かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

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渡辺松男の一首鑑賞  14

2013年08月20日 | 短歌1首鑑賞
 渡辺松男一首鑑賞 14  
                   『寒気氾濫』(1997年)地下に還せり17頁
                     司会と記録:鹿取 未放

32 槻の樹皮鱗片状に剥がれいて光陰は子に父にあまねし


    (レポート)2013年4月
 街路樹の槻の木など「樹皮」が「鱗片状」に剥がれいて、それは年輪をかさねるものに多くみられる。まさしく光陰ではあるが、観察や詠みぶりが、おのずから序詞のような働きを産み、「光陰」の言葉を起こしている。それが「子に父にあまねし」なのだ。「子に父に」「槻の樹皮」にそして他の存在も考慮に入れての「あまねし」であろう。31番歌(鹿取注:「内面をことさら探るまでもなき父と子なりて注ぎあわず飲む」のこと)のように、ここでも作者自身をたちあがらせるより、光陰のうちの存在、それらの関係性への愛情が感じられる。(渡部慧子)


    (記録)2013年4月
 ★一緒に行動した後にたまたまそういうような樹を目撃して、そういったところに光が照り輝い
  ていた。それを父と子が見て深く共有する時間を持ったと言うことを歌っているのではないか。
  レポーターが書いている関係性への愛情というのはそういう時間を共有したということによる
  のではないか。もちろん樹に対する思いも親子共々深いものがあったと思う。親子と樹の三者
  の関係がそれぞれ豊かな時間を共有している。光陰というのがここでキーワードかな。
     (鈴木良明)
 ★槻の樹と〈われ〉はここに存在していて、お父さんの存在は捨象してこれまでイメージしてい
  たけど。お父さんも確かに一緒にいるんですね。ただ、「光陰」の解釈はレポーターとも鈴木
  さんとも違います。「光陰」の意味は①歳月 ②月の光 で、太陽光の意味はありません。「あ
  まねし」とあるので、確かに光が降り注いでいる感じはするけど、ここでは時間が流れている 
  ということなのでしょうね。時間は夕方以降で月光の中で槻の樹の剥がれている様子を見てい
  るなら歌でそう断ると思うので、ここは月の光ではなく歳月だろう。年老いた槻の樹皮が剥が
  れているのを見てその樹に過ぎた歳月を思い、これからの歳月を思い、〈われ〉と父に流れる
  歳月を思っている。(鹿取)
   
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