午後6時に大理を車で出発し、3時間から3時間半で麗江に到着、
そのままホテルにチェックインすると言う予定だ。
最初の30分は、洱海と蒼山を見ながらのドライブだが、
それ以降は、広くゆったりとした高原や山道ばかりだ。
農作業の帰りの人たちが、背中に竹で編んだ大きな籠をかつぎ歩く風景や、
犬を1匹従え、山羊を何十匹も連れて家路に帰る人。
放し飼いの牛を、小ぶりの馬に乗って集めている人など、
観光地化されたものでなく、雲南の人々の日常生活に、
一部ではあるが見ることが出来た。
もちろん車の窓から見える景色のどれもがすばらしく感動的だ。
7時半を廻った頃から日が傾きだした。
山の奥のほうにまでぽつりぽつりと、
小さな小屋とも家とも呼べる建物に明かりが灯る。
夏さんに何をする為の小屋か聞いてみた。
低い声で、ゆっくりと話をしだした。
「雲南省は、漢方薬のたくさん取れる所とか、
山菜やキノコなどが豊富にあると聞いたでしょ。
それらを取って生活している人たちの家です。
電気やガスも無い所で生活をしているのですよ・・・」
この辺は、イ族の男性が町から流れてきた小屋が多いそうだ。
夏さんから、現実の少数民族の暮らしを聞くことが出来た。
今でこそ雲南省は観光ブームにのり、少数民族の人たちも、
少しは観光産業に従事する人が増えたが、
若い女性や一部の男性だけである。
歳を取った少数民族の人たちは、文化レベルの違いや、
言語の違いで工場やその他の職に付く事が出来ず、
山に入って山菜や漢方薬を取る事しか出来ない人がたくさんいる。
それも、開拓や観光地化が進みどんどんと奥の方に追いやられて行く。
朝早くから夜遅くまで収穫をしても、安い値段でしか引き取ってくれない。
何処の国や世界でもよくある話なのだが、
では、日本の裕福な生活をしている人はすべて幸せなのか?
と考えたら、山奥で電気やガスが無くても幸せな人はいると思う。
ただ、現実には電気やガス、そしてお金があった方が、生活は楽だろう。
日が沈みきって街灯も対向車も無い、
真っ暗な道路を走っているとき、夏さんがぽつりぽつりとしゃべり出した。
「昔は会社でトラックの運転手をしていたが、
7年前に倒産してしまい、
仕事を探しても見つからなく、
妻のパートだけで生活していて、
子供も大きくなってきて、
思い切って4年前、
ローンでこの車を買ったけど、
給料は安いし、
もうだいぶん傷んで来て、
ローンが終わったら、
またローンで車を買わないと・・・」
生活にまで私たちは立ち入る気は無いが、
奥さんと子供の為にがんばってるんだなぁ。
というのは分かる。
それから夏さんは、私たちが退屈しないようにか、
自分が眠たくならないようにかは分からないが、
若いころは歴史が大好きだったそうで、
雲南省の雑学的歴史の話をたくさんしてくれた。
麗江空港の標識が見え出した。
20分ほどでホテルに着くと言う。
麗江も新市街地区と古城地区に分かれていて、
私たちのホテルは新市街地区にあると言う。
古城地区の夜景は綺麗で有名なので、これから行きますか?
と言われたが、すでに夜の10時前と遅くなったので、
ホテルに直行するようにお願いした。
ホテルには、張さんと言う、髪の毛が長く、
若い女性が私たちを待っていた。
「明日の出発は8時です。ロビーで待っていてください」
「夏さんはどうするのですか?」
返事をしないで知らん顔をしていた。
たぶん、今夜は車の中で眠るのだろう。
私たちもそれ以上は何も言わず、部屋に向かった。
約束通り、7時55分に朝食を食べ、
チェックアウトを済まして、ロビーで待っていた。
8時前に夏さんは来たが、肝心の張さんが来ない。
8時5分になってホテルに来たが、
「今から朝食を食べるので少し待って・・・」
とレストランの朝食バイキングを食べに行ってしまった。
「今日はハズレだな!」
結局、夏さんの車に乗り込み、出発したのは8時30分だった。
予定では玉龍雪山に午前中行って、
午後から麗江古城に行く予定だったが、
玉龍雪山の午前中は混雑し、バスもロープーウェイも並んで時間がかかるので、
麗江古城に先に行くことにした。
ホテルから車で10分と近い距離にある。
入り口には大小の水車が二つゆっくりと廻っていた。
その横の壁には『世界文化遺産 麗江古城』と書いてある。
水車から先は水路が3つに分かれている。
麗江は800年ほど前に木(ムー)氏一族によって開発されたと言う。
石畳や水路などこの頃に造られたという。
凄いのは、夜になると水門を閉じ、
川の水位を上げ、水を道や広場に流して掃除をするという。
西から東へ少し傾斜していて、西の川からあふれ出た水は、
東の川に流れていくと言うのだ。
それが800年前から今でも続いていると言う。
私たちは、上(北)の方から見学することにした。
川に沿って石畳の道が続き、川向こうの家々には木の橋がかけられ、
独特な雰囲気が漂っている。
トンバ文字を書いた壁を越えると、「単騎千里を走る」と書かれた橋がある。
中国での高倉健は凄い人気だそうだ。
もう少し奥の方へ歩くと『四方街』と言う広場に出た。
張さんが
「2時間したらこの場所に来てください」
と言う。麗江古城の中心になるところで、
迷う心配はないと言う。
妻と二人で今度は南の方に歩き出した。
来たときは感じなかったが、観光客がどんどん増えてくる。
お土産物屋も活気が出てくるのは良いが、
家々がすべてお土産物屋か喫茶店もしくは食堂である。
それも赤いちょうちんをぶら下げたり、民族衣装を着た若い女性が
喫茶店の客引きをしたりと観光地化が進みすぎ、期待はずれだ。
残念だが、これも時代の流れだろう。
お土産物屋が並んでいる通りに、有料公衆トイレがあった。
ここでも日本の障害者手帳を出そうとしたら、
「かまいません。どうぞ」
と無料で入らせてもらった。
中国の良いところである。
裏手の細い路地に入ると、川の水で洗濯している主婦や、
壁に挟まれた水路など、まだたくさんの風情が残っている。
今度は西の方の高くなった方へ行ってみた。
日本ではあまり見られなくなった練炭に七輪で料理をしている
ナシ族のおばあさんなどを見ることが出来た。
丘の中腹で、展望台のある喫茶店に入った。
『すばらしい!』
の一言だ。
まさに『甍の波』である。
昔日本でも、このような風景があったのだろうか。
時間を忘れて眺めていた。
妻がそろそろ時間だと言うので、四方街へむかって歩き出した
そのままホテルにチェックインすると言う予定だ。
最初の30分は、洱海と蒼山を見ながらのドライブだが、
それ以降は、広くゆったりとした高原や山道ばかりだ。
農作業の帰りの人たちが、背中に竹で編んだ大きな籠をかつぎ歩く風景や、
犬を1匹従え、山羊を何十匹も連れて家路に帰る人。
放し飼いの牛を、小ぶりの馬に乗って集めている人など、
観光地化されたものでなく、雲南の人々の日常生活に、
一部ではあるが見ることが出来た。
もちろん車の窓から見える景色のどれもがすばらしく感動的だ。
7時半を廻った頃から日が傾きだした。
山の奥のほうにまでぽつりぽつりと、
小さな小屋とも家とも呼べる建物に明かりが灯る。
夏さんに何をする為の小屋か聞いてみた。
低い声で、ゆっくりと話をしだした。
「雲南省は、漢方薬のたくさん取れる所とか、
山菜やキノコなどが豊富にあると聞いたでしょ。
それらを取って生活している人たちの家です。
電気やガスも無い所で生活をしているのですよ・・・」
この辺は、イ族の男性が町から流れてきた小屋が多いそうだ。
夏さんから、現実の少数民族の暮らしを聞くことが出来た。
今でこそ雲南省は観光ブームにのり、少数民族の人たちも、
少しは観光産業に従事する人が増えたが、
若い女性や一部の男性だけである。
歳を取った少数民族の人たちは、文化レベルの違いや、
言語の違いで工場やその他の職に付く事が出来ず、
山に入って山菜や漢方薬を取る事しか出来ない人がたくさんいる。
それも、開拓や観光地化が進みどんどんと奥の方に追いやられて行く。
朝早くから夜遅くまで収穫をしても、安い値段でしか引き取ってくれない。
何処の国や世界でもよくある話なのだが、
では、日本の裕福な生活をしている人はすべて幸せなのか?
と考えたら、山奥で電気やガスが無くても幸せな人はいると思う。
ただ、現実には電気やガス、そしてお金があった方が、生活は楽だろう。
日が沈みきって街灯も対向車も無い、
真っ暗な道路を走っているとき、夏さんがぽつりぽつりとしゃべり出した。
「昔は会社でトラックの運転手をしていたが、
7年前に倒産してしまい、
仕事を探しても見つからなく、
妻のパートだけで生活していて、
子供も大きくなってきて、
思い切って4年前、
ローンでこの車を買ったけど、
給料は安いし、
もうだいぶん傷んで来て、
ローンが終わったら、
またローンで車を買わないと・・・」
生活にまで私たちは立ち入る気は無いが、
奥さんと子供の為にがんばってるんだなぁ。
というのは分かる。
それから夏さんは、私たちが退屈しないようにか、
自分が眠たくならないようにかは分からないが、
若いころは歴史が大好きだったそうで、
雲南省の雑学的歴史の話をたくさんしてくれた。
麗江空港の標識が見え出した。
20分ほどでホテルに着くと言う。
麗江も新市街地区と古城地区に分かれていて、
私たちのホテルは新市街地区にあると言う。
古城地区の夜景は綺麗で有名なので、これから行きますか?
と言われたが、すでに夜の10時前と遅くなったので、
ホテルに直行するようにお願いした。
ホテルには、張さんと言う、髪の毛が長く、
若い女性が私たちを待っていた。
「明日の出発は8時です。ロビーで待っていてください」
「夏さんはどうするのですか?」
返事をしないで知らん顔をしていた。
たぶん、今夜は車の中で眠るのだろう。
私たちもそれ以上は何も言わず、部屋に向かった。
約束通り、7時55分に朝食を食べ、
チェックアウトを済まして、ロビーで待っていた。
8時前に夏さんは来たが、肝心の張さんが来ない。
8時5分になってホテルに来たが、
「今から朝食を食べるので少し待って・・・」
とレストランの朝食バイキングを食べに行ってしまった。
「今日はハズレだな!」
結局、夏さんの車に乗り込み、出発したのは8時30分だった。
予定では玉龍雪山に午前中行って、
午後から麗江古城に行く予定だったが、
玉龍雪山の午前中は混雑し、バスもロープーウェイも並んで時間がかかるので、
麗江古城に先に行くことにした。
ホテルから車で10分と近い距離にある。
入り口には大小の水車が二つゆっくりと廻っていた。
その横の壁には『世界文化遺産 麗江古城』と書いてある。
水車から先は水路が3つに分かれている。
麗江は800年ほど前に木(ムー)氏一族によって開発されたと言う。
石畳や水路などこの頃に造られたという。
凄いのは、夜になると水門を閉じ、
川の水位を上げ、水を道や広場に流して掃除をするという。
西から東へ少し傾斜していて、西の川からあふれ出た水は、
東の川に流れていくと言うのだ。
それが800年前から今でも続いていると言う。
私たちは、上(北)の方から見学することにした。
川に沿って石畳の道が続き、川向こうの家々には木の橋がかけられ、
独特な雰囲気が漂っている。
トンバ文字を書いた壁を越えると、「単騎千里を走る」と書かれた橋がある。
中国での高倉健は凄い人気だそうだ。
もう少し奥の方へ歩くと『四方街』と言う広場に出た。
張さんが
「2時間したらこの場所に来てください」
と言う。麗江古城の中心になるところで、
迷う心配はないと言う。
妻と二人で今度は南の方に歩き出した。
来たときは感じなかったが、観光客がどんどん増えてくる。
お土産物屋も活気が出てくるのは良いが、
家々がすべてお土産物屋か喫茶店もしくは食堂である。
それも赤いちょうちんをぶら下げたり、民族衣装を着た若い女性が
喫茶店の客引きをしたりと観光地化が進みすぎ、期待はずれだ。
残念だが、これも時代の流れだろう。
お土産物屋が並んでいる通りに、有料公衆トイレがあった。
ここでも日本の障害者手帳を出そうとしたら、
「かまいません。どうぞ」
と無料で入らせてもらった。
中国の良いところである。
裏手の細い路地に入ると、川の水で洗濯している主婦や、
壁に挟まれた水路など、まだたくさんの風情が残っている。
今度は西の方の高くなった方へ行ってみた。
日本ではあまり見られなくなった練炭に七輪で料理をしている
ナシ族のおばあさんなどを見ることが出来た。
丘の中腹で、展望台のある喫茶店に入った。
『すばらしい!』
の一言だ。
まさに『甍の波』である。
昔日本でも、このような風景があったのだろうか。
時間を忘れて眺めていた。
妻がそろそろ時間だと言うので、四方街へむかって歩き出した
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