永野宏三のデザイン館&童画館  アート日和のできごと

イスラエル国立美術館、ミュンヘン国立応用美術館、国立国会図書館、武蔵野美術大学美術館図書館他に永野宏三の主な作品が収蔵。

平民食堂のハイシライス。

2009-09-05 20:30:06 | 日記・エッセイ・コラム
描いている絵がなかなか進まない。湿度の高い残暑のせいもあり、からだが仕事に集中させない。息抜きに読書。文春文庫刊・立花隆著『政治と情念』を読む。権力闘争の背景の凄まじさがよくわかる。今朝の朝刊に野坂昭如さん連載エッセイに、先日の選挙のことについて書いておられた。民が時の政治を選ぶみたいなことを書いておられた。そのエッセイの挿絵には全く個人的な理由で投票に行かなつたことについての文言を絵にしたことが描かれていた。その描かれている挿絵の作者の意味がよくわからなかった。
門司港に『“平民”食堂』というレストランがあった。先々代から続いていたそのレストランは現在は営業はしていない。大正から昭和・平成と続いていた歴史のあるレストランで、メニューには名物“ハイシライス”(ハヤシライスではなくハイシライス。初代のご主人は東京生れ、浅草西養軒の料理人を勤められた後、大正時代に繁栄している門司港に来て店を開かれた。その当時、GNPにおける都市比較では門司が東京を抜いていて日本一だったそうで、腕利きの多くの職人たちが門司港に集まっていたそうだ。たぶん、大企業の支店や日銀や銀行支店までが門司港に集中していたわけだから、勤めている企業人たちの舌をまかなっていたのだろう。優秀な洋服の仕立て職人も多くいたそうだ。初代は昭和になると、栄町の通りをはさんでレストランの建物を建設したそうだ。後になって、現在まで現存している建物はその一部。店内の床・階段・テーブルは総大理石づくり)があった。二代目の主人はシャキシャキしたおばあちゃんで、注文すると「ハイ! おまたせ」と、大理石でできたテーブルの上にポンとおいてくれた。ぼくは、ハイシライスを食べる前にチーズサラダを食べながらビールを呑むのが楽しみだった。店の奥側のテーブルにはいつも、二百山高地髷を結った先代の明治生れの女将さんがじっと座っておられた。その大おばあちゃんは大正・昭和・平成と門司で日本を体感されてきたわけである。屋号の冠に『平民』とついていた食堂・レストランだったことがずっと気になっていて、大正・昭和の時代にあえて『“平民”食堂』と名づけた理由を聞かずじまいのままに、その内、平成7・8年ごろからか店の扉が閉ったままになってしまった。大正時代は大らかな時代であり、大正モダンと言われた時代でもあるから、そんな意味もあるのかなと、ぼくは勝手に思っていた。
ぼくは平民食堂が好きで、個人的に“平民食堂”と“ハイシライス”をテーマにしたポスターをデザインしてシルクスクリーンで印刷したオリジナルポスターをおばあちゃんにプレゼントしたら、おばあちゃんはびっくりして、「こんなしやれたものをいただいて」と、深々とおじきされて、お礼にとビールとハイシライスのお代をとってくれなかった。そのポスターをある展覧会に出品したら、その時の審査員だったデザイナーの田中一光さんに絶賛していただき賞をいただいた。理由は作者の身近で個人的なテーマをよくポスターにデザインしたということだつた。
平民は平らな民。民は皆平等。ネット社会の今を表しているようにも読めるが、現代では人を比較することとして差別用語として記述には適さない言葉となっているが。当時は下から見ると皆同じ。上から見ると下部の人。お上が定めたことだからと、ほとんどの市民は違和感を感じていなかったのではと思う。権力は時代によっては言葉の意味まで拡大解釈して変化させ利用する。こんどの選挙の党首演説にも吹出しそうな言葉が平気で使われていた。言葉とは言っても広告コピーレベルの造語だ。
平民食堂で使われていた紙ナプキンは大正時代から使用されていたデザインで、淡いグレー色に近いベージュ1色でフォークとナイフをアールデコ風にデザインが施されていた。紙ナプキンから醸し出すハイブロウなデザインは資生堂のパッケージなどのデザインにも劣らないおしゃれなデザインだった。大衆からもてはやされるような粋な装飾を、平民食堂の先代さんは大衆のなにかを知っていたに違いない。