かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

渡辺松男の一首鑑賞  5

2013年08月11日 | 短歌1首鑑賞
   渡辺松男一首鑑賞 5

23 同性愛三島発光したるのち川のぼりゆく無尽数の稚魚

『寒気氾濫』(1997年刊)地下に還せり14頁
         レポーター:崎尾廣子(2013年3月) 
                    司会と記録:鹿取 未放

(レポート)
 《レポートには評伝からの長い引用、要約がありますが、前半部分省略。以下、漢字・句読点に至るまで、レポーターの表記どおり。》
 昭和43年10月、一ヶ月の自衛隊での軍事訓練を終えてきた40名の学生と盾の会を設立する。昭和45年の3月には100名に達した。昭和45年11月25日盾の会の4名の幹部候補生を伴って、三島は自衛隊の総監を訪問した。が計画は失敗に終わり森田必勝の介錯で切腹する。森田は古賀浩靖の介錯で切腹する。三島と森田の死に関する解釈の一つに「情死」説がある。三島が終生待ち続けていた恋人についにめぐり逢って「憂国」におけるように暴力的な戦士の死をとげたと主張されているのである。そのことの確証はない。
 (三島由紀夫ーある評伝ージョン・ネイスン  野口武彦訳 新潮社)

 「発光」は三島由紀夫の切腹を表していると思う。今やホモセクシャルは世界的な社会現象となっている。(崎尾廣子)

(記録)
 ★崎尾さん、歌の解釈もお願いします。(鹿取)
 ★さっきの樹に目がある歌と同じで解釈はそのままでいいのかなと思って。三島が同性愛だった
  こと、発光は切腹をあらわすこと。それを境にしてというわけではないけど同性愛が途方もな
  く広がって行ったこと。それが解釈。発光をどう捉えるかに苦慮しました。(崎尾)
 ★上の句と下の句は全く関係のないことがら。これを歌としてどう結びつけるのか、どう繋げて
  解釈をするのかをお聞きしたいです。(鹿取)
 ★上の句は読者をびっくりさせる。あとは普通に読んだらいいのでは。発光は性的なエクスタシ
  ー、無尽数の稚魚は精子。それで解釈できるが、これだけではつまらないので頭に同性愛を入
  れたのではないか?(慧子)
 ★すると同性愛はこの一首で重要ではないわけ?(崎尾)
 ★いや、崎尾さんのように読むと広がりが出ていいかも。(慧子)
 ★同性愛の三島がそれを世間に発表したので、そういう気持ちを持っている若者達が稚魚のよう
  に多く続いたということかなあと思ったけど。(曽我)
 ★これを契機に他のこともどんどん解禁されていった。他人はどうでもいいとか夫婦別姓とか日
  本は悪い方向に行った。(崎尾)
 ★いや、そういうふうに言うと同性愛は悪ということになってしまう。三島は確かに同性愛をカ
  ミングアウトしたけど、それで同性愛が増えた訳ではない。人目につきやすくなったことはあ
  ると思うが。有史以来同性愛はあったし、僧坊にだって教会にだって武家社会にだっていくら
  でもあった。生まれつきの性向だからそれを悪と決めつけたら差別になってしまう。私は慧子
  さんが言った性的エクスタシー説に同意する。そして放出された精子のイメージとして無尽数
  の稚魚が置かれている。それが生まれ故郷を求めて川を遡るのだ。(鹿取)
 ★では切腹は間違いなのね?(崎尾)
 ★いや、私は慧子さんと同意見だと言ったまでで、作者に聞いた訳じゃないからどちらが正しい
  かなんって分からない。どちらも違うかも知れない。ただ、いろんな解釈があっていいんじゃ
  ないの。(鹿取)
 ★では男性なら誰でもよいのに、なぜ三島をもってきたんだろう。(崎尾)
 ★それは時代の人だから。三島の切腹事件には私も衝撃を受けたし、渡辺さんも受けただろう。
  文学者としても興味があるだろう。ここに名もない人をもってきても歌にはならない。この歌
  は難しくて「発光」をどう解釈するか私も悩んだ。作りとしては茂吉のの「たたかひは上海に
  起こり居たりけり鳳仙花赤く散りゐたりけり」(『赤光』)と同じような気がする。(鹿取)

 ※この研究会の折、三島の割腹自殺以後同性愛や他人はどうでもいいという考え、夫婦別姓など
  が増えたという発言がなされたが、それは非常にまずいと思った。同性愛は生まれつきの性向
  で、差別されるいわれはない。夫婦別姓もなぜ悪いのか私には分からない。さまざまな考えの
  人がいて、望む人は自由に夫婦別姓にできればいいと私は思っている。
   歌の解釈だが、今となると「発光」は切腹でもいい気がする。切腹時にはおそらく性的エク
  スタシーと同様の陶酔があったと想像できるから、慧子説と矛盾はいない。