永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

絵が時代を明るく。

2010-12-15 16:00:59 | 日記・エッセイ・コラム
福岡のNさんからカレンダーが届きいただく。お父上の故西島先生の童画カレンダーをふたつ、水彩と切り絵で表現された絵。さっそくページをめくり、あたたかさとやさしさが画面いっぱいにあふれた絵があらわれ、西島先生のお顔が浮かんでくる。今も明るく大きい声と快活に愉快にお話されて、いまもいらっしゃるような錯覚におちいってしまう。絵は生きているのだ。
今の時代の雰囲気は何かとアンダーで重苦しくどんよりとしたイメージがあるが、西島先生の絵を見ているとさわやかな光りを感じ気分が明るくなる。そして子どものころにすぐ帰ってしまう。



またまた70年代。

2010-12-14 15:25:16 | 日記・エッセイ・コラム
1970年のころは1ドルが360円くらいだったでしょうか。当時その状況で、300円を割って円高になるとたいへんだと新聞などが騒いでいました。今では80円台で大騒ぎになります。
当時と今の経済状況は違いますが、80年代に向うと「 オー、モーレツ!」とか「ゆっくり行こうよ」などのフレーズによるCMソングがありましたが、当時の社会現象としてこのフレーズが生まれたようにいわゆるモーレツ社員という表現が象徴するようにサラリーマンが日本の経済を支えていました。団塊世代という人たちが必死になって働きまくっていました。ぼくの年齢は団塊世代の類には入りません。その下の世代です。経済が成長していたそのころ、団塊世代の人たちの話しを聞いているとぼくは、ぼくの世代とは違う感覚で受けとめていました。団塊の人たちは理詰めというか理屈でぐいぐい迫ってくる感じで、話しを聞いていると疲れるなという感じでした。でも話しは結構おもしろかったと思います。
団塊世代の人たちの人口は中学生時代はすし詰め教室で育った時代ですから、人口的にみてもかなりの人口です。70年、80年と衣類などに気を使ったり、そろそろ自分の車を持ったりと消費に貢献していて当時の経済を支えていたのでしょうね。
70年から80年代はベースアップ要求手段でシーズンになると旧国鉄、西鉄などの電車・バスがストでよくストップしていました。
この頃の時代にはぼくはあまり興味はなく、仕事のデザインに集中していました。そのころはよくデザインやアートの情報をもとめて、時々夜光列車みずほに乗って車中2泊3日で東京に行ったものです。その頃見た展覧会と云えば、「アンディー・ウォーホール展」や「ピーター・マックス展」「ポール・デイビス展」などが懐かしい思い出です。青山のギャルリー・ワタルの現代アートは先端の感覚を行っているような感じで興奮して観たものです。かと思えば一転上野や浅草の演芸場で落語を聞いたりするのも楽しみでした。



続々編。70年代のころのこと。

2010-12-13 17:11:37 | 日記・エッセイ・コラム
70年代初頭のころの小倉駅北口はあたり一面が材木置き場と倉庫街でした。海が近いから材木や保税倉庫からの荷出しが便利だつたのでしょう。ほかに見渡す範囲には小学校と社会保険事務所、公団住宅に西鉄バスの車庫ぐらいだったでしょうか。殺風景な光景が印象的でした。まだまだ今みたいに総合展示場やホテルなどの複合施設などは存在していませんでした。
70年代はじめのころ、倉庫街のひとつの地下に夜中一時から開店するクラブがありました。今でいうとこんなお店は当り前といった感じですが、物好きの人々が深夜に集るクラブでした。店内はドラムセットが置いてあり、バンドがジャズを演奏していました。地下に通じる倉庫の入口には用心棒というか今でいう私服のガードマンが立っていました。NYの街などでもよく見かける倉庫を利用したクラブです。一度、ある美容デザイナーの人から連れられてそのお店の行った時、夜中の二時くらいに長身でロングヘアーにサングラス、毛皮にパンタロンジーンズとブーツ姿で颯爽とした姿でが人が入ってきました。かなり目立っていました。その人はジャズ界で有名なミュージシャンでトランペッターのHTさんでした。ほっぺを大きく脹らましてフルスイングでトランペットを吹く個性的で有名な人です。HTさんはそのお店のバンドと友達だったらしく九州でツアーの途中にそのお店に寄ったらしく、即興でお店のドラムを叩きました。その仕草はテレビで見る姿と同じでかっこよくオーラーを店内にまき散らしてしていました。
当時、北九州市はあらゆる場面で先端を行っていました。エリック・クラプトンやリンゴ・スター、Tレックスなどロックミュージシャンの大物がコンサートで来北していました。西日本岡山以降では北九州市には当時の集客人員数とや大型施設(北九州市立体育館や厚生年金会館など)が整っていたからだと思います。



続く。70年代のころのこと。

2010-12-12 18:36:30 | 日記・エッセイ・コラム
70年代と云えば、日本はまだまだ豊かさを求めていた時代でした。今の時代は格差とか貧困とか経済の厳しさなどの言葉で表現されていますが、当時は社会全体が成長期で貧乏が楽しい時代でした。
そのころぼくは会社員をしていましたが、そのころは給料振込みではなく手渡しで貰う薄い給料袋でも当時の物価では結構満ちたりた衣食住の生活ができていました。でも給料のほとんどをレコードや本、映画、旅行に費やして、食べるものにはお金はかけていませんでした。当時の写真を見ても、からだはガリガリの体躯でした。でも毎日が楽しい思い出になっています。
当時、小倉駅南口の横のビルにジャズ喫茶アベベがありました。同じビルの一階にアルゼンチンタンゴを聴かせる喫茶店“サリー”がありました。映画『東京タワー』の場面で小倉の街が描かれた通りです。界隈は、当時新宿の街にも似た猥雑な空間でしたが、結構文化的で時代の先端を行っていた空間のある街でした。サリーの経営者は当時60代のご夫婦で門司に住いを持っていらっしゃる方で、会社を退職後、隠居の楽しみで趣味のアルゼンチンタンゴ喫茶を経営されていました。ほくは仕事の息抜きによく通ったものです。今はこのお店はありません。ぼくはコーヒーを愉しみに通っていたのですが、ガリガリに痩せたぼくを見て心配してか、ときどきスパゲッティーをお代をとらずに奥さんが「食べなさい」と驕っていただいたことを今でも懐かしく思い出します。巷でコミュニケーションがよく行き交っていた時代です。はたちの1971年です。



70年代のころのこと。

2010-12-11 11:09:53 | アート・文化
Mさんが自身のブログに1970年代初頭にヒットしたロックグループ『クリーデンス・クリウォーター・リバイバル』の曲“雨を見たかい”のことを書いておられました。ブログを読んでいて一気に70年代に引き戻されてしまいました。
70年と云えば、ブリティッシュロックをはじめロックが当時の若者に多大な影響をあたえたもの。ぼくも影響をうけたそのひとり。ライフスタイルや思考にもロックがいきいきとエッセンスを与えてくれたような気がします。今もそのことは変わりません
当時の小倉にはふたつの老舗ジャズ喫茶があって、学生や会社員が夜や休日になると一日中たむろしていた。ぼくも暇つぶしに通ったものですが、もうもうと蔓延するタバコの煙りと無言で体を揺すりながら凄い音量でジャズを聴く集団にはなかなか馴染めなく、やはり自分のステレオで聴くロックがからだに合っていました。当時、ジャズロックと云ううたい文句で聴かせる喫茶店が福岡や熊本にあったがロックが自分の生き方にぴったり合っていました。
その頃、外国のロックを真似た日本のミャージシャンの曲が深夜放送で流れていましたが、日本はそのころフォークロックという世界ができつつありました。
情報をインターネットですぐとれる現代とは違い、情報が少なかった70年の時代。新聞や本屋とレコード店と深夜放送が情報収集源。ロックとフォークと映画と美術手帖、漫画雑誌ガロ、そしてちょっとした小説が70年のころのぼくのささやかな文化の享受でした。
当時の70年代と云えば、門司から小倉、八幡へと西鉄電車が超満員の人を乗せて走っていたころです。そのころの小倉の街は人が多く活気がありました。
80年から90年代に移行するころから、日本はあまりおもしろくなくなってきました。