明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



『大鴉』完成。嵐の夜の話である。撮影した背景が、室内光と日中の曇天の外光が混がざり合っていて、苦肉の策で床に反射していた外光を夜の暖炉の灯りに設定した。自動的に、手前に配すエドガー・ポーも下から暖炉の光が当たることになる。このライテイングはポーでいずれやるつもりであったが、最初の1カットになってしまうとは予定外である。本来10カットあるうちの1カットとすべきであろう。一龍斎貞水のように、しょっちゅう顔に下からライトを当てている人物ならともかく、いわれないとポーには見えないかもしれない。特にポーは、数カットあるうちの有名な1カットが、トップライトによる眉下の陰のせいで、目の周りを真っ黒くして始めてポーらしく見えるくらいである。あれは陰として扱うべきだが、殴られたかのように着彩してしまっている立体が多い。おかげで『オペラ座の怪人』のロン・チェイニーのメイクのように怪人調になる。 宮沢賢治は、残された写真は、ほとんどアゴをひいて上目遣い気味の真面目なボクサー調である。だいたい正面を向いている。アゴの下に手をやったりの、カッコ付けたポーズをとらないところが賢治らしいのだが。しかし私は思いついた構図から、下からあおって撮ってみた。誰も見たことがないので宮沢賢治に見えないだろうな、と思いながら、どこからでも撮れる立体のメリットを優先した。横顔ばかり知られている小泉八雲や正岡子規など、もっと違和感があるだろう。 本来8月中に3カット仕上げる予定であったが、後の2カットは明日1日、遅くても2日には出来ていなければならない。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ドアの上に乗る女神パラス(アテナ)の胸像。その上に止まる鴉。撮影現場の室内光と外光が混じり合う話にならない光線状態を、赤々と暖炉の火が照らす室内に変えた。ほとんど腕力にものいわせたような作業である。先日の撮影後、Sと一緒に焼き肉ランチを食べながら、あんなメチャクチャな条件の撮影で、何故平気で焼き肉を食べているのだ。と不思議がってしまったくらいである。これはひとえに4年続いた『中央公論アダージョ』のおかげである。都営地下鉄の駅周辺を背景に、という条件であったが、特集人物にちなんだ画になる名所でもあれば良いが、ほとんどそんな条件はなく、頓知で切り抜ける他はない場合さえあった。以来、悪条件でもめげることはなくなった。頓知が必要ない分、今回は楽である。 暖炉の火ということで光りの向きが決まり、パラス像にも同じ向きの光を当てた。明日にでも画面に参加予定のエドガー・ポーにも、当てる光が決まったことになる。ポーは手前に、つまり最も暖炉に近い設定なので、光の強さ、角度などそれなりに変えることになる。 私の場合、数字は聴いているそばから忘れてしまうが、おかげで空いたスペースにどうでも良い事が記憶されている。例えば高校の友人の家に遊びに行き、2階の窓を開けた友人の背後に見える天井の様子など。実にどうでも良い。しかしこんな記憶が役に立っている。これが観察してやろう、と入って来る記憶はどういうわけだか使い道がない。つまり私は常にボンヤリしていないとならないのである。 自分で書いていて、怠け者のいい訳にしか感じられない本日のブログであった。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




最近金融詐欺が酷い事になっている。なんとかファイナンスだなんだと、ネット上にいくらでもある。あるサイトを見たら、代表取り締り役の挨拶があって、何々で御座います。という名前とその文章の最後の名字が違っている。だいたい資本金26億の会社で無料のHPというのがそもそもおかしい。金融庁に電話して確認したら詐欺会社であることが判った。こういうのは警察にいっても削除に動いてくれないのは被害者に訊いて判っていた。そこでフェイスブックに、これは詐欺だとURLをさらしたら自動的に取り締りの顔がアップに。そこらに転がっていた爺を風呂に入れて背広着せたに違いない。さらに床屋代と焼酎代くらい貰ったんだろうか、と。しかし後で考えてみれば、こんな事で顔をさらしているのは利用されている人に決まっているわけである。 この人物一体誰なんでしょう、と投稿があった。ある企業の代表取り締りがネット上のインタビューを受けており、件の人物の同じ写真と別カットが掲載されていた。名前も当然違っている。勝手に使われていた被害者だったのである。私はフェイスブックを使いこなしているとはいえず、一度投稿したら削除は出来ない、と思い込んでいた。慌てて、そういえばそにこらに転がっていたにしては品があった。その品格故、犯罪に利用されてしまったんですね。とまったくフォローになっていないフォロー。 それにしても、そうと判れば放っておく訳にはいかない。某企業にお知らせした。案の定秘書の方も全く知らず驚いていた。さっそく動かれるであろうが、知らなかったこととはいえ、どこかに転がっていて風呂に入れられ背広を着せられ、床屋代と焼酎代をもらった爺扱い。このままではまずい。投稿の削除の仕方を教わり事なきを得たのであった。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




かみさんと電話で,話しているのを見ると“電話の向こうにいるのはパットン将軍か?”と思うSと1時に某駅で待ち合わせて撮影に向かう。手伝ってもらうことはないが、ヒマだというし、一年は会ってないので撮影後旧交を暖めようという算段である。『大鴉』の背景の撮影。これは嵐の夜の出来事である。いくらかでもマシだろうと曇天日を待っていたのだが、現場は赤味を帯びた室内光に、全開のドアや窓から入る青みを帯びた曇天の外光が、想像以上の混ざり具合である。撮らないことには始まらない。しかしそんな状態ではあるし、シチュエーションは決まっている。数打って当たる物でもなし、20数カットで終了。時間にして3、40分だろうか。 この時間で開いてる店を探すが焼き肉屋しかない。例によってパットン将軍とSとの“二等兵物語”をひとしきり訊く。かみさんにパットン将軍って誰?と訊かれたというので、いつかナイチンゲールと並び称された人物。と書いておいたのだが。どうやらSがいいつけただけで、ブログは見ていないようである。元々マゾ体質のSであるから、まずまずの家庭生活といったところであろう。Sと別れて画材屋で絵の具を買い、地元に帰って二カ所程顔を出し、背景の制作。前日ほとんど寝てないのだから、一度寝りゃいいものを、あんなめちゃくちゃな光をどうすれば良いか。ハードルが高過ぎて頭が冴え々。 『大鴉』はポーの出世作といっていい詩である。ポーの謎の最期を描いたフィクション『ポー最期の5日間』では、酒場でツケをため揉め事を起こすポーに酒場は酒を出そうとしない。そこでポーはこの詩の続きを言えた者に酒を奢ると客に向かって叫ぶ。結果一人いたわけだが、つまりエドガー・ポーにとって『大鴉』とはそんな作品というわけである。 画像を見ると上からの室内光に、床に当たった外光が上に向かって反射している。そこで外光の成分を強調し、色調を変え、下から室内を照らす、赤々とした暖炉の光に変えた。やればできるものである。気がついたら今日も夜になっていた。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エドガー・ポー3体目のマント姿の仕上げを進める。なかなか格好が良いように私には見える。 ポーのイラストその他は、多くの場合、怪奇映画のマッドサイエンテイストのように描かれる。しかし、当時の証言によると、気難しいアル中そのもの、というような意見は多いが、ハンサムで物腰の上品な紳士であった、という証言が女性だけならまだしも、男性の中にさえある。 確かに26歳の時、13歳の美少女を口説き落として妻にしており、そんな子供にさえ自作の詩を読んで聞かせ、ウットリさせるだけのものがあったに違いない。伝記などを読むのは、写真だけ見ていても伝わって来ないイメージを得るためである。よってマントを羽織ってすっくと立ち、またはパイプをくわえた名探偵に扮して充分。まずはそんな人物にしてみたかった。 夕方、SさんとKさんと居酒屋に行く、Kさんは定年後、4年も経つのに検査に行こうとしないので、私が騙して、ようやく行かせた。しかし結果を聞きに行くのが怖い、と毎日そればっかりで、うっとおしくてしょうがない。怖いからって朝から飲んで結果を聞きに行くなよと言い聞かせる。周囲では、むしろ異常がなかった場合、飲み過ぎてケガして、また救急車に乗るはめになるのでは、ともっぱらである。 外に出て、隣に新しい店が出来たな、と思ったら、この間『孤独のグルメ』に出て来たカレーの店であった。行列ができているらしい。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日、85歳になった母が妹の貯まったマイルを使い、一人で飛行機で広島に行って来た。広島出身のK本の女将さんとT千穂の女将さんに、土産に紅葉饅頭を買って来た。ドラマでキムタクが凍らすと美味しいといっていた。K本からの流れで母を交えて皆さんとT千穂でひとしきり。明けて本日。私の携帯電話がない。母と連絡を取る必用があったので公衆電話へ。まったくしょうがない。と母。確かに初代携帯電話は行方不明のままだし、何度壊したかわからない。先日もコンビニに忘れたばかりである。 私が最も嫌いな機械はパソコンのプリンターで、癇癪の素、ともう何年も使っていない。次が携帯電話であったが、ここまで使っていると、まあ有った方が便利になっている。その後公衆電話から母にかけるが、何度かけても留守電。携帯に転送するのを忘れて出かけたらしい。そうこうして夕方友人から、母から電話があり、私の携帯電話が家にあったといっている、という。昨日、バッグに入れて持って帰ってしまったらしい。T千穂に行くと、ここにも母から電話が来た人がいて、みんな知っていて笑われた。結局私は留守電に、母は自分のバッグに入っている私の携帯に、一体何をしている。と親子で罵倒しあっていたことになる。まったく年寄りはしょうがないな。ということで事なきを得た。 しかし今書いていて、昨日、母を送り出す時に、持っているのが邪魔、とつい母のバッグに入れたような気がしてきた。せっかく年寄りはしょうがない、ということで収まったので、蒸し返すつもりはないが。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




本日はペーパーがけ。粉だらけである。後は細かい所に手を加えて着彩に入れるだろう。 オイルプリントの制作は04年以来で、十年ぶりである。改めて年月が経つのは早い。会社が倒産して絶版になってしまった『乱歩 夜の夢こそ真まこと』(パロル舎)を出すことになり、オイルプリントを一旦中断したのだが4年続いた『中央公論アダージョ』の表紙を担当することになったり、等々ですっかりお留守となっていたが、たまたま乱歩の本と一昨年出した『貝の穴に河童の居る事』は担当編集者が同じで、河童本の完成の頃には、これも何かのきっかけ。そろそろオイルプリントを再開しようと考えていた。 その間、古典印画法を試みる人が増え、なんといってもインクジェットプリンターによるネガの制作があたりまえになっていたのは進歩である。オイルプリントは感度が低いため、引き延ばしができないので、作品大のネガが必用である。当初大型の8×10インチのカメラを使い、最後はデータをイメージセッタで製版用フィルムに出力したものを使っていた。 十年振りでうまくいくかどうか。一つ目の問題は、私の場合諧調をより出したいために用紙に塗布するゼラチンを厚めにする。ところがゼラチンは室温が高いといつまでも固まらず、ゼラチン紙が出来たとしてもプリント時、ブラシで叩いているうちにゼラチン層が崩れてしまう。そこでゼラチン紙の制作及びプリントは室温の低い冬期に限っていた。今回ゼラチン紙の制作は田村写真にお願いしたが、写真用の固めのゼラチンを使うことで上手くいった。二つ目の問題はゼラチン紙を油性画の具を付けたブラシで叩くプリントである。室温を下げればクリアーできることではあるのだが。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今週中に3体完成するだろう。それを撮影し、ネガを作り、数年振りにオイルプリントの新作となる予定である。オイルプリントは、そのままであればモノクロームである。大正15年の資料に、オイルプリントによるカラーは前例がない、とあったので、この時点で無かったということは、オイルはブロムオイルに取って代わられ廃れて行ったので、その後もないだろう、ならば私が、と版画用プレス機を入手し、4色の分解ネガを使って転写し、天然色オイルプリントを試みたが、これをまともにやろうとしたら大変なことになる。ここまでやる必用は今の時点ではないだろう、と一先ず封印した。 数年振りになるオイルプリントは、私としては久しぶりのモノクローム作品になる。人形の撮影は、初期の頃はモノクロ専門であった。質感もさることながら塗装した色、というのはリアル感を損ねるので、モノクロの方がリアルに見える。また見る側の想像力を喚起する、というモノクロームならではの利点がある。 写真の名作とされている作品にはむしろモノクロームが多いだろう。しかし、それはあらかじめ色の着いた既存の世界を撮っているからモノクロで撮ろう、というわけで、仮に世界を自分で着彩していたとしたら。つまり被写体の山や花や人物に、自分で色を塗っていたなら、できればカラーで撮りたい、というのが人情であろう。私がカラーで撮るのは単にそういった理由による。

 《天然色オイルプリントの習作》

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




未だに帰宅して、玄関の鍵が閉まっているとギョッとしてしまう。関係各位に少なからず衝撃を与えてしまったので、何故ギョッとするかに関しては繰り返さない。 部屋の片付けでは、大事にしていた作品を壊してしまいがっかりしている。それは、今までで最も追いつめられ窮地にたたされた想い出深い作品である。1988年制作、未だに傑作との声が高い、高橋幸宏氏の『EGO』(東芝EMI)のレコードジャケット用作品である。 この話は何で私のところに来たか良く判らなかった。デザイン担当者は色々説明してくれるのだが、テーマの『死と再生』はともかく、鉄のような綿のような、など抽象的過ぎて理解できない。とりあえずこういうことだろうか、と頭部だけ作ってみたら「思い切って0か100でいって下さい」といわれてしまった。納期は迫る。悩んだ末、普段使っている粘土を止め、地元で陶芸をやっている先輩の仕事場に泊まり込み、ベニヤ板を土台に、頭の部分を道具土といって、陶器の焼成時に陶器を固定したりに使う土を使い、石膏をかけ、さらに削って岩肌のようにした。そこに銅成分を含んだ塗料を塗り、緑の部分はデザイン時に色を強調したようだが、腐食剤で緑青をふかせた。 そんな頃、できあがりを見たいと、高橋さん他大勢のスタッフが来るという。YMOの1人が家へ来る、というので記念撮影を、と思っていたが、実際はまったくそんなことを言い出せる空気ではなかった。帰る皆さんを追いかけるデザイナー。戻って来て、私が「やり過ぎですか?」というとまさかの「やり過ぎですね」。 その後、会社内部でも反対があり、デザイナーは大変だったと聞いた。当時、レコードジャケットの評は、唯一『ミュージック・マガジン』に1ページあり、デザイナーでもある元プラスチックスの立花ハジメ氏がレコードサイズで見たいと評してくれて感激したものである。 なのに。である。木製のガラス扉の付いた箱に収めていたのだが、今回は『再生したのに死』んでしまった。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エドガー・ポー2体の仕上げも進み、3体目のマント姿も明日中には乾燥を終え、間もなく着彩に入れるだろう。服は黒尽くめが多かったというので色で悩むこともない。 数日中に、できれば『大鴉』、さらに『モルグ街の殺人』用の室内を撮りにいく予定である。もしマント姿を室外で手持ちで撮影する場合、来週ならヒマだ、という友人Sを確保した。彼には何度も付き合ってもらったが、撮影中横に立っていてもらい、会話しながら撮影していれば、何かしら事情があるように見えて恥ずかしくない、という寸法である。さらに一仕事終えた後には、乾杯の相手に変わるわけである。Sがかみさんと電話で話しているのを見ると“電話の向こうにいるのはパットン将軍か?”と思うのだが、撮影開始を早めれば、飲んでいて遅くなり、パットン将軍から電話が来て、電話を替わってくれ、とSに哀願されずに済むだろう。こんな時、女の声色が使えたらなあ、と残念がりながら沈黙している。 鴉は『貝の穴に河童の居る事』(風濤社)で撮影したカットがあるが、改めて撮りに行くことになるかもしれない。あんな警戒心の強い鳥をどこでどうやって撮れば良いかと思っていたら、むしろ人が多く、ポップコーンや弁当を食べているところに集まることを知った。あのポイントに再度行ってみよう。ポーを手掛けるなら、鴉はいくらあっても良い。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




三体同時に仕上げに入る。一体は上半身だけだが、他の2体も足下までは写らないので靴は後回しにする。 三体目のマント姿のエドガー・ポーは、まだどういう画にするか決まっていない。全身作ってあるので、いっそのこと外へ持って行って手持ち撮影してみようか、と考えないでもない。撮影候補地も2、3浮かんでいる。 片手に人形を国定忠次の刀のように捧げ持ち、片手にカメラの“名月赤城山撮法”。かつて金沢まで出かけて泉鏡花を撮影したように、慣れているはずの方法も、デジカメに転向してから一度も実行したことがない。 私がイメージしていたのは、ある作家が向こうから歩いて来て、たまたまカメラを持っていた人物が出会い頭にシャッターを切った。そんな感じである。被写体はピクリとも動かない。その分、三脚立てて待っていた、となってはならず、多少のピンボケ、ブレなどはかまわない。ただし意図的にやってはならない。使うのはマニュアルレンズであり、片手が塞がっているのでピントは固定、シャッタースピードは15分の一秒。その範囲で頑張って撮る。この心がけがリアルさを呼ぶ。 撮影はリズム良く進めなければならず、一カ所の背景に固執して、シャッターを切り続けるのも良い結果はでない。というより街中で人形とカメラを両手で持っての撮影は非常に恥ずかしく、はやくここから立ち去りたい。と常に葛藤している。これがまた、決して新聞社のカメラマンや、かつての名カメラマンが作家の了解の元に撮影したのではなく、たまたまカメラを持っていた文芸ファンが突然作家に遭遇した感、が出るのではないか。つまり部屋に閉じこもって作っているうちは良いが、街中にまで持ち出してしまってすいません。という人間が撮ると、結果こうなる訳である。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




写真という物は無い物は撮れないということに、一応なっている。私の場合、被写体を自分で作っているので、被写体が完成しないと撮れない。というわけで、昨晩から寝ていない。早朝になって聴こえ出した深川の祭りの音を聴きながら続ける。深川は正調の“ワッショイ”に統一されているから気持ちが良い。田舎の麦踏みみたいな妙なビートは願い下げである。せっかくの本祭り。数十分程カメラを持って出かけ、このままでは寝てしまいそうなのでエドガー・ポーのマントの続き。 午後、鵜の木の『Hasu no hana』へ。来月写真の古典技法の4人展をがある。それにさきがけ企画者の田村写真の田村さんの提案で、萩谷剛さんを交え、古典技法に関しての雑談をカメラに収め、いずれユーチューブにアップするという。 私がオイルプリントで最初に個展をやった2000年頃、この作品はどうやって作られた物か、ある程度説明して、ようやく来廊者の眼に灯が点る。というのを嫌という程経験した。今の常識からすると確かに写真というより版画に近く、カテゴリーに収まらない部分が落ち着かなかったのであろう。画廊のオーナーにまで会期中判らないといわれ続ける始末であった。 以後会場で同じセリフを繰り返すことに辟易し、制作行程をプリントアウトしたものを置いておいた。今回もその必用があるだろうが、なにしろ他の三人が『ブロムオイル』『ヴァンダイク・ブラウン』『雑巾がけ』である。来ていただく方もすでに覚悟を持って来られるであろうから気は楽である。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




エドガー・ポーは、背は高くない。そんなこともあり、チンチクリンに見えても、と結局羽織らせるのは、インバネスでなく長い黒マントにした。少々時代がかったマジシャンじみてしまったが、かまうことはない。乾燥に入る。 明日は深川の本祭りである。午後用事があるので見学できるのは昼過ぎまでだが、今日中に乾燥までに持って行きたかった。これで3体(1体上半身のみ)揃ったことになる。乾燥済みの2体の仕上げに入った。9月の写真の古典技法のグループ展に、エドガー・アラン・ポーと江戸川乱歩をオイルプリント化したものを出品したい、と考えている。 世界的な作家エドガー・アラン・ポーも、こと日本においてはペンネームを拝借した江戸川乱歩の方が知られており、エドガー・アラン・ポーを作っているというと以前乱歩は作っていたじゃないか、と度々いわれるので、いっそのこと2人を並べてみるのも一興かも、と考えたわけである。バスター・キートンと益田喜頓。ダニー・ケイと谷啓を並べるようなものである、

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨晩は某ブラック企業に勤めた人が、綺麗どころのいる店にカラオケに行こうという。世間が休んでいる間に家に閉じこもっている私に、たまには息抜きを、といってくれているようだが、実際はその店が2人以上でないと入れてもらえないからに過ぎない。しかし我が家には早く作ってくれろ、とEdgar Allan Poeが待っている。息なんか抜きたくもない。綺麗どころは良いとして、カラオケくらいじゃ私を止めることはできないのである。 今日中にマントを着せる所までもっていきたいが、インバネスいわゆる二重回しにするか、長いマントにするか決めかねている。インバネスはまだ作ったことがないのでそそられるが、ポーが創作した名探偵オーギュスト・デュパンというよりシャーロック・ホームズのイメージが強い。怪しいという意味ではゾロリとした黒マントの方が勝るであろう。 黒マントといえば怪人二十面相に着せたことがある。二十面相はいつのまにかハンサムな西洋紳士のようなイメージになっていたのが不満であった。実際はたかだか少年探偵団の良い子等に捕まってしまう、血を見るのが嫌いな、元サーカス芸人林平吉である。 明日にはマントかインバネス、どちらかを着せるつもりである。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME

 



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




かつて噛みつきによる流血試合で日本中を戦慄させたレスラー、フレッド・ブラッシーはいった。“オレの邪魔をするヤツはどんなヤツでも噛み殺す。たとえそれがオレのお袋でもな” お袋でもな、といわれても欧米ならともかく、今ひとつ怖さが伝わって来ない。しかし今日の私に部屋を片付けろ、という奴がいたらどういう目にあったか判らない。 本日ようやくヨダレを垂らさんばかりにエドガー・ポーの制作に集中した。何ヶ月もかけて作った面倒な頭部を用意し、いざ作ろうと思ったら部屋の片付け。と思ったら芯材が出て来ない、と快感を増すために我慢をしいられたような2日であった。そしてここが肝心なのだが、手が離せない時に限ってどうでもよい長電話をかけてくる母が、85歳の誕生日に飛行機に乗って4泊5日で祖父の故郷広島に、一人で出かけていった。出かける前はこれが最後になる、と殊勝なことをいっていたが、私が制作を開始した途端、電話があり、はしゃいだ様子で親戚が10人も集まってくれて来年も来たいという。母がお世話になっている、会ったこともない親戚に心を込めて礼をいった。 葛飾にいようと広島にいようと同じである。その後携帯の電源を切ったのはいうまでもない。

※世田谷文学館にて展示中

過去の雑記

HOME



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ