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cuminseed

ちょっとだけスパイシー

雲南省旅行記(22)

2006-09-20 | 雲南省旅行記
午後6時に大理を車で出発し、3時間から3時間半で麗江に到着、
そのままホテルにチェックインすると言う予定だ。
最初の30分は、洱海と蒼山を見ながらのドライブだが、
それ以降は、広くゆったりとした高原や山道ばかりだ。
農作業の帰りの人たちが、背中に竹で編んだ大きな籠をかつぎ歩く風景や、
犬を1匹従え、山羊を何十匹も連れて家路に帰る人。
放し飼いの牛を、小ぶりの馬に乗って集めている人など、
観光地化されたものでなく、雲南の人々の日常生活に、
一部ではあるが見ることが出来た。
もちろん車の窓から見える景色のどれもがすばらしく感動的だ。
7時半を廻った頃から日が傾きだした。
山の奥のほうにまでぽつりぽつりと、
小さな小屋とも家とも呼べる建物に明かりが灯る。
夏さんに何をする為の小屋か聞いてみた。
低い声で、ゆっくりと話をしだした。
「雲南省は、漢方薬のたくさん取れる所とか、
 山菜やキノコなどが豊富にあると聞いたでしょ。
 それらを取って生活している人たちの家です。
 電気やガスも無い所で生活をしているのですよ・・・」
この辺は、イ族の男性が町から流れてきた小屋が多いそうだ。
夏さんから、現実の少数民族の暮らしを聞くことが出来た。
今でこそ雲南省は観光ブームにのり、少数民族の人たちも、
少しは観光産業に従事する人が増えたが、
若い女性や一部の男性だけである。
歳を取った少数民族の人たちは、文化レベルの違いや、
言語の違いで工場やその他の職に付く事が出来ず、
山に入って山菜や漢方薬を取る事しか出来ない人がたくさんいる。
それも、開拓や観光地化が進みどんどんと奥の方に追いやられて行く。
朝早くから夜遅くまで収穫をしても、安い値段でしか引き取ってくれない。

何処の国や世界でもよくある話なのだが、
では、日本の裕福な生活をしている人はすべて幸せなのか?
と考えたら、山奥で電気やガスが無くても幸せな人はいると思う。
ただ、現実には電気やガス、そしてお金があった方が、生活は楽だろう。

日が沈みきって街灯も対向車も無い、
真っ暗な道路を走っているとき、夏さんがぽつりぽつりとしゃべり出した。
「昔は会社でトラックの運転手をしていたが、
 7年前に倒産してしまい、
仕事を探しても見つからなく、
妻のパートだけで生活していて、
子供も大きくなってきて、
思い切って4年前、
ローンでこの車を買ったけど、
給料は安いし、
もうだいぶん傷んで来て、
ローンが終わったら、
またローンで車を買わないと・・・」

生活にまで私たちは立ち入る気は無いが、
奥さんと子供の為にがんばってるんだなぁ。
というのは分かる。

それから夏さんは、私たちが退屈しないようにか、
自分が眠たくならないようにかは分からないが、
若いころは歴史が大好きだったそうで、
雲南省の雑学的歴史の話をたくさんしてくれた。

麗江空港の標識が見え出した。
20分ほどでホテルに着くと言う。
麗江も新市街地区と古城地区に分かれていて、
私たちのホテルは新市街地区にあると言う。
古城地区の夜景は綺麗で有名なので、これから行きますか?
と言われたが、すでに夜の10時前と遅くなったので、
ホテルに直行するようにお願いした。
ホテルには、張さんと言う、髪の毛が長く、
若い女性が私たちを待っていた。
「明日の出発は8時です。ロビーで待っていてください」
「夏さんはどうするのですか?」
返事をしないで知らん顔をしていた。
たぶん、今夜は車の中で眠るのだろう。
私たちもそれ以上は何も言わず、部屋に向かった。

約束通り、7時55分に朝食を食べ、
チェックアウトを済まして、ロビーで待っていた。
8時前に夏さんは来たが、肝心の張さんが来ない。
8時5分になってホテルに来たが、
「今から朝食を食べるので少し待って・・・」
とレストランの朝食バイキングを食べに行ってしまった。
「今日はハズレだな!」
結局、夏さんの車に乗り込み、出発したのは8時30分だった。
予定では玉龍雪山に午前中行って、
午後から麗江古城に行く予定だったが、
玉龍雪山の午前中は混雑し、バスもロープーウェイも並んで時間がかかるので、
麗江古城に先に行くことにした。
ホテルから車で10分と近い距離にある。
入り口には大小の水車が二つゆっくりと廻っていた。
その横の壁には『世界文化遺産 麗江古城』と書いてある。
水車から先は水路が3つに分かれている。
麗江は800年ほど前に木(ムー)氏一族によって開発されたと言う。
石畳や水路などこの頃に造られたという。
凄いのは、夜になると水門を閉じ、
川の水位を上げ、水を道や広場に流して掃除をするという。
西から東へ少し傾斜していて、西の川からあふれ出た水は、
東の川に流れていくと言うのだ。
それが800年前から今でも続いていると言う。

私たちは、上(北)の方から見学することにした。
川に沿って石畳の道が続き、川向こうの家々には木の橋がかけられ、
独特な雰囲気が漂っている。
トンバ文字を書いた壁を越えると、「単騎千里を走る」と書かれた橋がある。
中国での高倉健は凄い人気だそうだ。
もう少し奥の方へ歩くと『四方街』と言う広場に出た。
張さんが
「2時間したらこの場所に来てください」
と言う。麗江古城の中心になるところで、
迷う心配はないと言う。
妻と二人で今度は南の方に歩き出した。
来たときは感じなかったが、観光客がどんどん増えてくる
お土産物屋も活気が出てくるのは良いが、
家々がすべてお土産物屋か喫茶店もしくは食堂である。
それも赤いちょうちんをぶら下げたり、民族衣装を着た若い女性が
喫茶店の客引きをしたりと観光地化が進みすぎ、期待はずれだ。
残念だが、これも時代の流れだろう。
お土産物屋が並んでいる通りに、有料公衆トイレがあった。
ここでも日本の障害者手帳を出そうとしたら、
「かまいません。どうぞ」
と無料で入らせてもらった。
中国の良いところである。
裏手の細い路地に入ると、川の水で洗濯している主婦や、
壁に挟まれた水路など、まだたくさんの風情が残っている。
今度は西の方の高くなった方へ行ってみた。
日本ではあまり見られなくなった練炭に七輪で料理をしている
ナシ族のおばあさんなどを見ることが出来た。
丘の中腹で、展望台のある喫茶店に入った。
『すばらしい!』
の一言だ。
まさに『甍の波』である。
昔日本でも、このような風景があったのだろうか。
時間を忘れて眺めていた。
妻がそろそろ時間だと言うので、四方街へむかって歩き出した

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雲南省旅行記(21)

2006-09-19 | 雲南省旅行記
20分ほど車で行くと、三つの高い塔が見えてきた。
大理での一番の観光名所、『崇聖寺三塔』である。
中央の一番高く、四角形で少し膨らみを持った塔を
『千尋塔』といい836年、大理が南詔国と呼ばれていた時代に、
建てられたそうだ。16層で高さが69メートルもあると言う。
その南北には10層の8角形の塔があり42メートルと、
『千尋塔』より少し低い。この2つの塔は200年ほど後の、
大理国時代に建てられたそうだ。
車を駐車場に止め、塔の下に行ってみた。
下から見上げると、今から1200年前に、
どのようにして、こんなに高い塔を造ったのか気になったので
ガイドの楊さんに聞いてみた。
「周りに砂で山を作ったのです。塔が高くなるごとに山を高くし、
最後に砂の山を取って完成です。
造るのに40年かかったと言われています」
良く観ると、三つの塔のどれかが傾いている。
少し離れて見ると、低い二つの塔が傾いている。
この辺りは地震が多く、その為に傾いたと言う。
1978年には、大補修工事がされ今に至っていると言う。

三塔の裏手から電動バスに乗り『崇聖寺』に向かった。
天気が良く、三塔・洱海との景色がすばらしいので
途中から階段で上ることにした。
崇聖寺は戦乱や地震などで破壊されていた為、
最近になって、新しく造られたらしい。
凄く大きく、立派なお寺である。
「こんど来る機会があれば母も連れてこよう。絶対に喜ぶぞ!
 でも階段は無理かな? そのときはバスもあるし・・・」
などと、妻と話をしながら階段を登った。
階段も横に20~30メートルもある石段で、
大きな門がいくつもあり、その左右対称にお堂などが建てられている。
日本のお寺より、色がたくさん使われ、派手な造りだ。
あまり人気が無いのだろうか、観光客がまばらにしか見えない。
不思議と階段を上りながら、じっくりとお寺を見学しているのは、
中国以外の外国人が多い。私たちもそうだが。
その途中で、赤く大きな蝋燭(ろうそく)を買いお参りする所があった。
いちばん小さい蝋燭が3本セットで5元。それでも25センチはある。
妻と一つずつ買い、2本は左右対称のお堂に1本ずつ。
残りの1本はその上の本堂でお参りするときに使えば、
いちばんご利益があるという。
一番上の本堂まで着いた。
本堂の左手に少し小さなお堂がある。
中には黒く変色した木造の像があり、
記憶があやむやだが、このお寺を建てた人らしい。
お寺の一番うえから望む洱海の眺めは格別である。
天気が良く心地よい風が吹き、美味しい空気が、
いっそう展望をすばらしいものにしてくれる。

写真1  写真2  写真3  写真4

帰りは電動バスで帰る。
普通の人は、障害者は上りが不便と思っている人がほとんどだが、
私の足は下る方が苦手だ。確かに疲労や疲れは上りの方が辛いが、
身体機能面では下りの方がしんどい。
電動バスで崇聖寺三塔公園まで下り、
途中で池に写った三塔をバックに写真を取り、
再び電動バスで駐車場に向かった。

車で5分ほど走ると大理古城に着いた。
古い瓦葺の屋根のお土産物屋がならんでいるが、
ほとんどの屋根がゆがんでいたり、屋根から雑草が生えたりしている。
綺麗に石で敷き詰められた道路を歩くと、『五華楼』という、
大理古城の中心にあたる建物が見えてきた。数年前に復元されたが、
かっては1万人もの人を収容したこともあるという建物だ。
南の方へお土産屋のたくさん並んでいる道を歩いていると、
5メートルは城壁と、真ん中に『大理』と書かれた大きな城門があった。
門の前にはたくさんの花が植えられ、雲南省らしい雰囲気をだしている。
ここが私たち夫婦の大理観光の終着地だ。

これから、車で麗江へ向かう。
時間は夕方の5時前だ。
楊さんが携帯で、運転手の夏さんを呼んでいるようだ。
どこか近くで待っていたのだろうか、5分もかからないうちにやってきた。
大理古城から南に車で10分ほど行き、夕食を食べてから
私たちの宿泊したホテルのある大理市に行って楊さんを降ろして出発だ。
妻が名残惜しく、楊さんと話をしている。
残り時間も、あとわずかしかないので、通訳なしでふたり話をしてもらった。
後で妻から聞いた話だが、彼女は大学の観光科を卒業しガイドをしているそうだ。
そういわれてみると、私たちの観光コースの、一つひとつがスムーズに、
上手く廻っていて、小さな気遣いがよく伝わってきていた。
良いガイドと別れるのは、本当に寂しい気持ちになってしまう。

彼女の知り合いの店で夕食を食べた。
メニューは昼食と同じような感じだが
『砂鍋魚』にトマトや豚肉なども入ってとても美味しい。
大理の地ビールを1本呑んで食事が終わった。
いよいよお別れである。

店の前に止めてあった車に、ふたりで乗り込んだ。
「また今度、大理に遊びに来ます。
その時も、楊さんがガイドしてね」
妻の楊さんへの最後の言葉だった。
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アジア家庭薬膳料理教室

2006-09-17 | NPO関西障害者国際交流協会
今日は、NPO関西障害者国際交流協会主催の
『アジア家庭薬膳料理教室』
が尼崎で開かれました。

今回は韓国薬膳料理
サムゲタン・ナムルでした。
講師には、コウ・ジュンジャーさんをお招きし、
26名の参加者で開かれました。

コウ・ジュンジャーさんは、在日韓国人の娘として、
お母さんに師事して伝統的な韓国家庭料理を学びました。
現在は尼崎に、在住韓国人グループを営みながら、
コリアン料理研究者として料理教室講師をつとめています。
他にも、韓国語の翻訳や通訳など幅広く活動をされています。

コウ先生の料理は、辛いだけの韓国料理ではなく、
身体にやさしい、胃にうれしい料理を、心がけています。

障害者や、子供連れのお父さんなどが、
楽しく料理を作り出来上がった、サムゲタンやナムルを食しました。

最後には車椅子障害者の池田和美さんの
『千里の風』と言う歌を披露しました。
前半は中国語、後半が日本語で、伴奏無しの肉声だけの歌でしたが、
美しい歌声と詩の内容に感動され、涙ぐむ人もおられました。
NPO関西障害者国際交流協会では、
今年3月に中国から障害者の書画芸術家2名をお招きし、
作品展を開催しましたが、次は日本の障害者で芸術活動をしている人が、
中国でコンサートや作品展を行い、
障害者の芸術分野における国際交流を支援する取り組みを考えています。
今回は、理事長が日本語の歌詞を中国語に翻訳し、池田和美さんが歌われました。

次回は11月に中国薬膳料理を行います。

料理教室の様子
写真1  写真2  写真3
写真4  写真5  写真6

このブログは、色の変わっている場所をクリックすると、
写真が見れるようになっています。
以前の投稿も同様に、写真が見れるようになっています。
コメント (3)
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雲南省旅行記(20)

2006-09-16 | 雲南省旅行記
洱海公園から車で30分ほど走ると『周城』についた。
まずは昼食の時間だ。
ガイドの楊さんが、
「早く行かないと、良い席がなくなるので急ぎましょう」
と言い、駐車場に車を置き、南側にあるレストランにはいった。
小さな看板があるだけで、中国で良く見たレストランとは雰囲気が違う。
中央に中庭を作り、木や花を植えている。
周囲四方に石で高さ1メートルほどの土台を作り、
その上に2階建ての住居を建てている。
白族独特の建築様式で『四合五天井』と言うそうだ。
私たちの入った所はレストラン向けに入り口側がお土産物屋、
三方と廊下がレストランになっている。
天気も良いので、廊下で中庭を見ながら食事をした
ここでは『砂鍋魚』と言う、鯉に鶏肉・野菜などを
素焼きの鍋に入れる料理が出てきた。
薄味で、素材のうまみが出て美味しい。
しかし、他にも四皿とスープが出され、
半分も食べることが出来なかった。
私は食事中に3箇所も蚊にかまれた。
雲南十八怪の、
「雲南はとにかく蚊が多い」
と言うのを思い出した。

食事が終わり、駐車場を通り過ごし北の方に歩くと、
立派な壁に沿って市場が出ていた。
周城は藍染めの産地で、民族衣装を着た白族のお婆さん達に、
何度も「お土産を買っていきませんか」と声をかけられた。
市場を過ぎると、観光バスがたくさん止まっている道路に出た。
『蝴蝶泉』に着いたようである。
中国ではドラマや映画でかなり有名な観光地らしい。

昔、蒼山のふもとの村に雯姑(ぶんこ)という美しい娘が住んでいた。
猟師の霞朗(かろう)とは仲の良い恋人同士だった。
しかし雯姑が領主の息子に見初められ、連れ去られてしまった。
後を追った霞朗は、努力の末に雯姑をなんとか救い出すことが出来たが、
無底潭(底なしの泉)まで逃げたところで、官兵に取り囲まれてしまった。
逃げ場をなくした雯姑と霞朗は無底潭に身を投げた。
すると突然、雷鳴が轟き嵐になった。
官兵が立ち去ると嵐が止み、泉の中から一対の七色に輝く蝶が現れ、
その後には無数の蝶が次々に飛び出して来たという。
雯姑と霞朗をしのび泉の名前を『蝴蝶泉』にしたという。
入り口を入ると奥の泉まで、木の中を歩く道と、
舗装した電動バス専用の道があった。
私たちは歩かずに、電動バスに乗って蝴蝶泉の手前まで行った。
電動バスを降り少し歩くと、木々の中に透き通った水を蓄えた蝴蝶泉があった。
すぐ横に老木が一本あり、枝葉が泉の上を覆っている。
旧暦4月に花が咲くと、色鮮やかな蝴蝶が群がって、
飛びまわるように見えるらしい。
7月の終わりには花がなかったが、木の枝のいでたちが、
雰囲気をかもし出してくれている。
妻は昔見た映画のことを楊さんと話し合い、上機嫌だ
その手前には蝴蝶泉から流れ出た水が流れ出して小さな川を作っている。
その流れ出た水に触れると、
1回目は瞳が輝く。
2回目がお金持ちになる。
3回目は彼女ができる。
のだそうだ。
私は手を伸ばして触ろうとしたが、足場が悪く近寄ることが出来ない。
水が落ちて小川になった所で3回触った。
「日本には残り福って言葉がある。これだけの人の残った福が、
少しずつでも廻ってきたら、私は大金持ちだ!」
勝手な解釈だが、気分的なものだから、まぁ良いだろう。
少し下った所にも池があり、その向こうは蝶々館というドーム型の屋根をした小
さな建物があったが、蝶は西双版納でも見たので先を急ぐことにした。
電動バスで出口まで行くと、運転手の夏さんが待っていてくれた。
障害者を迎えに行くからと、交渉してくれたらしい。
車に乗り込み、大理古城の方へ向かった。
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雲南省旅行記(19)

2006-09-14 | 雲南省旅行記
ロビーには8時前に行きチェックアウトを済まして待っていた。
妻が民族衣装を着た女性と話をしている。
「もうすぐ8時だ。ガイドの楊さんは遅刻だな」
「これがガイドの楊さんだよ」
女性は服装で雰囲気が変わると言うが、
特に長い髪を、たくさん飾りの付いた白い帽子に入れると
昨日とあまりにも変わりすぎて解からなかった。
予定通り、観光船に乗るため、洱海公園にある港に向かった。
乗船場の建物に着くと、楊さんはチケットを買うのに並ぶから、
ここで待っていてください。もうすぐ、踊りが始まります。
と言って、売り場の方に行った。

しばらくすると20人はいるだろうか?
民族衣装を着た若い女性が出てきた。
スタイルが良く、美人ばかりである。
4人ごとに白を基準としているが違った衣装で、
手には70センチほどのステッキをもち踊りを始めた。
写真1 写真2 写真3 写真4 写真5
途中から民族衣装を着た男性も20人ほど踊りに加わり始めた。
30分ほど踊りや演劇を行い、ショーが終わった。
終わる頃には観光船に乗る人で、込み合っている。
ショーが終わってから、順次に観光船が出航するようだ。
楊さんが近くにやってきて、
「9時20分出航の船に乗ります。建物のベンチで待っていてください」
と言った。あと30分ほどある。
ベンチに座っていると、
「あの人。どこかで見たことがある」
と声をかけた。
なんと20年程前に、北京で障害者関係の仕事をしていた時に知り合った、
聾学校の先生だそうだ。
凄い偶然だ。中国の人口が13億人で、日本から旅行に行った妻と出会うなんて、
しかし、ツァーで来ている先生はすぐに乗船しなければいけない。
すこしだけ話をして別れた。

私たちの乗船時間が来た。
白く他の船より大きく立派である。
1階の船室でひとり20元を出すと、テーブルと椅子にお茶が付いてくる。
3時間ほどの時間なので、甲板で見学して疲れたら休憩の為に頼んだ方が良いと
言うので揚さんにお願いをする。
いよいよ出航だ。
3階の甲板に出て景色を見る
天気が良く、心地よい風が吹いて蒼山の眺めもすばらしい
1階客室は、両端に団体用のソファーがあり、
その中に6人用の丸テーブルが20ほど置いてある。
そして5リットルは入るポットにお茶を入れ、各テーブルに1つ置いてある。
番号の書いた紙コップを各席にひとつずつ置いてあり、
その番号の席が私たちの休憩する場所になっている。

私たち夫婦は、上海から来た母親と子供2人、母親の姉と相席になった。
子供たちは中学生と高校生の姉妹で、昆明の親戚の家に寄ったついでに、
大理の観光に来たそうだ。
甲板に出ていた子供たちが帰って来た。
私たちが日本から来たと分かると、質問攻めにあった。
ふたりとも大のアニメファンで、それも中国のアニメでなく
日本のアニメが好きなのだそうだ。
ドラゴンボールとワンピース、他にも私の知らないアニメまで、
「見たことがありますか?」
「日本でも人気がありますか?」
などと質問してくる。
面白いのは
「日本って、よく地震が起きるのですね。日本の海賊版を見ていたら、
地震速報って画面の上に出ています」
日本語は分からなくても、漢字で意味が分かるのだ。
日本のビデオやDVDは高いので、日本に留学している友達に、
テレビから録画してもらったり、海賊版を廻して見てるそうだ。

楊さんが来て、もうすぐ私たちの『三道茶』の時間だと言う。
お茶と民族舞踊が船の中で見ることが出来る。
2階には小さな劇場が造られていて、交替で観るようになっている。
最初の方は、男女の若い民族衣装を着た人たちが、
船に乗る前に見たのと同じ踊りを踊っていた。
次に白族の結婚式を再現した踊りが始まった。
プロポーズの方法から結婚式、結婚後の様子などだ。
白族の女性は頭にたくさん飾りをつけた帽子をつける。
片側に白い紐の束がつけてあり、
男性が触るとプロポーズの意味になるそうだ。
舞台の花嫁は何故か真っ黒のサングラスをかけ、
小さな鏡を首からぶら下げている。
サングラスは泣いた目を隠す為で、鏡は魔よけらしい。
最初のお茶は、苦い『烤茶』。烤とは「あぶる」の意味で、
茶葉をあぶってからお湯を入れる。
2杯目はクルミや黒砂糖の入った甘い『甜茶』
最後は生姜や山椒が入った『回味茶』
これらを順番に小さな紙コップに入れて持ってくる。

20分のお茶と民族舞踊が終わった。
次は南詔風情島へ立ち寄るらしい。
人工に造られた浜の横船が停泊した。
高台には大きく真っ白な大仏が立っている
楊さんの説明では仏様なのだが、日本の大仏よりはスマートで女性っぽい。
その先にはホテルがあるそうで、港の裏の方に行く通路には、
トンバ文字で書かれた絵(?)がかけられていた。
港の裏にある広場には南詔国時代の有名人だろうか?
が建てられていた。
船に帰る途中で楊さんが、
あのが私の生まれたところです
と指を刺した。
レンガで造られた家が数件見ることが出来る。
自然に恵まれた良い場所だ、と思うのは、
日本で生まれた、私だけだろうか?

30分ほど島を見学して船に戻り、南詔風情島の港を出航した。
たくさんの観光船があり、少しずつ時間をずらして、
同じコースを廻っているようだ。
11時50分に洱海公園の港に帰って来た。
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