明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



達磨大師の耳輪。アマゾンで注文したが2回イメージに合わず。ようやく。やはりこれがないと雰囲気が出ない。 首が完成し、身体を一気に作る3日ほどまでが一番面白い。乾燥が終わり着彩までの修正が、どうしても作業という感じで飽きるので、蘭渓道隆、無学祖元、雲水姿の一休宗純を、あっちやったりこっちやったりして進めて行く。そういえば、今回、モンゴル人とインド人まで作ったことになる。これらを仕上げれば、今回、予定の被写体は全て揃うことになる。しばらくは余計なことを思い付かないでくれよ、と。 危険なのは、制作以外の油断している時に限って、棚からぼた餅のようにイメージが降って来る。たまたま居合わせた目撃者によると、いかにも思い付いた、という顔をするらしい。養老孟司によると、人間は頭に浮かんだ物を作るように出来ているらしいが、浮かんでしまうと抑えが効かなくなり、思春期のサルの如しとなる。 嗚呼、また考えてしまう。死の床でぼた餅が落ちて来たら悶え苦しむことになるだろうと。

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『慧可断臂図』において、面壁坐禅中の達磨大師の表情を描くため、雪舟は真横を向かせたが、私は振り向かせた。月岡芳年は『月百姿 破窓月』で面壁姿を描いているが、破窓月と、窓があったのか壁を崩し、達磨大師の表情、姿を露わにした。ただ打ち捨てられた廃墟で目を閉じている、という感じである。私も月下の達磨大師 を考えているので、芳年のやりたいことは良く判る。大半は面壁にこだわらず、外に向かって座る姿が描かれている。 坐禅姿の蘭渓道隆を作ったのだから、本人が坐禅をしたといわれる建長寺の坐禅窟 を背景に使いたいが、背を向けていては仕方がないと一応断念したが、数ある達磨図同様、律儀に壁に向かわす必要はないだろう。たまには外の景色を眺めることぐらいあっただろう。そういえば、座禅窟の坐禅中の蘭渓道隆を一遍上人が尋ねて来た、という逸話があり、これに乗じて一遍上人が作れる!と一瞬色めきたったが、事実でないと検証されていた。〝事実かどうか定かではない“であれば、間違いなく私の出番だったのだが。虚実の間で一喜一憂。


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琴ノ若大関昇進確実ということである。思い出すのは祖父の横綱琴櫻、佐渡ケ嶽である。解説席に座ると、絶対弟子を褒めず、けなしてばかり、勝った時くらい褒めてやりゃいいじゃないか、とテレビを観ながら思ったが、それが逆に弟子思いの師匠という感じが滲んだものである。一推しの宇良は残念だったが、まだまだこれからである。 昨日はネパール人が私の達磨大師見てヨギ(インドのヨガの行者)みたいだ、といっていたそうで、これで肌を浅黒く着彩すれば少なくとも旧来の達磨大師とは趣の違う達磨大師になりそうである。 達磨はインドからから中国に来たのは結構歳を取ってからのようである。そう考えると、多少白髪混じりで良いかも知らない。白髪混じりの達磨大師は記憶にないし。そこで浮かんだのが、レスラーに刺されて亡くなったプロレスラー、ブルーザー・ブロディである。晩年来日の頃は、かなり白髪が混ざっていた。モジャモジャの髪とモジャモジャの髭に混じる白髪。あの感じだ。



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日曜美術館で河井寛次郎を観る。特に興味ががあった訳ではなく入った工芸学校の陶磁器科だったが、河井寛次郎を好きになり、その気になった。記念館は2回行った。 本日は知り合って40年という連中と会うため本八幡のHさん宅に集まる。Hさんのネパール人の奥さんの退院祝いをかねて。インド、チベットなど何度も行ったような人達なので、最新作の達磨大師を持って行った。Hさんとは、私の初個展の直後、地元の情報を載せるチラシの取材で知り合った。インドに行って写真を撮っていたHさんは、私の部屋に転がっていた人形を撮った、記憶も薄れつつある、未発表作の、モノクロプリントのアルバムを作っていて驚く。大変危険なアルバムであった。当時写真に興味がなかったので、記録に残そうとも思っていなかった。それがいつしか写真が創作上の最終形態となり、写真展をやっている。 奥さんのイギリス住まいのネパール人のお兄さんと息子さん、その他インドネパール仲間の方々が集まっていた。持って行った達磨大師を披露する。インドの達磨事情?聞きたいところだったが、仏教徒は数パーセントで、まったく情報は得られず。日本にはチョンマゲ姿が歩いている、と思い込んでいる外国人が、チョンマゲについて日本人に質問してるが如き有様であった。 これで予定している被写体は揃った。すべて仕上げ着彩を済ませ、来月より撮影に入りたい。

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一日  


達磨大師を包む法衣はほとんど指で制作した。なので蘭渓道隆の仕上げもそうしてみた。そう違いが出る訳ではないけれど。ちょっとでも良い思いをすれば試していく。久しぶりに目の前の円覚寺開山、無学祖元の仕上げ。こちら円覚寺の木像を元にした。頂相彫刻の傑作といわれるだけある。作りたかったのは、ただの座像ではなく、来日前、蒙古兵に刀を向けられながら微動だにせず、という来日前の名場面が、おそらく可視化されていないことだった。円覚寺は元寇との戦いによる敵味方双方犠牲者を祀る目的で建造され、無学祖元は開山として招かれることになる。しかしなんだか良く判らない蒙古兵を作ることになるとは思わなかった。蘭渓道隆は肖像を正面を向かせることに意義があるが、人物により作りどころは様々である。頂相あるいは頂相彫刻は、縁ある特定の寺に収蔵される物で、今に至れば、手付かずのモチーフが無尽蔵にある。肝心なのは仏像と違い、あくまで人間を描きたいというのは相変わらずである。

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今回の制作の中でも特別な思いがあるのが建長寺の開山、大覚禅師こと蘭渓道隆である。宗時代の中国より持参したというのは間違いで、日本で描かれたらしい国宝の肖像画があり、自賛が書かれているので、生前の作、つまり本人のお墨付きともいえるだろう。他の肖像画、彫刻は死後の作ということもあり、作者と私とは、条件はほぼ一緒である。肖像画のみをもとに立体化を試みた。例によって肖像画には陰影がなく、部分だけ見ては立体感がつかめず、顔全体を見て立体として把握しなくてはならないが、頭部だけでも数ヶ月かかったのは、足りないディテールは、実はどこかで見た、人間の記憶により補完しているはずで、私の人の形状に関する記憶が生かされる。しかし私の辞書に載っていないタイプの顔であった。 結果として、建長寺に数百年伝わる木像と別人になってしまう。その肖像画も建長寺の収蔵品なので良しとした。斜め45度を向いた肖像に、真正面向かせられれば、蘭渓道隆に関する、私の目的のほとんど全てを達成することになる。

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月下達磨図、一瞬で浮かぶのは良いのだが、一度浮かぶと変更が効かない。大抵他のことをしている時に、棚からぼた餅のように、構図などもほとんど決まった状態で落ちて来る。他に別の可能があるのではないか?とジタバタしてみるが、ファーストインプレッションを超えることがない。結局それが作品になって来たのだから、良いのかもしれないが、これさえなければ、他のパターンかあったんじゃないか、スケッチブックを前に、色々やりたいのに。このスケッチがまた曲者で、何かの端っこにイタズラ描きして、いやちゃんとスケッチブックで、しかしイタズラ描きを超えられずゴミを漁ることになったり。なのでスケッチなど一切しないことに。月下達磨図はもう配置も変えられない。作りながら考えるのは巌窟、崖のディテールくらいだろう。草や松の枝を配したり。月が後ろで輝いているからといって、あるいは巌窟の奥にいようと陰影ないので構図だけが重要となる。実際に居もしない人物のために光と陰を気にする必要はない。明日は達磨の耳輪が届く。


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達磨大師をベランダで乾燥。5日で出来てしまったが、旧来通りの達磨大師に、と珍しく殊勝なことを考えていたはずが、よっぽど珍しい物になってしまった。天竺となると遠い。見たことがないインド人を、中国人の描いた物を鵜呑みにしたとしても仕方がないが、作るとなると、サーベル咥えて乱入して来るインド人を散々観て、先週もインド人のカレー屋に行った私としては我慢ができなかった。江東区で、良くチラシを持って呼び込みをしているインド人がいるが、そこに入ろうとすると、目が合っているのに、入れないように立ちはだかっているかのように、寸前まで立っていることが2店舗続いた。なんだよインド人?以来店の前に立っている店は避ける。 雲水姿の一休宗純飲をようやく仕上げに入る。洞窟の入り口に座る達磨大師。背景に大きな満月。少林寺の塔がシルエットとなり、という画が浮かんだ。前回『慧可断臂図』で巌窟の制作は経験済みである。インド人の達磨大師を作ってしまうと、いまさらしおらしく実景の巌窟など使うこともないだろう。という気がする。こんなことが積み重なり、またあらぬ方向に向かって行くのであろう。それで良いのだ。


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私のブログを見て達磨がインド人と知って驚いたという人がいた。そうでしょう?あれではインド人には見えない。 インド人の描いた達磨も今のところみつからない。インドに10回は通った友人も知らないという。仏教徒のインドの友達いないから判らないが、仏跡巡りの現地でガイドしたりお土産売っているのは、みんなヒンドゥ教徒だという。 少々居もしない人物を捏造してしまった感がよぎる。しかし我が渡世においては、それは通常業務のうちである。虎を見たことがなかった日本人のように、インド人を見たことがなかった日本人が、描き継いで来た結果かもしれない。しかし先週もインド人のやっている店でカレーを食べた私が、あいも変わらずの達磨大師という訳にはいがないのである。 江戸川乱歩の生誕地で乱歩の資料を収集などされている中相作さんより『伊賀一筆fmと乱歩誕生』を御恵投いただく。


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達磨大師は、私にはインド人に見えたことがなかった。千年単位で固定化されたイメージであり、新たなイメージを目指すような相手ではない、と旧来のイメージに準じよう、と制作を始めた私であった。今まで私ならではの作品を作って来たつもりであったが、達磨大師には早々に白旗を上げつつ制作を始めたが、性根というものは、容易に改まるものではないらしく、結果、禿げ頭、濃い眉に髭、ギョロ目に太鼓腹、という従来の条件を踏まえながら私ならではの達磨大師となったのではないか。 樋口一葉の雅号一葉について。一葉と同じ歌塾に通った旧友の証言が残っている。一葉は桐の一葉ですか?と問うと「そうじゃないですよ達磨さんの葦の一葉よ。」と答えた。達磨大師は揚子江を葦の葉に乗って渡ったという故事がある。「おあしがないから。これは内緒ですよ。」葦と達磨に足がない、と一葉にはお金がない、をかけたという訳である。私が制作した一葉は、未だに残る、一葉が通った旧質屋から用事を済ませ出たところで雪が、という年の瀬の一場面である。 面壁九年の坐禅のせいで、手足が腐りなくなってしまった、というのは、布で覆われた達磨の様子から日本で創作された話しだそうで、つまり達磨にお足はあった、ということになる。


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日曜美術館で、新宿西口広場を作った建築家を紹介していた。コルビジェに学んだそうだが、地下広場に関しては、極度な方向音痴の私には青木ヶ原の樹海を研究したようで、もっとも行きたくない場所の一つである。 虎を見たことがなかった日本人は、中国渡来の絵画や、毛皮を見て想像で描いた。なので身近な猫じみた虎が多い。そこで猫を撮影して、そんな虎を制作してみたことがある。 そう考えると、達磨大師も、インド人を見たことがない日本人が、インド人はああだ、と真に受け、描き継いで来たのではないか?というぐらい、私にはインド人に見えない。ここ何年か日本美術の資料を見続け、日本の写し、という学びの文化に、いささかウンザリしている。本日虎のことを思い出したのだが、そう考えたら、先日まで私なりの達磨大師など作りようがない、と伝統に殉じた達磨大師 を作るつもりだったことを思うと。タッチの差で、私なりの、禿げ頭、濃い眉に髭、ギョロ目に太鼓腹のインド人の修行僧が座っていたら。という達磨大師にはなったのではないか?これで良いのだ。明日より乾燥に入る。


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ラインナップの充実のため、私ならではの、などと考えずに、無難な達磨大師を、といつになく殊勝な心持ちで取り組んだ達磨大師であったが、予定とまったく違う物を作っている。ここ数日を思い出してみる。当初、普通の人間っぽい感じで行こう、となのでギョロ目はやめようと書いた気がする。しかし、そもそも達磨大師が普通の人間であろうはずがない。結局ギョロ目になってしまった。これでもう普通の達磨大師だ。と思った記憶がある。二日で頭部が完成し、知り合いに、首から下を作り始めた画像を送ると「外人みたい。」といわれた。いや、そもそも達磨大師はインド人だ、知らないのかな、と思った。そういえばインド人ということになっているが、インド人に見えないけれど、インド本国では、もっとインド人じみた達磨大師がいるのかもしれない。昔からインド通いの友人にメールで聞くと「そうかなぁ…ギョロ目に濃い髭、おまけに禿頭って、まんまインドのおじさんなんだけど。」これが引き鉄になった。 口ではオーソドックス、とか私ならでは、は無理とか殊勝なことを言っている、確かに頭ではそう考えていたが、実はへそ下三寸に在るもう一人の私が、殊勝な言葉の藪に身を潜めていた気配が。明日には始めた時に想定したのとはまるで違う達磨が乾燥に入るだろう。


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昔からインドに10回くらい行っていた友人に、インドには、もっとインド人じみた達磨大師のイメージがあるか聞いてみたら「ギョロ目に濃い髭、おまけに禿頭って、まんまインドのおじさんなんだけど。」という。AIじゃあるまいし。たった3つのキーワードでインド人とは?星の数ほど描かれて来た達磨図は、描いている方も、古来よりインド人のつもりで描いて来たのだろうか?インドに10回行った人がそういうのだから、そうなのかもしれないけれど。私にはインド人には見えない。いや正確にいうと、私の辞書に載ってるインド人ではない、が正しい。つい先日まで、これだけ定型化していると、私ならではの達磨大師など作りようがない。また新たな達磨大師像を、と挑戦するような対象でもない。その辺はわきまえている。なのでラインナップのバランスのために作ろうと決めたのだったが、友人の「ギョロ目に濃い髭、おまけに禿頭って、まんまインドのおじさんなんだけど。」のメールに、変なスゥィッチが入ってしまった。結局、私なりのインド人の達磨大師を作ることに。顔と太鼓腹はそのままにして、骨格その他で、インド人にならなくとも、せめて日本人でも中国人でもない達磨大師にはしてみたい。ここで生きて来るのは、幼稚園児の頃、黒タイツの英雄の時代から毎週見続けた、様々な人種の男たちの裸の種々相の記憶である。


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制作中の達磨大師を知り合いにメールすると「外人みたい。」「達磨大師ってインド人だよ。」なので『慧可断臂図』の時は黒い肌にした。そういえば、いかにもなインド人調達磨大師って見たことがない。知人も私の達磨大師が外人に見えるくらい、日本人あるいは中国人調イメージが普通である。そこでしょっちゅうインドに行っていた知り合いに「インドにはインド人風達磨大師って絵でも彫刻でもあるの?」と聞いてみた。すると意外なことに「そうかなぁ…ギョロ目に濃い髭、おまけに禿頭って、まんまインドのおじさんなんだけど。」という。あの程度でインド人的表現ということになっていたのか?。 達磨大師を作ることに決めたけれど、初めから私ならではの達磨大師は作りようがない。と考えていたが、これで気が変わった。当初、戦後のアメリカマット界で反日感情を利用して悪役として活躍した日系レスラー〝血笑鬼“グレート東郷のような、頭でっかち猪首で腹が出た人物をイメージしていたが、胴体はそのままに腕を長めに骨太にし、日本人とは明らかに違う体格にした。さらに、袈裟の原型はインドのサリーだと聞いたことがある。そこでお馴染みの法衣も、布を巻き付けたサリー調にしたい。達磨大師ともなると本人と面識がある人物が描いた達磨大師像は存在しないだろう。かまうことはない。と思う。

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達磨大師は衣に包まれ手足を作らないこともあり制作は早いだろう。法衣用の粘土も届いたので、一気に完成に向かいたい。 〝人間も草木同様自然物。肝心なものはあらかじめ備わっている“と考えて来た。〝考えるな感じろ“もブルース・リーに教わるまでもなく知っていた。ただ目の前の作りたい物を、パン食い競走のパンに齧り付くように、欲望のまま齧り付いて来たつもりでいたが、それにしては誰かがシナリオを書いているかのように、どこか一点に向かっている気がしてならなかった。当ブログにおいても、かつてNHKの3匹の子豚『ブーフーウー』で、連中を鞄から出し、クランクを回してお芝居を始めていたお姉さんのような存在が?などといっていた。 作家シリーズ最後となったふげん社における『三島由紀夫へのオマージュ椿説男の死』のトークショーで「次は何を?」の声に、つい寒山拾得と口が滑ってしまったが、そのふげん社は、拾得が普賢菩薩の化身だ、というところから名付けられたという。そんな縁で2年後の寒山拾得展が決まった。もしやと思って指折り数えたら2年後は、初個展から40年目であった。件のお姉さんが存在しているとしたら、お姉さん、少々やり過ぎの感さえある。そこからさらに変化は続いており、行けば判るさ。と達磨大師を作る私であった。明日には乾燥まで持って行けるだろう。

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