい。大体、普段はのんびりしているのに作ることになると一変してせっかちになる。2月に11月頃の空が必要になった時、即座に引出しから取り出したい。昨日のブログを書いていて改めて思った。ただ自分で考えた方法を取っていると、自動的に自分の思い描く世界に近づくようにできている。 浮世絵を意識した縦横比の画面に、以前作った後ろ手に縛られ矢が刺さった三島を仮に配し、滝沢馬琴の木版から起こした文章を背景に配して見ている。私は一人、いったい何をやっているのか。こんな甘く痺れるような孤独感に満たされる時、幼い頃からお馴染みの快感物質が溢れ出るのである。であるから、幼い子供が西の空でも眺めて口をあんぐり開けたままでいたら、ロクなことを考えていないのだから、ただちに頭をはたくか、気付けにアンモニアを嗅がせて我に返らせるべきである。当ブログでは良い子のみんなが、一生を通じて、妙な快感物資に取り憑かれることがないよう、事あるごとに注意を喚起している。

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三島が最後に目にした光景。それにしても、あれだけ物が置かれていた総監室が何もない。私に部屋を片付けさせたら大したものである。ただしパソコンの中限定である。最初のパソコンは、次第に動きが悪くなり、何でもかでも削除していたら動かなくなってしまった。 窓の外の三島が立ったバルコニーの向こうに、11月の海と空はこんな感じだろう、という手持ちのデータがあったので配した。なんとなく漂う不自然なわざとらしさ。マグリット感が漂い良い感じである。絵画では、全く音が聴こえて来ないような作品が好きである。そう考えると、陰影や空気感を排除してしまう最近の手法は、音など聴こえようもなく。自分の中にない物は出てこないものだが、在る物は、胸に手を当てていればちゃんと出てくるということであろう。総監室に当時あったカーテンが現場にはなかった。仕方ないので、家のカーテンをぶら下げた。いわなきゃ判らないことを、と思いながら書いている。どうせ誰も覚えていないだろうと思うと、これがお宅のカーテンですね。という方が会場に一人くらいみえるものである。 カリフォルニア州在住の妹にインフルエンザについて聞くと、こちらはまだ大丈夫だそうだが、マスク二百枚を日本の友人に送ったという。


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何だか今日は一日中眠く、寝たり起きたりしていた。小津安二郎のを晩春を観た。父親である笠智衆が、連れ合いを亡くし、そのせいで嫁に行かない原節子を嫁に行かせるため再婚する、と嘘をつく。「お父さんも56だ、お父さんの人生はもう終わりに近いんだよ。だけどお前達はこれからだ。何を言ってる。 椿説弓張月のちんせつは、珍説、異説のことだが、ちんぜいと読む方が本来なのであろう。主人公の鎮西為朝にかかっている。そうしたいところだが、あくまで三島へのオマージュであるから、三島がちんせつと読ませている限り、ちんせつである。もっとも昔の人にとっては為朝伝説が知られていてそう読ませなくとも判ったのかもしれない。 最終カットである市ヶ谷の総監室は、当時の現場写真を見ると、争った跡があるが、私の場合、窓外に海が拡がり、日輪が赫奕と昇る訳で、あくまでイメージであるから整然としていた方がむしろ良いだろう。窓辺のカーテンだけは加えることにした。

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5月ゴールデンウィーク明けの個展は大分イメージが出来てきた。人物像の展示は、今のところ三島、北斎、太宰、これに芭蕉が加わるか?さすが行き当たりバッタリの私らしく、ラインナップが、なんだか良く判らない。たまたまだが、日本が誇る世界的スターばかりで、この中に入ると太宰治がローカルスターに見えてしまう。 人と会うときは太宰の首をポケットに入れ歩いているが、制作にかなり苦労をさせられたその分、私に創作の快楽を与えてくれそうな、期待の新人として考えている。三島は太宰に面と向かって嫌いだと言い放ったが、それはどこか似た所があるから、と三島は認めている。実は先日の市ヶ谷の撮影時も、ポケットに太宰の首が入っていて、ついバルコニーを背景に太宰の首を撮影して一緒に行っていたライターの妹尾美恵さんに笑われたが、紐で結び合って女と死んだ太宰と違って三島は、自決寸前にも森田必勝の自決を思いとどまるよう説得したんだ。と腹の中で思ったのであった。 さて返す刀で無惨に苦しむ三島に入るか、北斎を仕上げて画室での北斎を撮影まで行くか、太宰の立像の制作に入るか。大御馳走を前に悩む私。とりあえず、浮世絵の無残絵調にする予定の椿説弓張月は、背景に配する馬琴の文字画像は準備が出来た。後は雪が積もってくれれば撮影に出かけたい。降らなければそれなりに対処する。とにかく描くべき画がすでにあり、取り出すだけであるのが何よりである。

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昔は胡座をかいていたからと椅子の生活からふたたび座椅子に座布団生活に戻したが、限界である。足腰にくる。毎月通うクリニックでは貧血気味だと初めて言われ、今度癌検診も入れておきます。といわれた。昔とは違うということであろう。後悔しないよう、はじからやり残したことを潰して行かなくてはならない。先日の市ヶ谷の撮影も積年の思いをようやく果たした。私は目標がある訳ではなく目の前にぶら下がったイメージをパン食い競争のパンのように齧りつくだけである。子供の頃、頭に浮かんだことは何処へ行ってしまうのだ、と不思議であったが、次々可視化しないと自分でもあやふやなまま、死んでしまえば何処に行くも何も灰となるだけである。若い頃思った通り、やはり人生も夏休みのバイトの如し、慣れた頃に終わるようである。 数年間放置したままであった三島由紀夫へのオマージュも終わりに近づいて来た。三島に関しては始めた当初からモチーフは男の死以外にない。そして三島が最後に見たであろう光景。窓外に先程まで立っていたバルコニーが見え、その向こうには市ヶ谷ならぬ水平線が見える。後は日輪を輝かせるだけである。椿説男の死の最終カットはこれしかないと思っていた。 私は常日頃、根気もなければすぐにめげるへなちょこだが、それはひとえに、こういうことの為に、執念を温存するための仕組みでそうなっていると解釈している。こんなことは一つあれば充分だし、たくさんである。

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三島自決の現場は、かつての市ヶ谷駐屯地を再現した巨大な模型が鎮座し、巨大なガラスケースが部屋一杯を締めている。自衛隊にとっては三島事件は黒歴史であることは間違いなく、ドアに残った刀傷についてツアーガイドは触れるものの、無駄に部屋一杯を占めるかつての様子を伝える模型は、この部屋が聖地になるのを防ぐために、設置しているかのようである。もっとも、ツアーには刀傷を撮影する三島ファンが一人いるくらいであった。 3つ並んだ窓のうち、三島等が出入りした窓は左側で、割腹したのは、丁度それを正面に見た位置である。付き添いの担当者に確認もした。どうやってもケースが邪魔で、思ったようには撮れなかった。もちろん、撮れないからといってめげる私ではない。こんなピンチはいくらでも経験している。頭にあるイメージのためなら、どんな卑怯な?手だって使う所存である。外側にレンズを向けず、眉間にレンズを向ける念写が理想である私が、見たまんまで許す訳には行かない。帰宅後、日が変わる1時頃には、私が本気で部屋を片付けたらこうなる。ただしイメージの中だがな。部屋には窓と赤い絨毯以外何もなくなり、正座した人物が、左側の窓を正面に見た光景が完成した。
勲は深く呼吸をして、左手で腹を撫でると、瞑目して、右手の小刀の刃先をそこへ押しあて、左手の指さきで位置を定め、右腕に力をこめて突っ込んだ。正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕と昇った。” 豊穣の海 奔馬より 
そしてこれが三島由紀夫由紀夫へのオマージュ椿説男の死の最後を飾るカットになる予定である。


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午前中、三島の『椿説弓張月』白縫姫仇討ち場面の馬琴の文章を複写。浮世絵のように背景に配そうと考えている。こんなことは、主役に陰影があったら出来ない。白縫姫は武藤太を縛り上げ、指を一本一本切り落とし、腰元に命じ、竹釘を打ち込み、苦しみうめく武藤太。北斎の挿絵には、すでに手下二人の首ははねられ、まるで果物のように置かれている。原作ではその後白縫自ら武藤太の首をはねる。恐ろしい場面であるが、歌舞伎では、こんな仇討ち場面なんて拍手喝采であろう。歌舞伎同様、私にしたところで、これまた陰影がないから手掛けられる無残な場面である。以前、神風連の割腹シーンを作ったが、はみ出すハラワタに三島の映画『憂国』同様、豚モツを使用したが生々しい。その時も、写真というものの身も蓋のなさに往生し、暗くして判り難くするという私が最も避けたい策しか取れず。それにしても三島は、当然一年後の市ヶ谷のことを念頭に演出していた訳である。改めて私の作家シリーズの中でも、作品の挿絵じみた物を制作しているようではまったく話しにならない相手である。そしてそんな本日、市ヶ谷駐屯地のツアーに参加して再びあの現場ヘ。途中交番で尋ねるが、子供みたいな警官に市ヶ谷駐屯地といっても通じず。 前回はバルコニーの撮影が目的であった。実際は大分コンパクトに移築されており、そのままでは使えず、良く再現したなと久しぶりに見て我ながら感心した。今回の目的は、三島が最後に目にした光景を撮影することである。ライターの妹尾美恵さんと待ち合わせ突入。あの部屋は、三島に思いをはせるのを防ぐために設置したとしか思えない、巨大で無粋な展示ケースが鎮座し、邪魔でまともに撮影できないようになっている。イメージのためなら、どんな手でも使うことにしている私である。すべてどかしてやる。

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陰影  


先日お邪魔した地元の陶芸家の先輩の工房には実家に帰るたびに遊びに行ったが、冗談でも一度もロクロの前に座ることはなかった。黒人ジャズ、ブルースシリーズから作家シリーズに転向してからも黒人は作らなかった。背景を先に撮影し、完成した人物をそこに配するようになってからは、片手に人形、片手にカメラで、というアナログな撮影は一度もしていない。あらゆる方面にけじめを付けずダラダラな私だが、こういうことだけは頑なである。であるから陰影を無くすならずっとその手法のみで行くつもりであった。しかし最初の三遊亭圓朝の3作目にして早くも寄席の前を行く圓朝に、寄席から漏れる灯りを当てたくて身をよじり、ゲンセンカン主人では半裸の女に行灯の灯りを当てたくて耐えられず。 そもそもが自分で粘土で作り出した陰影を、さらにライトを当てて強調して描ける、という写真のメリットを享受し作品化してきた。頭で考えた決めごとより、創作上の快楽を優先し、陰影を表現したい時は、我慢するくらいなら陰影を描こう、と決めた。先日書いた大リーグボールを相手によって投げ分けよう、という話である。 寝床で数年に渡って、ようやく完成した太宰治の首に、ライト一灯を当て、これだけ苦労させられたのだから、これから私に、創作の快楽で返して貰わないとならない。そもそも太宰の表情に陰影出さずに済まそうっていうこと自体が困難である。






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以前、永井荷風を撮影する前日、富岡八幡宮の骨董市で、荷風が愛飲した煙草、光の空き箱を見つけてさっそく使った。荷風は居候だろうと畳に平気で焼け焦げを作る。太宰治はゴールデンバットだったらしい。ヤフオクで探して落札した。勿論健康のため、なんて書かれていない昔の物である。 昨日芭蕉記念館の方から頂いた資料に門弟の許六の描いた芭蕉庵の前の芭蕉があった。側頭、後頭部を残しツルッ禿げであった。これである年齢以降の芭蕉は禿げに決定した。相変わらず、芭蕉像に関しては、門弟の描いた物以外は無視である。ということは、深川より芭蕉庵を出て、奥の細道に出発した時点で、すでに毛は無かった、ということであろうか。芭蕉庵まで作るとなれば、どこかで実景を撮影し、庵内の芭蕉を含め、芭蕉庵ごと合成して、当時の光景を再現する、という初の試みも有りではないか。勿論、どこからか古池も引っ張って来て。 前回はカワズ飛び込む、をやるために池に石を何度も放ってはシャッターを切った。やってみて判ったのはチヤでしぶきが上り、ポンで波紋が出来る。それを合成して本来はあり得ないチャポンを創作した。今思うと、やり過ぎであった。芭蕉は“チャポンと飛び込む”といっている訳ではない。ただ私が勝手に、カワズが飛び込むならチャポンだ、と決めてかかったに過ぎない。嵐山光三郎さんは『悪党芭蕉』の中で、蛙はそもそも飛び込まない、芭蕉の創作だ、と書いている。



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毎年松尾芭蕉にちなんだ各所で持ち回りで芭蕉サミットが開催されるのだが、今年は江東区の芭蕉記念館で行われる。江東区には小林一茶も住んでいたらしいが、江東区といえば小津安二郎と松尾芭蕉が世界的な二大スターといえるだろう。その二人を私が作っていたことで江東区の収蔵となっている。そこにある限りずっと観てもらえるとうのは何よりである。 何年も前になるが、芭蕉の名の由来となる芭蕉の木を生やした芭蕉庵があった江東区であるから、絵では様々な人が描き残した芭蕉庵の芭蕉はあるが、立体で作ったらどうだろう、と職員の方に話したことがあるが、いってみるもので、予算もなんとかなりそうだ、という。ところが先方は、すでに一体収蔵しているからか、芭蕉庵のみのつもりでいた。私はジャズシリーズ時代も楽器はしようがなく作っていた口であり、あくまで人物のために作っていた。木場を擁する江東区である。隠居した大工の棟梁にでも頼んだ方が間違いなく良い物が出来る。芭蕉庵まで作ると提案したのはあくまで句作に想いをはせる芭蕉を作りたいがための背景としてである。そもそも私の芭蕉を物思いにふけさせるには軽く1メートルは超えてしまうだろうから、そんな立派な犬小屋みたいな物を作る気はなく、肝腎な部分だけのつもりあり、芭蕉像を横にして、現場合わせで作るつもりでいた。というわけで、つくづく打ち合わせは顔を見ながらやるものである。これにかこつけ、5月の個展に芭蕉作品も出してしまうというのはどうか。芭蕉こそ陰影なしの石塚式ピクトリアリズムにふさわしいだろう。いずれそれ用の用紙でも出てくれば軸装も試みたいものである。

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小学生の頃、漫画やアニメの『巨人の星』が待ち遠しかった口であるが、大リーグボールはまだ一人にしか打たれていないのだから人によって投げ分ければいいじゃないか、と思った。投げ分けることについてのシーンもわずかにはあったが、開発の苦労から初披露で球場が静まりかえり、そこから始まるライバルとの戦いに子供達は熱狂した訳で、新たな戦いこそが面白い。 私は写真を始めて、大まかにいうと三種類の手法をとって来たので冗談で私の大リーグボールなどといっているが、1号は片手に人形、片手にカメラのアナログ撮影で、今ではスマホで誰でもやっているが、90年代の終わり頃、やっている人はいなかった。2号はというと、たいした風景もない都営地下鉄沿線に人形を配さなければならないフリーペーパーの表紙のために、背景を先に撮影し、それに合わせて人物を造形し、背景に合成というもので、創刊2号にして、大リーグボール1号が役に立たないことが判っての苦肉の策であった。そして、ここ数年やっている、陰影のない日本画調の3号である。 私も新たな手法に至ったなら、投げ分けなどせず、それ一本で行くべきだ、と考えるたちであったが、元々が人形制作者の私は“自ら作り出した陰影”である被写体に陰影を与える写真の面白さに抗しがたく、被写体、シチュエーション、つまり対戦相手によっては投げ分けも有りという結論に至った。ところで長々と何でこんな話しになったかというと、作品も人物自体も陰影のある太宰治は、私の大リーグボール3号では効き目がないな、と考えている。対戦するなら1号か2号であろう。

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おおよそ肝腎の頭部が出来ているのに、どうも納得出来ない場合、額が原因であることが往々にしてある。太宰は前回、女性を横に配したために粘土製の頭髪に違和感があり、自分の髪を撮影して合成した。昨年、作り直そうとして傷口を広げ、収拾がつかなくなり、捨てて来ようか、と一瞬考えたが、例え酷い状態であろうと、それまでかけた念だけはこもっている、一から始めるより良いだろう、と団ボールに放り込んでおいたのを作り直し、髪に隠れていた額がまずかったのだ、と気がついて、ようやく生き返った。 酒場の太宰も良いが、晴天の元、一人すっくと立つ太宰というのも良いような気がしてきた。ただ、単純に空を背景に、というのはどうも物足りない。そこで一つアイディアが浮かんだ。カラフルな所がかえって面白そうである。 以前住んでい所であれば、この頃合いで首をポケットに入れ、酒場に出かけた所であろう。見せられる方は、何かいわないとならないだろうし、迷惑な話であったろう。作者とすると、作り続けて目が慣れたところで、ちょっと目を離し、間を置くと違って見えることがある。ポケットの中で、変わっちゃいないだろうな?つい取り出しては確認したくなるのである。まして家に置いて出かけて、帰って見たら印象変わってた、なんて怖くてしようがない、昔は違って見えて慌てることが多く、おかげでそんなことが習慣になってしまった。本当は酔客に見せびらかすのが本意ではなかったが、そのうち世間話のネタにもなっていた。





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