かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞  12

2013年08月18日 | 短歌1首鑑賞
 渡辺松男一首鑑賞 12  
                   『寒気氾濫』(1997年)地下に還せり16頁
                    レポーター:渡部慧子
            司会と記録:鹿取 未放

30 寒雲をひとつ浮かべてしずまれる空そのものの無言 父の背


(レポート)2013年4月
 「父の背」つまりどのような父かを抽象的表現をさけて、叙景によっており、くどさがない。又表記の漢字とひらかなのバランス、一字空けに続く「父の背」まで、視覚的にも美しい。
 「寒雲」の他の季節にはない趣きから、信念、孤高性、心に凝っているような何か、そんなものの象徴として、「ひとつ」という数とともに、ゆるぎない表現だ。
 言葉を弄しない常の父の無言を思うとき「寒雲をひとつ浮かべてしずまれる空」が、そこにあり、「空そのものの」「無言」が、父と重なる。(渡部慧子)


(記録)2013年4月
 ★寒雲と言った場合寒々としたわびしさのようなものが感じられる。それを父の背が映し出して
  いる。身体によるメッセージだ。身体としての言葉が背中とかに表れてくる。ニーチェの言葉
  をあえて出すと、「私は身体である。霊魂とはただ身体に属するあるものをあらわす言葉にす
  ぎない。身体は一つの偉大な理性である。」(『ツァラツストラはこう語った』身体を軽蔑する
  者たちについて)と言っている。普通われわれが考えているのとは逆のことを言っている。ま
  あ、ニーチェが言っているからというのではなくて日本人だと無言の父の背中は分かるところ
  がある。空は何も言わないけれど無言のメッセージを放っていて、父の背もそうだ。映画で言
  うと高倉健のよう。(鈴木良明)
 ★父の背中から非常に通俗的な読みができる歌はたくさんあるだろうけれど、この歌はとてもス
  ケールが大きくて通俗性を全く感じない。レポーターは叙景と言っているがそうなのかな?一
  字あけの前後がイコールで結ばれている訳ですが、「寒雲をひとつ浮かべて」いるところまで
  は叙景だけど、しずまれる空を無言ととらえているところはいわば比喩であって叙景ではない。
  これが渡辺さんの歌い方だと思う。通俗的になりがちな父の背を、精神の高みに導いてくれる
  ような歌い方に魅力を感じる。(鹿取)